LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

オールスターゲーム (日本プロ野球)

日本プロ野球のオールスターゲームは、日本野球機構が主催する、セントラル・リーグとパシフィック・リーグの各選抜チームによる対抗試合である。毎年7月に行われ、監督推薦やプロ野球ファンによる投票などで選抜された選手が出場する。現在正式な大会名はマツダオールスターゲームとなっており、通称はオールスターまたは球宴(きゅうえん)である。1リーグ時代の1937年から、アメリカメジャーリーグベースボールを手本に「職業野球東西対抗戦」という大会名で、本拠地別に配分した東西オールスターとして行われたのが始まりとされている。1リーグ時代はシーズン終了後に行われていた。2リーグ制になった1950年は実施されず、1951年からセントラル・リーグとパシフィック・リーグの対抗方式で実施されている。シーズン終了後は日本シリーズが行われることから、時期を夏場に移しての開催となっている。スタート当初は年度により2試合と3試合とでばらつきがあったが、1960年代以降は3試合で定着してきた。しかし、MLBオールスターが年1試合なのに対し、日本の3試合は多いのではないかという日本プロ野球選手会側からの要望もあり、1989年以降は原則2試合となった。但し基本的に夏季オリンピック開催年については3試合を維持した上で、第3戦を地方で開催することとなり、1992年の宮城球場を皮切りに地方開催が実施されるようになった。2001年を最後に3試合制は原則として一旦消滅し、2002年〜2010年は完全2試合制となり、隔年で2試合のうち1試合(原則第2戦)を地方開催することとなった。しかし、2011年には選手年金の財源確保などNPBの収益強化を目的として10年ぶりに3試合制が復活し、2012年・2013年も3試合制で行われた。なお、2011年からの3年間については東日本大震災の復興支援の意味合いもあり、3試合目は被災地である宮城・岩手・福島の各県の球場で実施された。2014年からは再び2試合制となる。また試合開催日も初期の1951年 - 1957年は7月初旬か中旬の開催だったが、梅雨の時期と重なり雨天中止・延期が長引いたケース(1953年など)もあったため、1958年以後は2001年まで梅雨明け後・夏休み初めの週末となる7月下旬に行われた。第1戦は土曜日、第2戦は日曜日、移動日を挟んで第3戦は火曜日に開催された。1990年代の2試合制は平日開催(第1戦火曜日、第2戦は水曜日)だった。その後夏休みの公式戦開催を強化したいという意向で2002年 - 2004年は7月中旬に一旦繰り上げられるも、セ・パ交流戦開始による同一リーグ所属チーム間との対戦、あるいは交流戦の雨天中止・延期分の予備日日程確保の観点から、2005年以後は7月下旬に戻され、今日に至る。近年は第1戦が木曜日や金曜日に始まる年や2011年には3試合連続で開催された事もある。開催に際しては12球団持ち回りで開催権が与えられ、基本的にその球団の本拠地(専用球場)で開催となるが、地方開催の場合は日本野球機構(NPB)が直接開催権を持ち、セ・パのどちらをホームとし、どの球団が運営要員を派遣するかはそれまでの開催実績を元に決定される。また、かつてはナイター開催が可能な照明設備を有する収容人員3万人以上の野球場での開催が義務付けられていたため、以前近鉄バファローズが藤井寺球場と日本生命球場を本拠にしていた頃、藤井寺は当時照明設備がなく、日生は収容人員が2万人強と規定を満たしていなかったため、近鉄主管では開催されず、本来近鉄主管となる順番の1959年・1967年・1973年・1979年は南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)の本拠地・大阪球場で振り替えた上、南海に開催権を譲渡して開催した。また東映フライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズ)が1953年から1961年の間、駒澤野球場をフランチャイズとしていた9年間の東映の主管試合とロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)が1973年から1977年の間、宮城球場をフランチャイズとしていた5年間のロッテの主管試合は開催されなかった。理由は駒澤野球場と宮城球場のキャパシティが上述の3万人以上収容の規定に満たなかったことや、周辺施設の問題による。なお、2002年の第2戦は広島東洋カープが開催権を持つ順番だったが、ゲームが開催されたのは広島市民球場ではなく松山中央公園野球場(坊っちゃんスタジアム)であり、地方開催のため広島球団ではなくNPBが主催の上、運営要員は広島を中心にセ各球団から派遣された。また2008年より試合前の公式練習では、出場選手・コーチ陣はミズノ提供によるプラクティスユニフォームを着用している。オールスターゲームにおいては一時期、真剣勝負を「直球勝負」と曲解する風潮があった。そのため投手が直球を多投する光景が多く見られ「オールスターでは変化球を投げづらい」「真の真剣勝負が見られない」などといった意見もあった。2009年には、プロ野球実行委員会において「交流戦があって、価値が薄れている」と、オールスターゲームそのものの見直しが検討された。オールスターゲームはNPBの基幹収益事業の一つで、毎年多くの観客を集め多額の収益をもたらしているが、その一方で、かつては推定2億円近くに及んだ地上波テレビ中継の放映権料が、近年は下落の一途をたどっている。また、冠スポンサーも三洋電機の撤退以来、長期契約を希望する企業がなかなか現れず、こうした要因から既に収益が頭打ちとなっている側面がある。その後、2008年以降は例年マツダが冠スポンサーとなる状況が続いている。1988年より冠大会となっている。前述の通りオールスターゲームは、NPB12球団の本拠地になっていない地方都市でも開催されている。NPBではオールスターゲームの誘致条件について「プロ野球開催に対応する施設を有し、且つプロ野球公式戦等の開催実績を積み、施設運営のノウハウを培うことが前提」と説明している。なお地方開催の場合、開催権はNPBにある。主管相当球団は本拠地開催の場合と同様に運営要員などを派遣しているが、厳密な意味での主管球団ではない。新潟は2004年4月の段階で2008年のオールスター開催が内定していたものの、同年に新潟県内では平成16年7月新潟・福島豪雨(7・13水害)や新潟県中越地震などの自然災害が相次いだ。県は災害復旧を最優先させるため、2008年竣工予定だった県立野球場の建設事業を凍結し、2005年7月に開催返上を決定。同月末に日本野球機構に開催辞退の申請を提出し、8月1日に行われた実行委員会で正式に承認された。オールスターゲームの地方開催を辞退するのは史上初のケースだった(2008年に地方開催が無かったのは、新潟の開催辞退が影響したものである)。その後2006年に球場建設の目途が付いたことから再び開催地に立候補し、2010年の開催が内定。2009年6月の実行委員会で正式に開催が決定した(試合詳細は2010年のオールスターゲーム (日本プロ野球)を参照)。ファン投票により、外野手のみ上位3名まで、その他のポジションについては1位の選手が選出される。また、2008年より選手間投票が導入され、ファン投票と同様に各ポジション1位と外野手上位3名が選出される。翌日発表の監督推薦(前年リーグ優勝球団監督が担当)を併せて両チーム28名ずつ(計56名)がメンバーとして登録される。選手枠は原則として28名(合計56名)だが、試合数などを考慮し増加する場合がある。2010年は「プラスワン」により29名(合計58名)、3試合制の2011年から2013年は「プラスワン」を含め32名(合計64名)となった。監督は前年度にリーグ優勝したチームの監督、コーチは前年度に2位・3位であったチームの監督が務める。ファン投票は、公式投票はがき、市販の郵便・私製はがき、インターネット(パソコン、携帯電話)から投票する。インターネット投票では、同一メールアドレスから1日1回までという投票制限がある。公式投票はがきは公式戦の開催会場やコンビニエンスストア(サークルKサンクス)、有名書店などで配布される。公式戦会場やコンビニエンスストアなどでは直接投票できる(切手不要)投票箱が設置されている。コンビニエンスストアの投票箱は2005年に一度設置を取りやめ、2006年から復活した。これは個人情報保護法による影響との説があり、2006年以降の公式投票はがきには個人情報の記載が不要となっている。投票開始日から数えて概ね1週間経過してから締切日までほぼ毎日(土・日曜日は除く)途中経過が発表され、締め切り後1週間程度をメドに最終集計が公表される。1986年までは18名(1975年の指名打者制度投入後は19名)連記、あるいは1名のみの単記・または18名連記のどちらか等投票方式の変化をたどってきたが、1987年以後は単記・連記自由で、連記の場合は19名(セ・9人、パ・10人)までであれば自由となった(下記参照)。その後ルール改正で投手については「先発」「中継ぎ」「抑え」の3人ずつまで投票できるため、連記の場合は23人(セ・11人、パ・12人)まで投票できる。ただし、各リーグ・各ポジションにつき1名(外野3名まで)は厳守することとなっている。公式投票はがきからの投票の場合、マークシート方式であらかじめノミネートされた選手の中から選んで塗りつぶす方式が取り入れられている。ノミネート選手外の場合は、チーム、ポジション、背番号の順に塗りつぶして投票する。2016年の原口文仁の場合、T→2→9→4の順に塗りつぶす。2005年より、ファン投票において得票数トップとなった選手は「最多得票プレーヤー」として表彰される。表彰は出場選手発表後、所属チームのホームゲーム開催球場にて実施され、認定証、盾などが贈呈される。基本的にファン投票で選出された選手は出場を辞退することができない。辞退した場合は野球協約86条により球宴終了後の後半戦開始から10試合、選手登録ができなくなる。2006年まで「顕著な傷病等により出場できなかったものとコミッショナーが認めた時は、出場登録できるまでの期間を短縮することができる」とあり、故障による出場辞退の場合は登録停止期間の短縮もしくは免除を受けることができたが、明確な適用基準がなく悪用の恐れがあるとのことからこの年を以って廃止となった。この制度の適用を受けたことがある選手は2003年の川崎憲次郎、2006年の福留孝介・小久保裕紀の3人である。福留は後半戦開幕から活躍したため制度の悪用との批判があった(もっとも福留は他の年はすべて選出された年に出場しており、この年もオールスター前に怪我の影響で14試合を欠場している)。このようなトラブルを避けるため、強行出場もしくは1打席のみの代打出場、場合によってはベンチに座っているだけという選手が出てきているのも現状である。これらの問題の改善策として、ノミネート制度の廃止やポジション別での選出の見直しなどが議論されている。王貞治(ソフトバンク球団会長)は私案として、観戦券1枚に投票用紙1枚を添付する方式を示している。2008年から、現役選手がファン投票とは別に投票を行って出場選手を選出する制度を導入した。概要は以下の通り。2010年に60回大会特別企画として導入され2013年まで行われた、ファン投票・選手間投票・監督推薦の選手以外から「最後の1名」を決めるファン投票。概要は以下の通り。1999年と2000年には、両軍監督出演の大会オリジナルCMが制作され、6月ごろから各球場の大型映像装置(オーロラビジョンなど)で上映された。1990年代、三洋電機スポンサー時代のこと、星をモチーフにしたオールスターゲームオリジナルの大会マスコットキャラクター「うっ太」と「なげ太」が存在した。ヘルメットにセ・リーグのロゴが書かれたものと、パ・リーグのロゴが書かれたものの2体が存在。2008年より、練習中や試合前イベント時に限りセ・パそれぞれのイメージカラーである連盟旗の色(セ=緑、パ=青)を基調としたプラクティスユニフォーム(ミズノ株式会社提供)を着用(なお、プラクティスユニフォームは本塁打競争などのイベント中のみに着用され、試合中はそれぞれの所属チームのユニフォームでプレーする)。 ちなみにこのユニフォームは、出場者の直筆サインを入れてインターネットオークションに出品。チャリティーによる売上金は、日本赤十字社を通して同年発生したミャンマーのサイクロンや中国の四川大地震での被災者への救援に充てられた。2009年は、開催球場を本拠地とする球団のチームカラー(セ=カープの赤、パ=ファイターズの青)に、2010年はそれぞれの開催地をイメージした色(セ=新潟の日本海に浮かぶ夕日のオレンジと日本海のブルー、パ=福岡の玄界灘の深い海をイメージした黒と紺)にそれぞれ変更されている。2011年は、セ・パともにマーク・ロゴ以外は全て同じデザインとした。これは同年3月11日発生の東日本大震災からの復興を12球団一丸となって取り組んでいるというメッセージを込めたもので、日の丸をイメージした「白地に赤」となっている。2012年・2013年も同じデザイン(ロゴは変更)のものを使用。ちなみに、実際に大会で使用されたユニフォームは出場者の直筆サインを入れて、インターネットによるチャリティーオークションに出品される。オークションの売上は、全額日本赤十字社を通じて震災の復興のために使用される。2014年は、3年ぶりにデザインが変更となりセ・リーグは銀、パ・リーグは金を基調としたユニフォームとなった。ロゴの周りには今までと同様に開催地を模した星が、帽子にはリーグのロゴマークがそれぞれ描かれている。また、翌2015年も同じデザインを使用。2016年は、サプライヤーがマジェスティック ジャパンに変更されユニフォームも一新、2009年と同様に開催球場を本拠地とする球団のチームカラー(セ=ベイスターズの青、パ=ホークスの黄色)をモチーフにしたものとなった。このユニフォームについては、提供者であるミズノ→マジェスティック ジャパンが一般向けとして作製しているレプリカ版を、通販などで販売もしている。なお、販売は期間限定で、ファン投票期間中から開始される。2014年まで、オールスターゲームの結果によってプロ野球ドラフト会議における2巡目以降の指名順の優先権が与えられていた。判定基準として、実際、2013年のオールスターゲームは1勝1敗1引き分け・得失点差ゼロとなったためくじ引きが行われ、パシフィック・リーグが優先権を得た。なお、2015年以降はセ・パ交流戦で勝ち越したリーグに優先権が与えられる。ここでは引き分けは挟まない(引き分けでも連勝ストップ)ものとして考える。※太字名は現役選手、所属球団名は記録達成時のもの※1:第1打席から2安打、四球を挟んで第4 - 6打席までの計5安打。※2:通常1投手3イニングまでの登板とされているが、延長戦に入った場合はその規定の対象外となっていたため。※3:江夏は1970年のオールスター登板を5連続奪三振で終えており、当該試合を経て第3戦の6回に登板。1三振(江藤慎一)を奪ったのち、野村克也にセカンドゴロで阻止されるまで、3試合合計で15連続奪三振を達成したことになる。※1:8回表降雨コールド パ5 – 11セ※2:1回裏2死満塁 投手・稲川誠(大洋)※3:4回裏2死満塁 投手・江夏豊(阪神)※4:9回裏1死一塁 投手・松岡弘(ヤクルト)※5:3 – 3で迎えた延長12回裏無死一・三塁、打順は投手の中山裕章(大洋)。野手は全て出場していたため、セ・リーグの王監督が投手の中でも打撃の良い水野を代打起用し、センターにサヨナラ犠牲フライを打った。同様の理由で、1980年7月22日第3戦(後楽園球場)、2 – 1で迎えた9回表パ・リーグの攻撃2死満塁の場面で、松沼博久(西武)の代打にパ・リーグの西本幸雄監督(近鉄)が山内新一(南海)を送ったことがあったが、セ・リーグの抑えの江夏豊(広島)に三振に打ち取られた。※6:1番鳥谷敬への2球目(結果はファール)と5番阿部慎之助への1球目(ボール)の計2球で記録。現在は日本国内でのみ地上波放送・衛星放送共に民間放送が中継。NHKでもかつてはテレビ・ラジオ両方で放送していたが、冠大会の制約(冠スポンサーのCMを流さなくてはならない)により、テレビは1994年、ラジオは2003年をもって全国中継から撤退した(ラジオ放送で地元向けの放送が行われることはある)。オールスターゲームの地上波テレビ中継の視聴率も1970年代末期から1980年代までは30%台を記録し1990年代までは20%台をキープしていたが、ここ数年は10%台に下がる傾向にあり、2007年度第2戦では関東地区で1桁台を記録し、2010年度第2戦には、ついにナイターで初めて1桁の視聴率を出した。2014年には、一戦目で初めて一ケタにまで低下した。しかし関東地区では低下傾向であるものの、関東地区以外では高い数字を記録している。視聴率低下の要因は、視聴者の関心・趣味の多様化、少子化による若年層ファンの減少、人気選手のメジャーリーグ移籍、セ・パ交流戦開催による両リーグ間の対戦の目新しさの低下など多岐に亘る。いずれも関東地区平均(ビデオリサーチ調べ)。(「日テレ」は日本テレビ放送網、「フジ」はフジテレビジョン、「テレ朝」はテレビ朝日の略)※1:『FNS ALLSTARS27時間笑いの夢列島』内で放送。※2:関東地区のみ。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。