50系客車(50けいきゃくしゃ)とは、日本国有鉄道(国鉄)が主に地方都市圏の通勤・通学時間帯の普通列車に使用する目的で1977年(昭和52年)より設計・製造された一般形客車の系列である(区分の経緯については#車両区分を参照)。国鉄規格「赤2号」の塗装から「レッドトレイン」とも称されていた。本州以南用の50形と、北海道用の51形があるが、基本的な設計コンセプトは同一であるため本項ではこの両形式、さらに同一の車体構造を有する荷物車マニ50形と郵便・荷物合造車スユニ50形についても併せて解説を行う。1970年代前半まで、地方都市圏(特に交流電化線区や非電化幹線)の旅客輸送には1920年代から1960年代にかけて製造された鋼製客車が多数使用されていた。これらの車両は優等列車の電車化・気動車化および12系客車の登場によって転用されたもので10系以前の客車は登場後しばらくは程度の良い車両が優等列車に使用され、後継車両の増備や置換えで捻出された中堅車や経年車は普通列車にも使用されるようになっていた。当時の国鉄は動力近代化計画に基づいて、普通列車については原則として電車もしくは気動車に置き換える方針だったため、普通列車用の客車の製造については極めて消極的であったためである。しかし製造後20年から40年以上を経て老朽化・陳腐化が進行し、保守上の問題と乗客からの不評を顕在化させていた。このため一部の鉄道管理局では、室内の両端、あるいはすべての座席をロングシートに改造し、つり革を設置することで収容定員の増加が図られていたが、狭いデッキや出入口はそのままであり乗降の遅滞から列車遅延の原因となっていた。また自動扉をもたないこれらの客車は、走行中でも客用扉を開閉できるため乗客や荷物が転落する危険があり、保安上の問題となっていた。上記の問題を解決するために、新形車両の導入が求められていた。輸送改善に際しては、当時行われていた荷物・郵便輸送への配慮と、貨物輸送量の減少で機関車の余剰が発生していたこと、更に組合側が客車列車の継続を要望(余剰人員の発生する電車/気動車化には反対していた)していたことから、動力近代化計画には矛盾するものの新形式客車を開発する方針が採られた。動力装置が不要になるため1両当たりの製造コストが気動車や電車よりも格段に安くなることから、地方部の通勤・通学時間帯に多く運転されていた比較的長編成の客車普通列車の置換え用として、余剰化した電気機関車やディーゼル機関車を有効活用(通勤通学時間帯のみ客車を牽引して、それ以外の時間に貨物列車を牽引することによって機関車を柔軟に運用する)することによって、輸送力増強やサービス改善を低コストで行うために製造された車両群が本系列である。1979年(昭和54年)には鉄道友の会よりローレル賞を授与され、オハフ50 1の車内に記念プレートが取付けられた。本形式の用途は通勤輸送を主目的とした車両であるが、室内は地方での需要を反映してセミクロスシートとした。通勤輸送に用いられる車両は通常通勤形にカテゴライズされるものであるが、当時の国鉄では「客室に出入口を有し、横型腰掛(ロングシート)を備え、通勤輸送に適した性能を有する車両形式のもの」を通勤形に定義していた。一方で室内がセミクロスシートであることに着目すれば近郊形に近いが、近郊形は新性能電車独自の概念であるため、本形式は「通勤形でも近郊形でもない」として「一般形」の区分を採用した。したがって、日本の国鉄・JRの客車において厳密な意味で通勤形や近郊形の区分を採用した客車は新製されていない。1978年(昭和53年)3月、筑豊本線・芸備線を皮切りに、同年7月から常磐線(仙台地区)において運用が開始された。その後も引き続き大都市周辺の幹線・亜幹線を中心に朝夕の輸送力列車を重点に運用され、線区によっては10両前後の長大編成も珍しくなかった。全車が出揃った1983年(昭和58年)4月時点で配置区は34区所にも及んだ。1985年(昭和60年)3月のダイヤ改正では、郵便荷物輸送の縮小に伴って東北本線一ノ関以南などで電車化が強力に推進され、中~短距離の輸送力列車中心に運用されてきた運用方法は転換期を迎える。さらに非電化区間の気動車化も進められ、余剰化した本系列は旧型客車の置き換えに転用されて、比較的長距離の普通列車にも使用されるようになる。それらの転配で電気暖房車が電暖未使用の区所に移動される動きもあった。同時に短編成化も進み、朝夕以外は3~5両程度と機関車牽引列車としては非効率で高コストな運用が常態化する。また配置区の集約も行われ、奥羽本線・羽越線など一部で広域運用も見られた。1986年11月のダイヤ改正では急行列車の削減によって捻出された電車および気動車に置き換えられたため、わずか車齢5年前後の当系列にも本格的な余剰車が発生し、これらは津軽海峡線での運用を見越して冷房化・固定窓化などの改造を施工した上で函館運転所に転出した。国鉄時代は事故廃車もなく、1987年の国鉄分割民営化の際には旅客車として製造されたすべての車両が東海旅客鉄道(JR東海)を除くJR旅客鉄道各社に承継されたが、後継車が増備できるまでの暫定的な車両として継承されたにすぎなかった。なお、用途が廃止されたマニ50とスユニ50はほとんどが廃車になった。しかし、前述のように国鉄末期以降は各地で「短編成・高頻度」型のフリークエント・ダイヤへの転換が相次ぐと、折り返し駅で機関車を付け替える必要がない電車・気動車への転換が進み客車列車の本数は著しく減少した。また、急行列車の大幅な縮小によって余剰となった急行型車両が普通列車に転用されたため早々と余剰車が発生する事態になった。JR化直後の昭和63年には、四国配置車に早くも大量の余剰車が発生する状況になり、他社においても余剰化が進行した。一部の車両がキハ141系・キハ33形への改造に充てられたものの、基本構造の違いから改造費用が高額になったことから、ほとんどの車輌は転用されずに1989年(平成元年)から淘汰されるようになり、製造からわずか7~15年で大量(500両以上)の車輌が廃車されてスクラップになった。1992年(平成4年)4月1日には高徳線の普通列車が全列車気動車化され、JR四国管内での本系列の定期運用は消滅した。東日本地区でも1993年(平成5年)7月20日に羽越本線酒田 - 秋田間の普通列車がすべて電車化され、同年12月1日には奥羽本線新庄 - 秋田間・追分 - 青森間・八戸線の本系列および12系客車を使用した普通列車がすべて701系電車と気動車に置換えられた。1994年(平成6年)1月の時点で、本系列の一般仕様車による運用が残っていたのは函館本線小樽 - 旭川間・東北本線一ノ関 - 青森間・奥羽本線秋田 - 追分間(ただし男鹿線直通列車のみ)・男鹿線・磐越西線・鹿児島本線門司港 - 折尾間・筑豊本線・日豊本線小倉 - 柳ヶ浦間・久大本線の11線区であった。その後もJR各社は本系列を含む客車普通列車の電車化・気動車化を進め、1994年(平成6年)12月3日のダイヤ改正で東北本線一ノ関 - 盛岡間・男鹿線・函館本線の普通列車がすべて電車・気動車化され、この時点で51形一般仕様車は営業運転を終了した。1995年(平成7年)4月20日には日豊本線、同年11月30日に磐越西線、1996年(平成8年)3月30日には東北本線盛岡以北からも本系列の運用が終了したことにより、本州地区における本系列の一般仕様車の定期運用が消滅した。1997年(平成9年)3月22日のダイヤ改正では、山陰本線から急行「だいせん」の快速区間を除き12系客車の普通列車運用が終了し、1999年(平成11年)10月2日に急行「だいせん」も気動車化されたことで、JRグループでの客車による普通列車は、津軽海峡線の快速「海峡」とJR九州管内の一部のみとなった。本系列の運用が残存していた九州地区では1995年4月20日のダイヤ改正以降、筑豊地区での運用は朝夕2往復のみとなり、気動車列車だけでは賄いきれないラッシュアワーの輸送力確保のための運用に縮小された。その後、1999年12月4日に行われた久大本線普通列車の完全気動車化によって、本系列の運用範囲は鹿児島本線門司港 - 折尾間と筑豊本線若松 - 飯塚間のみとなった。しかし、2001年(平成13年)10月6日に筑豊本線折尾 - 桂川間(福北ゆたか線)が交流電化されたことにより、本系列の運用は終了することになった。直方車両センター配置の本系列14両は12系客車12両とともにすべて廃車となり、本系列の一般仕様車はこれを最後にすべて廃車となった。一般仕様車の全廃後は快速「海峡」が本系列最後の定期列車であったが、2002年(平成14年)11月30日で列車自体が廃止され定期運用は消滅した。2016年(平成28年)4月現在、JRグループので営業運転に投入される車両はJR北海道の「ノロッコ号」やJR九州の「SL人吉」号といった観光を主目的とした不定期列車に限られている。鉄道車輌の置き換えは老朽化の進んだ旧型車輌を新型車輌に代替するのが通例であるが、本形式は一部の例外を除いて冷房装置がなく、相対的に接客設備が劣っていたため、西日本や四国では製造から10年前後で昭和40年代(本形式より15~20年ほど前)に製造された老朽化が進んでいる冷房車(キハ28など)に置き換われて廃車・解体されていった。日本の鉄道史でも特異な例といえる。同時期に設計・製造されたキハ40系気動車・115系1000番台などとは、車体構造やアコモデーションなどで共通点が多いのが特徴である。普通鋼製車体である。本州以南向けの50形については工程の簡略化のため窓構造が従来の一段上昇窓から上段下降・下段上昇式の外ハメ窓(ユニット窓)とされた。すきま風や雨水による浸食防止と取付簡素化をはかって新設計のユニットサッシが採用されたため12系客車など在来の車両で使用されているユニットサッシとの互換性はない。車体断面は12系などとは異なり全幅が約100mm小さく、裾絞りのないストレートな腰板を備える簡素な構造で、連結・解放作業を考慮して、車体妻面は3面構成の折妻構造とされた。側構が薄くなったことで室内幅は従来の旧形客車より若干拡大し、窓側席肘掛の省略や座席寸法の見直しで必要な通路幅を確保している。床下型の集中式冷房装置を想定し床面を高く設計している。AU75系集中式冷房装置の搭載を考慮した電車形の屋根断面、および構体構造で設計されているとする説もあるが、それらが搭載された実績は無い。新製時には製造コストと電源確保の問題から冷房装置は搭載されず、押込式通風装置が搭載された。客用扉は、在来形客車で問題視されていた手動扉に代わり、幅を1,000mmに拡大した片引戸で半自動操作も可能な自動扉とし、車軸からの速度検出による戸閉保安装置が追加された。ドアエンジンを動作させる圧縮空気は、空気圧を供給する空気圧縮機やその動力源も搭載されていないため、機関車から元空気溜管(Main Reservoir Pipe:MRP)を介して供給する必要がある。車内のサービス用電源は従来通り各車に搭載された車軸発電機と蓄電池とされた。行先表示は、在来形客車のサボを掲示する方式を踏襲し、側面中央部窓下にサボ受を設けた。側面上部に自動行先表示器の取付準備工事が施工されていたが、実際に搭載された車両はない。車体色は、交流電気機関車と同様の赤2号(やや小豆色に近い赤色)の一色塗りで、屋根はねずみ色1号である。旧来の国鉄形客車とは異なり、長距離列車よりも主に通勤通学時間帯における運用を考慮した車内設備とした。座席配置は、デッキ付近をロングシート、客室中央をシートピッチ1,470mmのクロスシートとしたセミクロスシートとした。ボックスシート部のテーブルおよび窓側の肘掛は装備されていない。デッキ・客室間の仕切扉も乗降の円滑化を図り1,200mm幅の両引戸とし、引き残しを少なくするため取手部分の戸袋を切り欠いているが、北海道向け51系およびオハフ50形のトイレ側は一般の片開き式とした。暖房装置は、在来形客車と同様で機関車に搭載される蒸気発生装置(SG)から暖房用蒸気の供給を受ける方式を採用したが、一部車両では電気暖房装置を併設する。本系列のみで組成した編成で運用することを主眼においており、循環式汚物処理装置準備工事が施工されたトイレは緩急車にのみ設置とされた。車掌が車内をこまめに巡回し、なおかつ在来形客車では不要であったドア開閉操作を行う点から編成中の緩急車数を従来よりも増やし、緩急車も一端は車掌室、もう一端は業務用室とした上で乗務員扉を双方に設置し業務効率化を図った。台車はTR230形を装着する。空気ブレーキは応答性が良好で、メンテナンスも容易な三膜式のCLブレーキを搭載する。応答時間短縮に効果のある電磁給排弁は付加されておらず最高速度は95km/hに制限される。この項では新製車両のみを示す。改造車については次項に記す。製造は全形式とも富士重工業・新潟鐵工所の2社である。本州以南向けのグループで1978年(昭和53年) - 1982年(昭和57年)に製造された。東北・北陸地区などに投入された車両は電気暖房を併設し車両番号が原番号+2000を付与される。北海道用のグループで、客室窓を小型の一段上昇式二重窓とし、車軸発電機をベルト駆動からギア駆動に変更するなどの酷寒地対策が施工される。台車は、軸バネと枕バネにゴム被覆コイルバネ(エリゴバネ)を使用したTR230A形である。1978年(昭和53年) - 1982年(昭和57年)に製造されたが、1979年(昭和54年)までに製造された初期車 (オハ51・オハフ51共に1 - 10が該当) は、車体側面戸袋窓が小型、オハフ51形では床下水タンクの装架位置が異なる。札幌圏で運用した車両には、機関車に出発合図を送るためのブザー回路が追加された。この他にもスユ15形のうち1981年以降に製造された2019 - 2039とマニ30形のうち1978年から1979年に製造された2007 - 2012は車体構造が本系列と同仕様に変更されたが、それぞれ10系、マニ30形に属するため本項目では省略する。"国鉄10系客車#郵便車、国鉄マニ30形客車を参照" 鉄道車両として使用されたのはわずか11年ほどである。青函トンネルを含む津軽海峡線の快速「海峡」(青森 - 函館)用に施工された改造である。50形・51形双方が種車とされたが、改造時期や内容に若干の差異があるほか、共に車両番号は新たに番台区分された5000番台に改番された。2016年に終焉を迎え形式消滅となった。※2016年3月22日には木古内駅常備のオハフ515004が函館に回送されている。札幌圏のラッシュ対策のため1987年(昭和62年)に苗穂工場でオハ51 41へ施工した改造。車体中央に1,000mm幅の客用扉と客室との仕切り扉を増設して3扉化し、客室を前後2室に分けたほか、増設扉周辺の座席をロングシートに変更した。改造は1両で終了し、その後3扉化は711系電車の一部に改造施工ならびに721系電車の新造で実施され、オハ51 41は1994年(平成6年)に廃車された。1993年(平成5年)に釧網本線で運行されるトロッコ列車「くしろ湿原ノロッコ号」用として1両が改造された。1998年(平成10年)に従来車の老朽取替のため編成単位で改造され、続いて1999年(平成11年)には新たに運行開始された「富良野・美瑛ノロッコ号」用として2両が追加改造された。オハ510形・オハテフ500形・オハテフ510形・オクハテ510形の4形式で構成され、「くしろ湿原ノロッコ号」用車両が緑色基調、「富良野・美瑛ノロッコ号」用車両が茶色基調の塗装を持つ。またワキ10000形改造のバーベキューカー(ナハ29000形)などと連結され、団体・臨時列車として運行されることもある。余剰となったオハフ51形に施工した気動車化改造。詳細はJR北海道キハ141系気動車を参照のこと。オヤ31形と異なり物理的に接触させるのではなく、光を照射し、CCDカメラにより撮影解析して測定する測定器を搭載しており、「光オイラン」とよばれる。2003年(平成15年)に「East i」シリーズ(E491系「East i-E」・キヤE193系「East i-D」)との併結対応改造を行った際に重量が増加したため、現在のマヤ50形となり、外見もEast i-E&Dと同じカラー&配色となった。2015年の6月から8月にかけて郡山総合車両センターに入場していた。この工場入りに際し、床下機器の増設・測定窓の構造変更等の改造工事を実施した。主に通勤用として製造された本系列であるが、定期の夜行列車に使用された事例が一例あった。1985年3月14日のダイヤ改正で、それまでキハ58系気動車で運行されていた予讃本線・土讃本線・中村線(現・土佐くろしお鉄道中村線)経由高松 - 中村間夜行普通列車731D・764Dのうち、下り列車が運行区間を高知まで短縮の上、本系列による221列車として置換えられた(上りの764Dは廃止)。客車列車自体が減少していた時期で異例な置換えでもあったが、新聞輸送の需要から下りのみ存続となった本列車は1988年4月10日のダイヤ改正で再び気動車となり、本系列による定期夜行列車運用は3年あまりで終了した。
出典:wikipedia
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