逸見氏(へみし、へんみし)は、日本の氏族。以下の2つの流れがある。甲斐源氏は、大治5年(1130年)に源義清(武田冠者)・清光(逸見冠者)が常陸国より甲斐国市河荘に配流され甲斐各地に土着した一族。清光は官牧の発達していた現在の北杜市域(旧北巨摩郡域)の逸見郷へ進出し、清光の長子光長が逸見姓を称する。平安時代末期、光長は一時的に甲斐源氏の惣領であったと考えられているが、甲斐源氏は現在の韮崎市域に拠った弟信義が始祖となった武田氏が主流となり、武田氏は甲斐源氏一族を率いて源頼朝の挙兵に参加し、治承・寿永の乱において活躍する。『尊卑分脈』には直系子孫の系図が見られるが、『吾妻鏡』などの記録には光長はじめ一族の動向は見られない。鎌倉時代には、『吾妻鏡』建暦3年(1213年)5月6日条によれば、同年5月の和田合戦において逸見五郎・次郎・太郎らが和田義盛方に属して討死したという。なお、和田合戦では甲斐都留郡の古郡氏も義盛方に属して戦っている。また、『承久兵乱記』によれば、承久3年(1221年)の承久の乱では「へん見のにうだう」が東山道軍に属して上洛している。『尊卑分脈』によれば、光長の孫にあたる惟義とその子息・義重も承久の乱に従軍し、惟義は摂津国三条院を与えられ、義重は美濃国大桑郷を与えられたという。惟義は和泉国守護となっており、義重の子孫は大桑氏を称した。逸見氏の直系子孫は摂津や美濃など西国のほか若狭国、上総国など武田氏が守護職を得た諸国へ移り被官化したと考えられており、一部の庶流子孫が甲斐に残留していたと考えられている。光長の系統とは別に、『吾妻鏡』元暦2年(1185年)6月5日条によれば、平宗盛の家人である源季貞の子・宗季(宗長)が光長の猶子となり、逸見氏を称したという。『吾妻鏡』によれば、宗季は「宗長」と改名し、建仁3年(1203年)に比企能員の乱に際して大江広元の従者として名が見られるが、その後の動向は不明。また、『一本武田系図』によれば武田信義の4男・有義も一時期逸見氏を称し、『浅羽根本武田系図』によれば、光長の弟安田義定の子・定長(四郎)も逸見姓を称したという。有義の子孫は吉田氏や小松氏、万為氏を称したという。南北朝時代には安芸国守護である武田信武・氏信に従い、軍忠状を与えられている逸見有朝が見られるほか(「小早川家文書」)、武蔵野合戦に参加しているものもいる。室町時代の甲斐国では、応永23年(1416年)に鎌倉公方の足利持氏に対し前関東管領の上杉禅秀が挙兵した上杉禅秀の乱において、守護・武田信満が禅秀方に加担して滅亡し、守護不在状態となる。これにより甲斐では国人衆が台頭し、有義系の子孫と言われる逸見有直は室町幕府と対抗する足利持氏の支援を受け、有直は甲斐守護の座を幕府に要求した。これに対して室町幕府では、将軍・足利義持が高野山に隠棲していた武田信元、次いで武田信重を甲斐守護として派遣した。戦国時代には武田一族の今井氏が逸見姓を称している。また、戦国時代の逸見一族としては、小弓公方足利義明の家臣逸見祥仙や、若狭武田氏の重代の家臣でのちに独立し、また織田信長に下った逸見昌経などが知られる。また逸見氏の一族として甲斐武田家重臣の飯富虎昌の飯富氏や、安土桃山時代に活躍し、昌経の没後にその遺領の一部を継承した溝口秀勝がいる。江戸時代、逸見四郎義年(1747年 - 1828年)は多摩3大流派の1つ甲源一刀流を興す(多摩3大流派とは、甲源一刀流・天然理心流・柳剛流の総称)。逸見四郎義年は甲斐源氏の逸見家19代目当主にあたる。千葉介常兼の8男・常広が逸見氏を称したことに始まる。常広の子孫は匝瑳党として発展した。逸見氏(いつみし)は、逸見(いつみ)姓の人物を示す言葉(逸見政孝など)。上述の逸見氏の末裔の一族も存在するといわれる。
出典:wikipedia
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