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フォンテーヌブローの勅令

フォンテーヌブローの勅令(フォンテーヌブローのちょくれい、)は、 1685年10月18日にフランス国王ルイ14世により署名された、ナントの勅令を破棄する法令である。あらかじめ1663年から1683年にかけて、竜騎兵によりユグノー教徒は拷問にかけられ、カトリックへ改宗させられた。1629年のアレスの講和では、ナントの勅令によってユグノー教徒らに与えられていた特権が、特に軍事的条項に関して、大幅に削減された。その後、ユグノー教徒、すなわち当時のカトリック教会が呼んだところの「偽改革派(RPR:Religion Prétendue Réformée)」は若干の権利の削減以上にはあまり大きな打撃を受けずに30年間ほど暮らしてはいたが、彼らが特権を完全に失わなかったのは恒常的な法的闘争のおかげでもあった。宰相 リシュリューは外交上の理由から、ナントの勅令をそれなりに尊重した。 三十年戦争の渦中にあって、ドイツのプロテスタント派の国々やスウェーデン王国と同盟を結ぶためには、フランス国内のユグノーたちを軽視できなかったのである。しかし、1642年にリシュリューが、1643年にルイ13世が没すると、ユグノー派にとっては不安な時代を迎えることとなった。リシュリューの時代には比較的安定していた状況も、ジュール・マザランが宰相となるに至り、もはや見通しの明るいものではなくなっていた。歴史家ラブルース(E. Labrousse)によれば、イギリスにおける宗教改革の流れ、中でも1649年にチャールズ1世が清教徒の議会によって断頭されたことが、フランスのユグノー派の立場をより複雑なものにした。彼らは王殺しとプロテスタンティズムの間の思想的関連を追及されることから自己弁護しなければならなくなったのである。そのため彼らは長老派を激しく糾弾し、絶対王政への忠誠を誓った。その一方で、マザランもまた外交上の理由から、フランスのユグノー派に配慮をみせた。フランスがスペインと戦うにあたって、イギリスの中立を確保するためには、クロムウェルの機嫌を取る必要があったからである。結果として1652年5月、フロンドの乱の際に新教徒が王党派を支持したことを感謝する王の宣言が発された。しかし1655年及び1657年にイギリスと貿易および軍事同盟を締結すると、マザランは再び非妥協的な態度に転じ、それまでの譲歩政策を撤回した。彼の意図は「偽改革派」の勢力を徐々に削ごうとするものであった。フランス改革派教会(Eglise Réformée de France)の全国教会会議は、法規と神学に関する最高決定機関として新教徒にとって非常に重要なものであったが、1659年にルーダンで開かれたのが当局から許可された最後の会議となった。マザランはまた外国人牧師、特に新教徒の中心地ジュネーヴからの牧師招聘を禁じた。加えてプロテスタントたちに大きな打撃となったのは、マザランが審議会を設置して、ナントの勅令を「文字通り」に遵守させた、すなわち新教徒に対して勅令に記されていない事項をすべて禁じたことであった。勅令の厳格な遵守が求められたことにより、プロテスタントの宗務局は審議会に対して、各都市において教会を設置する権利について、法的かつ明文化された証拠を示す必要が生じた。ボワソン(D. Boisson)によれば、ここにこそ王政の転機があるという。この後、決定的な出来事は1660年代まで訪れなかったが、新教徒に対する法的規制の動きは加速し、他にもナントの勅令で保証された特権を奪う複数の政策がとられた。新教徒たちは将来を宮廷に、そして王の正義に委ねていたにもかかわらず、最高権威機関側は彼らに対して二つの相反する態度を使い分けていった。つまり、国内のユグノー派に対する緩和的な政策でプロテスタントの同盟国の機嫌をとる一方で、彼らをよりコントロールするためにその特権を削減していったのである。ベアルン地方での1620年代のユグノーの反乱以後、大規模な反乱は起きなくなった。ベアルンでの反乱に決着をつけたアレスの講和によって、ユグノー派が権力を持つ地位につくことや軍隊に加わることが禁じられたため、1630年以降、貴族階級のプロテスタントたちは、王を喜ばせ、政治的野心を達成するために次々にカトリックへ改宗した。新教徒が信仰を守るよりも、特権を守るために王に忠誠を誓い、改宗すらした、このアレスの講和からナントの勅令廃止までの時期を、レオナール(E.G. Léonard)のようなプロテスタントの歴史家が「レタルジー(嗜眠)」と呼んだことも無理はない。ナントの勅令は、新教徒による党派をカトリック同盟に対峙するものとして利用しようという政治的意図に基づくものであった。しかしながら、ユグノーの党派が次第に弱体化し最終的に消滅に至り、またカトリック同盟側も信心家の集団の様相を呈して政治的性格を失っていったために、結局のところ新教徒に政治的実用性はなくなってしまった。したがって、ナントの勅令の廃止によってユグノー派を弱体化し、カトリックを国教として再確認することは、カトリック教会と宮廷の信心家たちにとっては正当な根拠のあることに思われた。ラブルースが指摘するように、プロテスタント党の消滅以後はユグノーという少数派は国家にとってもはや実態のある脅威ではなかったのである。少数派で無害なよき臣民であり、王権に忠実で経済活動に熱心な新教徒たちの運命は、もはや審議会ではなく、王の手に握られていた。宗教的少数派、異端としてその存在を許容することは、ある程度はユグノー派の地位を低下させ、彼らの重要性を減少させることにつながったが、フロンドの乱以降、ルイ14世は反体制分子や少数派の存在を嫌ったため、ユグノー派の存在自体が王にとって目障りなものとなっていった。フランソワ1世以来、歴代フランス王の目指すところは、揺るぎない絶対的権力を持つ政権の確立であり、「唯一の信仰、唯一の法、唯一の王 une foi, une loi, un roi」のもとに安定した国家を築くことであった。唯一性は絶対に守られるべき規範であり、従ってこの一体性に異議を唱えるものは当然反逆分子と見なされたのである。多数派とは異なる宗派に属するフランス改革派教会はまさにこれにあてはまった。新教徒はルイ14世の絶対王政的な政治方針に逆行する存在であり、従属させる必要があったのである。そのためにはカトリックの権威を復活させることがほぼ唯一の選択であったと言えるだろう。前述の通り、1656年にはマザランがナントの勅令の遵守を命じたが、実際には1661年まではこれは実行されなかった。1661年以降1679年までの間に、12通の王の顧問による制限的な勅令が発布されている。1665年、カトリック側の審議委員に書類審査の独占を許す決定が下された。この時まで審議会は2人の法学者によって構成され、一方はカトリックで、しばしば納税区の知事やその代理人であり、もう一方はプロテスタントだった。いくつかの教会は、立地などを理由に取り壊された。1661年から 1669年の間に出された多くの宣言や王の決定によっても、ユグノー派に対する政治的圧力が増大していった。これらの宣言の大半は牧師の説教についてのものであり、例えば、教会外及び教会のない町での説教を禁じるものであった。詩編についての決定では教会の外でこれらを歌うことを禁じた。また別の決定では、プロテスタントの葬儀について規制が加えられた。1663年には夜明けから日没までの間の葬儀が禁じられ、参列者は30人に制限された。その数は1664年には10人に削減されたが、1669年にこれらの人数制限は解除された。1669年2月1日の宣言はそれまでの複数の法令を無効化、あるいは緩和するもので、反プロテスタント政策に一時的な中断をもたらし、新教徒たちにとって束の間の休息を与えるものであったのである。他の政策のいくつかは改革派教会の組織そのものに関わるものであった。討論集会の開催は禁止され、地域の教会会議は王顧問の審議を要するものとなり、1663年には異なる地域の教会同士が手紙によって連絡を取りあうことが禁じられた。そして、反プロテスタントの勅令、王の決定及び宣言のうちの少なくないものが新教徒たち自身に関するものであった。高位の職務を志望することが禁じられ、ある種の職業に従事することが禁じられた。なお、ここにあげた法令は決して網羅的なものではなく、1660年代に反ユグノー法令制定の第一波があったことを実証するための例に過ぎない。新教徒の反応は、まずは法的な手段に訴えようとするものであり、フランス改革派教会に対する攻撃に抗して数多くの訴訟が行われたが、新教徒側が勝訴することは稀であった。そして、彼等の態度をより硬化させるような状況にあって、新教徒の牧師たちは神学的正統主義、厳格主義に傾き、結果として新教徒コミュニティーはより受動的になり、そしてさらなる制裁に対する恐怖を持つようになっていった。フランスの新教徒たちにつかの間の猶予を与えたのは、再度、国際情勢であった。1672年春、フランス王の軍隊はオランダ(ネーデルラント連邦共和国)を侵略し、オランダ侵略戦争が勃発した。戦争の解決をみたのは6年後のナイメーヘン条約締結によってであった。ここにフランスのヨーロッパにおける覇権が頂点に達し、ルイ14世はパリへの凱旋において「偉大王」(le Grand)の称号を冠せられることとなった。1675年、オランダなどとの戦争を背景に、フランスでは誓絶(異端放棄)を行うユグノー派の人々の数が増加し、その範囲は宮廷人、特に有力者に限らず、こういった人々の注意を引くのに躍起な商人、職人にも広がった。1675年は王会計係からの資金によってポール・ペリッソン(Paul Pellisson)が改宗基金を設立した年でもあった。改宗基金の仕組みは簡単で、改宗者ごとに一定額を与えるというものであった。実はこのようなやり方は決して新奇なものではなく、フランス聖職者会議(Assemblée du clergé de France)では、1598年以来、ユグノーの改宗へ予算の一定額を割り当て、カトリックに改宗した牧師にこれを与えていた。しかし、ペリッソン基金は収入の低い人々、そして詐欺師、ごろつきのような人々ばかりを多くひきつけ、こういった人々は何度も改宗することを厭わなかったので、成果は芳しくなかった。3年間で改宗させた人々は王国全体でせいぜい1万人に過ぎず、しかもその中身は実を伴うものとは言いがたかったのである。ユグノー派の論客たちはカトリック教会のやり方をやましいものと糾弾し、16世紀初頭にローマのサン・ピエトロ大聖堂建設資金を購うために発布した贖宥状を引き合いに出して厳しく批判した。1679年、反プロテスタント法令制定の第2波が始まった。改宗基金の成果は限られたものであった。いまやヨーロッパの覇権を握ったフランスも、「王の善き願い」に従っていては、王国内の新教徒たちの運命については決することができずにおり、それは、以前よりは弱くとも、フランス改革派教会は常に王への忠誠を明らかにしていたからである。しかし、彼らの抵抗の機会も、ナントの勅令による特権の名残も、1679年から1685年にかけては、王顧問の決定によって完全に奪われることとなった。この間になんと80以上もの決定が発されたのである。1679年10月には、改革派の教会会議は宮廷から任命された監視委員を受け入れなければならなくなった。リヨンではセネシャル裁判所とリヨン防御要塞代官ジャン=バティスト・デュリウが任命された。彼は1685年3月18日に始まったリヨン枢機卿総会議に出席した人物でもある。また別の決定は、再びプロテスタントへ戻った人々の苦痛を増すものであった。1680年に発された新しい勅令では、プロテスタントが特定の職業に就くことが禁じられただけでなく、カトリック信者がプロテスタントへ改宗することが禁じられた。さらに1681年6月17日には、カトリックへの改宗が7歳以上に定められた。同年7月、決定によりスダンのアカデミーが廃止され、1684年九月にディーの、1685年1月にソーミュールの、同年3月にプュイローレンスのアカデミーも廃止された。勅令(オルドナンス)はまず、1681年4月11日のドラゴナード(竜騎兵の迫害)として発された。そこには次のように記されていた。ドラゴナードは1681年5月から実施され、 ポワトゥーにマリアック(Marillac)行政官が着任した。ドラゴナードは住民に対する暴力的な説得手段で、王の兵士である竜騎兵がプロテスタント住民の家へ駐屯し、「王の望みにより」あらゆる手段を用いて彼らを強制的に異端放棄させようとするものであった。用いられる手段は住民の抵抗の度合いに応じて、単なる示威行為から略奪、強姦、殺人までさまざまであった。ひとつの村の改宗が完遂すれば、兵士たちは別の村へ移った。この第一次ドラゴナードは宮廷人にとって大いに見世物となり、また彼らにもっとも効果を与えもした。ポワトゥーの新教徒は多くが改宗し、それまでまだ続いていた教会も閉められた。彼らの改宗はカトリックへの真の同意に基づくというよりは恐怖によってなされたものではあったが、結果として大量の改宗者を獲得し、第一次亡命者は 大西洋沿岸の港から逃亡をはかった。プロテスタントの国々では、これらのフランスからの新教徒亡命者によって大きな動揺が引き起こされた。ヨーロッパのプロテスタント君主たちはフランスのユグノーへ助けを申し出、彼らを受け入れて定住を援助した。ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムはユグノー亡命者へ土地税を免除した。3年後、1685年にドラゴナードは再開した。第二次の大規模なドラゴナードは1685年5月より南西部で実施され、ベアルンから開始し、ラングドックをへて、東にはローヌ川流域へ、北へはサントンジュへ及んだ。法の制定がドラゴナードに追い討ちをかけた。1684年8月、プロテスタント派宗務局の大半が施療院へ移転させられ、同年9月には、施療院が宗教組織によって使用されていることを理由にプロテスタントの貧者や病人に対して援助を施すことが新教徒に対して禁じられた。1684年12月、プロテスタントの家族が10家族に満たない場合に礼拝式を行うことが禁じられ、翌年5月、逃亡した新教徒が逮捕された場合、漕役刑に処することが決定された。1685年10月には、すでに多くの新教徒が改宗し、改革派教会は崩壊し、「異端」は根こそぎにされており、もはや王にとっては、すでに過去のものとなり、無用の象徴に過ぎないナントの勅令を破棄するだけとなっていたのである。ナントの勅令破棄は慎重に用意されたが、それでも王の顧問たちの間では議論があった。陸軍大臣ルヴォア(Louvois)、大法官ル・テリエ(Le Tellier)、財務総監査官ペルティエ(Peletier)は王国の宗教的統一に賛成であった。王太子(グラン・ドーファン)ルイはゆっくりと静かに終わらせる方を好んだ。しかし破棄賛成派がばっさりと彼の意見を押し流してしまった。1685年10月17日、ルイ14世はフォンテーヌブローにてナントの勅令を破棄し、10月22日にパリの高等法院により承認された。ルイ14世をナントの勅令破棄に踏み切らせたのには複数の要因があった。外交政策、教皇庁との緊張関係、またフランス王の個人的な傲慢さ(彼は自らのやるべきとしたことや決定に関して決して譲らなかった)も考え合わせるべきであろう。外交面においては、教皇およびカトリック国は、1683年の東ヨーロッパへのオスマン帝国進撃時に、フランスがオーストリアの地へ参戦しなかったことについて、非常に不快な思いを抱いていた。同年の第二次ウィーン包囲において、オーストリアと同盟国の軍隊はオスマン帝国の大宰相カラ・ムスタファ・パシャの軍隊を打ち破り、皇帝レオポルト1世とポーランド王ヤン3世ソビエスキに栄光をもたらした。フランスは、カトリック支配域の東方の脅威からの防衛に参戦しないことがもたらす結果を過小評価していた。それどころか、ルイ14世は長くオスマン帝国と交易しており、ハプスブルク家が東方へ触手を伸ばそうとするのを思いとどまらせようとしていたのである。しかし結局のところ、オーストリア・トルコ戦争はルイ14世がフランドルとブラバントで抱えていた問題を解決するてがかりとなった。おそらく、ナントの勅令破棄はカトリック君主たちに対してカトリック教心を示すことで、ウィーン防衛への不参加を穴埋めする意味があったのであろう。また別の教皇との対立が1680年代初頭に生じ、この問題は王の統治に相当の障害をもたらした。1516年の ボローニャ政教条約(コンコルダート)により、フランス王は司教職の世俗利益の支配者であると取り決められていた。司教職が空席の場合は、王が聖職禄分を得ることができた。しかし、ボローニャ政教条約は1516年以降増設された司教職については及んでなかった。1673年、ルイ14世はこの問題を解決するために、王国の高位聖職者の同意をもって、ボローニャ政教条約の及ぶ範囲をこれらの増設された司教区に広げることを決定した。たった2人の司教が教皇の権利を主張した。そして、1681年10月、教皇インノケンティウス11世のフランス国内問題介入に抵抗する聖職者会合が開かれ、1682年3月19日、「四か条宣言」により、フランス王の教皇および公会議首座司教からの独立と、教皇はフランス国教会の慣習と法を尊重しなければならないことが宣言された。これらの条項はフランス国教会にとって、ローマに対して自主独立を要求する、重大な宣言であった。教皇からの制裁は早かった。イノケンティウス11世は、フランス王の指名した司教の公認を拒否したのである。王は屈服せざるを得なかった。司教は各司教区と中央権力を結ぶ存在であり、従って司教の不在は司教区のヒエラルキー維持と王命伝達に支障をきたしたからである。この問題は10年後の1692年にようやく解決をみた。イノケンティウス11世の後継者インノケンティウス12世はフランス王との緊張関係の改善に努め、1682年の聖職者会合の参加者が公的に謝罪し、ルイ14世も四か条宣言をこれ以上持ち出さないことを命じた。そしてこの間、ドラゴナードの成功により新教徒のカトリック改宗も大きく進展していた。ナントの勅令破棄は、教皇との関係改善、王の世俗特権の教皇への返上、そしてドラゴナード成功後の対応に不可欠であったと言えよう。破棄の勅令の序文において、ナントの勅令は次のように記載されている。すなわち、ナントの勅令は、宗教戦争を脱するための和平的な政治的妥協策であったとされたのである。この条文に従えば、アンリ4世の目的は王国の宗教的統一を達成することにあり、この方針は1598年以来一貫していたことになる。ただし、王は1610年の死去によりその実現をかなえることが出来なかった。そしてその後連続した国内外の紛争により、彼の後継者たちもまた勅令を破棄する機会を得なかった。フォンテーヌブローの勅令の条文は、フランスに平和が訪れ、過去数年の間に多くの人々がカトリックへ改宗した今こそ、王は王国に平和をもたらすためにナントの勅令を破棄することが可能となり、破棄しなければならないのであると述べている。主要な条文の内容は以下のとおりである。最後の条項は多くの歴史家がその解釈をめぐって議論してきたものである。ここでは新教徒に対して宗教上の実践を行うために集会しないことを条件に王国内にとどまることを認めている。この条項は、先行する各条項に規定されたさまざまな制限的内容と、1680年代以降とられてきたさまざまな政策と根本的に対立している。E. ラブルースによれば、彼女が「詐欺的」と判断するこの条項は、勅令破棄に対して激怒するであろうイギリス、オランダ、スウェーデンなどのプロテスタント諸国の反発を和らげるための手段であったと考えられる。B. ウルス(Hours)によれば、本条項は1682年の四か条宣言との関連から考察する必要があり、ルイ14世は、信仰の実践に関連する立法を行う権利を持つ世俗権力と、恒久的なカトリック信仰を保障し、教会に属する教皇権力との境界をはっきりとさせようとしたのであろうというものである。しかしながら、破棄の勅令は外交政策に対して部分的にしか積極的効果をもたらさなかった。イノケンティウス11世は1685年11月16日の教皇小勅書によって王に形ばかりの祝福を述べ、1686年4月30日には教皇によってテ・デウムが捧げられたが、ローマ教皇庁とヴェルサイユの間の緊張はその後も緩むことはなかった。フランスの宮廷は教皇が国王の王国内における支配権の行使を認めることを期待していたが、教皇は書簡により王への褒賞は教皇庁よりも神の御心次第であると述べたのであった。カトリック君主たちは慣例どおり祝辞を送ってきたが、対フランス政策は変更しなかったし、プロテスタントの同盟国とは気まずくなり、それ以外のプロテスタント諸国、特にオランダ総督ウィレム3世はフランスへの攻撃を検討するに至った。このことが後のフランスのヘゲモニーに影響を与えることにも繋がるのである。もちろん、フランス国内のカトリック信者は、熱狂的信心家にとどまらず、王の決定を賞賛した。ルイ14世を讃える賛辞が巻き起こり、セヴィニエ侯爵夫人は「いまだかつて、そしていまより後もいかなる王もこれほどすばらしいことはできないでしょう」と述べ、ボシュエはルイ14世を王国の宗教的統一を成し遂げた「コンスタンティヌスの再来」と呼んだのであった。しかし、そうした賞賛の声の裏で、まだ残っていた多くの新教徒がフランスを脱出して国外、特にドイツへ移住した。中でも「ポツダム勅令」を出して彼らを保護したブランデンブルク選帝侯国(後のプロイセン王国)へは数万人が移住し、18世紀初頭にはベルリンの人口のうち三分の一はフランス人だったとは、よく言われることである。現在でもドイツにはユグノーの末裔が住んでいる(例えば東ドイツ最後の閣僚評議会議長(首相)だったロタール・デメジエール、第二次世界大戦におけるドイツ空軍エースパイロットのハンス・ヨアヒム・マルセイユやアドルフ・ガーランドなど)。また、宗教的熱狂が冷めてみると、勤勉な新教徒が失われたことによる経済的損失は大きかった。フリードリヒ2世によれば、「数州の地方はこのために著しく人口が減少し、今日にいたるまで人々は、ナントの勅令の廃止を後悔している」。新教徒を受け入れた側の誇張もあるだろうが、フランスの産業と資本の蓄積が遅れた一因とは言えるだろう。影響の一つとして、フランス経済及び財政の枯渇化もその一因とされる。それは、100年後のフランス革命にも遠因を与えていると言えるだろう。また、ユグノーが多かったフランスの時計師たちの多くがスイスへ移住したことで、フランスの時計産業の衰退及びスイスの時計産業の発展の契機となったという面もある。なお、この勅令はルイ16世時代の1787年11月7日になって、ヴェルサイユ勅令の署名により破棄された。

出典:wikipedia

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