フアン・アントニオ・サマランチ・トレジョー(スペイン語:Juan Antonio Samaranch Torelló、カタルーニャ語:"Joan Antoni Samaranch i Torelló" 、1920年7月17日 - 2010年4月21日)は、スペイン・バルセロナ出身のスポーツ官僚でもありながら、1980年から2001年にかけて国際オリンピック委員会(IOC)の会長を務めた。繊維業を営む裕福な一族に生まれたサマランチは、少年時代にローラーホッケーに親しんだ。スペイン内戦では当初共和国派として戦うが、第二共和国政府には懐疑的で、程なくフランスに出る。内戦がスペイン国粋主義の反乱軍の勝利で終わると帰国し、フランシスコ・フランコのファランヘ党に加わった。スポーツ・ジャーナリストとして社会人のキャリアを始め、1942-1943年シーズンの総統杯準決勝、レアル・マドリード対FCバルセロナ第2ラウンド(マドリードがバルセロナを11-1の大差で下した)では、ホームであるマドリードのサポーターを批判して、所属していた会社を解雇された事もある。その後は家業を継ぐ傍ら、数多くのオリンピック大会でスペインチームの代表を務めた。1966年にはスポーツ長官に任ぜられ、さらにスペインオリンピック委員会の会長に就任、IOCメンバーにも名を連ねることになった。1974年から1978年にかけてはIOC副会長を務めた、また1977年から1980年までスペインの駐ソ連・駐モンゴル大使に任ぜられ、1984年には大手貯蓄銀行「ラ・カイシャ」の役員となり、1987年から1999年まで頭取の座にあった。1992年のバルセロナオリンピックを前にして、1991年にはサマランチ侯爵(Marquesado de Samaranch)に叙せられた。1980年夏季のモスクワオリンピックの後、IOC会長だったキラニン男爵が辞任し、その後任としてサマランチが選出された。任期中、サマランチは放映権やスポンサーシップの管理を通じてオリンピック活動の財政健全化を実現した。1984年夏季のロサンゼルスオリンピックでも東側諸国の大会ボイコットがあったものの、サマランチの任期中におけるIOC加盟国とオリンピック参加国の数は増加し続けた。サマランチはまた最も優れた運動選手がオリンピックで競い合うことを望み、アマチュア精神の維持に心血を注いだアベリー・ブランデージ元会長の方針を大幅に転換し、プロ選手の解禁が漸進的に行われる結果となった。ただし、後述の問題も含めて五輪の商業化、拡大化、権威の低下等を招いたという批判も強く、2012年のロンドンオリンピックからは一部の競技種目が削減される事態を招いた。サマランチの他の業績としては、IOCの組織再編と、1986年にパリを破って1992年夏季のバルセロナオリンピックを自身の故郷であるバルセロナに誘致したことが含まれる。1998年の長野オリンピックの閉会式では「ありがとうナガノ、さよならニッポン。」と日本語の挨拶で締め、話題を呼んだ。2005年、浙江大学より名誉博士号を授与された。2010年4月20日、心臓疾患のためバルセロナ市内の病院に入院し集中治療室内で人工呼吸器をつけるなど重体に陥り、その翌日の4月21日に没した。サマランチは1955年12月1日にマリア・テレサ・サリサチス・ローと結婚した。2人の間には1男1女がいて、息子のフアン・アントニオ・サマランチ・サリサチスは現在IOCのメンバーとなっている。
出典:wikipedia
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