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全国高等学校野球選手権大会に関するエピソード

この項では全国高等学校野球選手権大会に関する様々なエピソードを紹介する。毎年12月から1月にかけて、大会で使われるキャッチフレーズを朝日新聞社が一般の高校生から公募している。本大会直前から放送される朝日新聞社のテレビ・ラジオコマーシャルで使われる。(第75回記念大会以降)1986年(第68回大会)から2008年(第90回記念大会)まで日本ビクターをスポンサーにした甲子園の宣伝ポスターが作られていた。詳細は「ビクター・甲子園ポスター」キャンペーンを参照。地方予選大会は原則としてその都道府県にある野球場での開催となっているが、他の都道府県に会場を移して開催した事例もある。1920年の四国大会決勝戦の香川商(現在の高松商)対松山商は兵庫県の鳴尾球場で行われた。これは当時、過去の試合中のトラブルで遺恨のあった香川県勢と愛媛県勢の対戦による、両県の観客間の騒動を回避するため四国外で開催されたものである。最近の例としては球場難を理由に1991年 - 1993年ごろ、大阪府大会でそのケースがあった。1990年まで使用された大阪球場が野球場としての機能を停止させたため、その代替球場として奈良市・鴻ノ池球場と西宮市・阪急西宮スタジアムの2ヶ所を使用して行った。なお、その後大阪府には大阪ドーム(現京セラドーム大阪)、舞洲ベースボールスタジアム、南港中央公園野球場、豊中ローズ球場などが建設されたことから現在は越境開催は行っていない。また、鴻ノ池球場はその後も奈良県大会で使用されていたが、高校統廃合による試合数減少に伴い2008年以降は奈良県大会では使用されていない。また、西東京大会の決勝戦や開幕試合などは東東京地区にある神宮球場を使用している。一方、東東京大会の試合が西東京地区の球場(府中市民球場、明大球場など)で開催されることもあり、2000年代以降はほぼ毎年行われている。かつては全国大会に先駆けて、兵庫大会においても甲子園球場が一部使用されるケースもあった地方大会の会場としては使用されていない。地方大会では近年、開会式と開幕戦の一部試合をドーム球場で行う事例が数例ある。過去に数件起こっている。放棄試合(日本高校野球)参照。まれに地方大会では1チームに30点以上も入る大量得点試合を目にすることがある。その中でも特筆すべきは1998年(第80回記念大会)の青森大会2回戦、東奥義塾高校対深浦高校(青森県営野球場)の一戦である。この試合、東奥義塾は1回に早くも39点の得点を上げ、更に2回以後も毎回10得点以上を獲得、夏の大会では地方大会、全国大会を通して初めとなる100点の大台に乗り、さらに得点を重ね122-0の圧勝を演じた。当時の東奥義塾の成績は打者149人、安打86本(うち二塁打31、三塁打21、本塁打7)、四死球36、盗塁78、三振1だった。4番打者の珍田威臣は16打数14安打12打点、11打席連続安打にサイクルヒットを2回記録した。逆に深浦は打者25人がノーヒット(うち三振16)だった。深浦の選手には正式な野球部員が10人しかおらず、しかもその半数は野球経験が全くなかった。この試合は青森朝日放送で生中継されていたが、放送予定時間内ではとても試合終了まで中継することができず、試合途中の2回49点差で放送は終了した。試合時間は3時間47分。現在は5回終了時に10点以上の差が付いていればコールドゲームで終了するが、当時の青森大会の規定では7回まで行うことになっていた。深浦の監督が「ここで試合をやめる(放棄試合)という選択肢もあるが」と選手に問うと「ここで試合をやめてしまうのは、応援されているのだから野球をする気が引けてしまう」ということで最後まで戦い抜くことを決断し、結局7回まで試合が行われた。また、東奥義塾も「手を抜くのは失礼に当たる」と手を緩めることなく攻撃を行った。ただし、そのうち盗塁については批判的な見方も存在し、ノンフィクション作家の海老沢泰久は著書やコラムで大量の盗塁を批判した。この試合については後に川井龍介が「0対122 けっぱれ!!深浦高校野球部」と題したルポルタージュ本としてまとめている(のち加筆され「122対0の青春 深浦高校野球部物語」として文庫化された)。この試合を教訓に高野連は地方大会のコールドゲームの基準を2000年度から統一し、5回以降で10点差以上、7回以降で7点差以上の差が付いた場合はコールドにするよう通達した。ちなみに、深浦高校は翌1999年は0-54で敗れたが、『1年間努力して失点を前年より半減させた』と讃える声もあった。その後2004年の青森大会で、松風塾高校に13-6(青森市営野球場)で7回コールドで大会初勝利を挙げたが、同年7月21日に2007年度から青森県立木造高等学校の分校化が決定した(現在は「木造高校深浦校舎」として出場している)。2011年8月、歌手JAY'EDと若旦那のコラボレーション曲「Toy box」のプロモーションビデオに、当時の野球部員が出演し、当時の試合から十数年を経た元野球部員それぞれの今の姿をうかがい知ることが出来る。なお、2011年(第93回大会)の兵庫県予選1回戦、姫路工業高校対氷上西高校戦で、姫路工業が71-0の5回コールドで勝利。この試合は姫路工業が後攻で攻撃イニングは4回しかなく、1イニングあたりの平均得点は17.75点となり、この試合の東奥義塾の1イニングあたりの平均得点である17.43点を上回った。1978年(第60回記念大会)の佐賀県予選決勝、小城対佐賀学園は4-4で延長18回引き分けとなり、再試合は5-3で小城が勝利し甲子園初出場を決めた。その後2000年に延長は15回までに短縮される。2002年(第84回大会)の福岡県予選決勝、柳川対九州国際大付は九州国際大付が4-1とリードして迎えた9回表に柳川が満塁から三塁打を打って同点に追いつき、そのまま延長15回引き分け。15回制になって初の代表決定戦の再試合は11-8で柳川が勝利した。2004年(第86回大会)の大阪府予選決勝、PL学園対大阪桐蔭の対戦は大熱戦の末延長15回の大会規定で4-4の引き分けに終わり、翌日再試合が開かれた。この試合ではPLが序盤に大量得点を奪い13-7で圧勝。2日越しの熱戦を制して甲子園出場の切符を手にした。なお、この試合は藤井寺球場における高校野球最後の試合でもあった。2006年(第88回大会)宮城県予選では、度重なる雨により予定を大幅に超過した。さらに7月28日に予定していた決勝戦まで雨で中止、元々29・30日はフルキャストスタジアム宮城で楽天戦が組み込まれていたこともあり7月31日に延期となった。そして行われた決勝戦東北高校対仙台育英高校は投手戦の末延長15回0-0の引き分けに終わり地区大会が8月までもつれ込む事態となった。翌8月1日の再試合では仙台育英が前日に引き続いて登板した2年生エース佐藤由規(現東京ヤクルトスワローズ)の力投に打線が応え、仙台育英が6-2で勝利した。2011年(第93回大会)兵庫県予選決勝、東洋大姫路対加古川北の対戦は延長15回の大会規定で2-2の引き分けとなり、翌日に再試合が行われた。最初の試合では7回表に東洋大姫路が1点取ればその裏加古川北が1点、9回表裏にも1点ずつ取り合うというまったく五分の接戦であったが、再試合では5回裏に東洋大姫路が1点先制すると、7回裏に一挙5点の猛攻をみせ、結果6-0というスコアでの決着となった。2013年(第95回大会)広島県予選決勝、新庄対瀬戸内の対戦は延長15回の大会規定で0-0の引き分けとなり、休養日を挟み翌々日に再試合が行われた。再試合では瀬戸内が8回裏に先制した1点を守り切り、1-0で瀬戸内が勝利した。2015年(第98回大会)鹿児島県予選決勝、鹿児島実業対樟南の対戦は延長15回の大会規定で1-1の引き分けとなり、休養日を挟み翌々日に再試合が行われた。再試合では樟南が3-2で勝利した。2007年(第89回大会)7月28日、神奈川県横浜市中区の横浜スタジアムで行われた神奈川大会準決勝の東海大相模対横浜の一戦で、4回に東海大相模の打者菅野智之(後に東海大学→巨人)の打席で起きた。この回3点を先制し、二死一・三塁の場面で、ボールカウント2ボール2ストライクからの投球はワンバウンドになったが、菅野はハーフスイングした。球審は一塁塁審にスイングの有無を確認し、一塁塁審はこれをスイングと判定したため、球審も右拳を挙げてスイングを認め、「ストライク・スリー」を宣告した。この球審のジェスチャーを「三振でバッターアウト・スリーアウトチェンジ」と勘違いしてしまった横浜高校のナインは全員ベンチ前に引き揚げた。しかし第3ストライクが宣告されても、投球はワンバウンド捕球であり、二死であるため、打者菅野は直ちにアウトにはならない。菅野をアウトにするためには横浜の捕手が菅野に触球するか、一塁に送球する必要があった。一方の菅野は、後ずさりする形でバッターボックスを少し出かかっていたが、まだダートサークルを踏み越えてはいなかった。したがって菅野は「振り逃げ」する事が可能な状態である。東海大相模側ベンチから「走れ」の指示を受け、振り逃げ出来る事に気付いた打者走者の菅野は、東海大相模の走者2人と共に無人のダイヤモンドを回って3点を追加した。横浜の渡辺元智監督が審判団に抗議(本来の高校野球の抗議権は当事者と主将のみに限り監督は抗議できない)したものの認められなかった。結果的に横浜はこの「振り逃げ3ラン」の3失点が響いた格好となり、スコアは6-4の2点差で東海大相模が勝利した。2003年(第85回記念大会)の福井県予選1回戦では、大野東-敦賀気比の試合で延長15回に規定により5-5で引き分けとなった。翌日の再試合でも延長15回に規定により3-3で引き分けとなり、雨天順延をはさんだ翌々日の再再試合で敦賀気比が6-1で大野東に勝利した。総イニング数39回、試合時間は8時間42分に及んだ。これは戦後唯一の再再試合である。1941年(第27回大会)には、台湾予選の嘉義農林-台北工でも再再試合が記録された。0-0のまま8回に雨天引き分けとなり、翌日も0-0のまま7回雨天引き分けとなった。その翌日には延長25回で嘉義農林が台北工を2-1で破った。総イニング数は40回に及んだ。地方大会では9回裏二死から大逆転劇が繰り広げられることもある。例えば、1985年(第67回大会)7月25日の埼玉県予選5回戦の城西大川越と秀明高校の試合では、7-1で城西大川越がリードの状況で、9回裏の秀明の攻撃を迎えた。二死無走者から、失策と四球を挟み、7連打で7点を奪い、逆転サヨナラとなった。1998年(第80回大会)7月26日の秋田県予選決勝での金足農と秋田商の試合では、6回を終わって6-16と秋田商がリードしていた(高校野球のルールで決勝以外でこの点差であれば、コールドゲームが成立し、秋田商の勝利となる)。ところが7回以降、金足農が2点,4点,5点と加点し、10点差を逆転して3年ぶり3回目の甲子園出場を決めた。2014年(第96回大会)7月27日の石川県予選決勝での星稜と小松大谷の試合では、8回を終わって0-8と小松大谷がリードしていた。これも準決勝までであればコールドゲームで試合終了であったが決勝戦であったため、最終回の9回まで続行すこととなったのだが敗色濃厚の裏に星稜が9点を入れてサヨナラ勝ちし、2年連続17回目の甲子園出場を決めた。県大会の決勝で最終回だけで大量9点差を逆転サヨナラ勝ちと言う、この空前絶後な試合展開は無論史上初で今後も再現不可能と言われている。中でも特筆すべきは2002年(第84回大会)7月20日の大分県予選2回戦の緒方工と中津北の試合である。この試合は天候がそれほど良くない状況で行われ、9回に雨が激しくなり、投手の制球が乱れ、緒方工は7点を追加して14-5となりダメ押しをしたかと思われた。ところが、この状況は相手投手にとっても同様であり、9点差で迎えた9回二死満塁から、タイムリーヒットで2点、5連続四球による押し出しで4点、遊撃手の失策で1点、そして3点タイムリーで計10点を奪い、14-15で逆転サヨナラとなった。2008年(第90回記念大会)7月20日の岡山県予選準々決勝の関西と作陽の試合において、試合中に観客が乱入したため12分間中断した。関西が作陽に7-9と2点差まで迫っていたときに起こり、攻撃中だった関西側のベンチで暴言などを吐き威嚇した。県高野連関係者がベンチ前で男たちを取り囲んだため監督や選手に危害は及んでいない。さらに観客の野次に激昂しスタンドに上がったところで、通報を受けた倉敷署の署員に取り押さえられた。2012年(第94回大会)7月12日の神奈川大会1回戦の日大藤沢と武相の試合において、2-2の同点で迎えた9回裏一死満塁の場面で起きた。日大藤沢の打者は、ボールカウント2ボール2ストライクから、三塁に飛球を打ち上げた。三塁塁審はインフィールドフライを宣告し、内野手が正規に捕球した。この直後、武相の投手及び内野手は三塁走者の様子を確認せずにマウンドに集まった。これを見た三塁走者は、三塁にリタッチを行ったのち、本塁へ走った。球審は三塁走者の本塁到達に対して、セーフのジェスチャーを行った。この後、プレイの確認の為に審判団が集まり、このとき武相の選手及び監督は両手を「T」の形にしてタイムをかけていたと猛抗議をしたが認められず、日大藤沢のサヨナラ勝ちとなった。記録は三塁走者の盗塁(ホームスチール)である。1956年(第38回大会)7月31日の北関東大会決勝戦の足利工業対藤岡高校戦において、藤岡高校はボーンヘッドにより本来ならばサヨナラ勝ちでの優勝を逃してしまい、結果的に甲子園出場を逸する大失態を犯した事例がある。1対1のまま延長戦に入り、延長15回裏、二死満塁で藤岡高校のサヨナラのチャンスを向える。そして7番打者が打った痛烈な一塁ゴロを一塁手がファンブルして三塁走者はもちろん打者走者も一塁に駆け込んでセーフ、サヨナラでゲームセットと周囲に思わせたが、一塁走者が二塁へ走り込むのを途中でやめて一二塁間で立ち止まり(当然ながら一塁走者は二塁を踏む義務があるが念願の優勝に我を忘れてしまったのか)"勝った勝った"と手を叩いて喜んで、二塁に行かず歓喜するチームメイト達による優勝の輪に加わってしまい試合後の挨拶のために整列しようとまでしていた。サヨナラ負けか?と呆然とする足利工ナインの中でただ一人二塁手がこのことに気付いて、すかさず一塁から球を受取り二塁を踏んでフォースアウトの判定が下った。ルール上、当然サヨナラの得点は認められずに無効となり、スリーアウトチェンジで延長戦は続行、これで折角の甲子園初出場が決定していたはずの藤岡高校は、結局そのまま延長21回表に足利工業に1点を勝ち越されて反撃ならず、1対2で敗れ去った。藤岡高校のエースである石井投手は延長21回を一人で投げ抜いた奮闘も空しく無念の涙を呑んだ。当時の北関東大会は群馬県、栃木県、茨城県の3県で1校しか甲子園に出場できない狭き門であった。なお、その後に至るまで藤岡高校の甲子園大会出場は春夏を通じて一度も実現せず、(地区予選決勝および代表決定戦への進出もこの時のみ)そのまま統廃合により2007年に学校名は消滅してしまった。アメリカの大リーグでも1908年のナショナルリーグのペナントレースで、ジャイアンツのフレッド・マークルが対カブス戦に同様のミスを犯した「マークルズ・ボナー」は有名である。1915年(第1回大会)と1916年(第2回大会)は豊中球場で、1917年(第3回大会)から1923年(第9回大会)までは鳴尾球場で開催された。1924年(第10回大会)に甲子園球場が完成し、以降は甲子園球場での開催となった。しかし、それ以降も全国高校野球を甲子園球場以外で何度か開催されている。1946年(第28回大会)は阪急西宮球場で開催された。甲子園球場がアメリカ軍の接収下にあり、利用できなかったための代替球場であった。1958年(第40回記念大会)と1963年(第45回記念大会)は、全国各都道府県と沖縄の代表を含めた47代表が参加する記念大会であり、試合消化のために甲子園球場と阪急西宮球場の併催となった。これは甲子園では消化しきれないための処置であり、1回戦から3回戦までの試合を甲子園球場での試合と西宮球場での試合を抽選で半分ずつに分け、準々決勝以降は甲子園球場での試合とした。しかしながら西宮球場に分けられた高校からは選手、父兄、応援団からも不評であり、大会が終了した後も猛烈な批判が絶えなかった(最も不運な例として、山梨県代表の甲府高校などは1、2回戦に勝利し3回戦で敗れたが、3試合とも会場は西宮球場で選手たちは入場行進の時だけしか甲子園の土を踏めなかった)。同じく47代表参加の1968年(第50回記念大会)は全試合が甲子園球場で試合が行われ、以降代表校が49校あるいは55校までに増えてからも同様である。ちなみに春の大会は第1回の1924年に八事(山本)球場で開かれた以外、全部甲子園のみを会場として行っている(終戦直後の1946年春は中止)。1915年(第1回大会)から優勝校と準優勝校のナインにメダルが贈呈され(※前者は金・後者は銀)以降定着しているが第1回では副賞として現物が支給されていたという。第1回では出場校は1つ勝利するごとに万年筆が贈呈され、優勝校と準優勝校には賞金と辞典(前者が百科事典・後者が国語辞典と英和和英辞典)が贈呈されていたと記録されているが、さすがにおかしいという声が上がり第2回からメダルのみとなったのである。大会初期の頃、敗者復活制度が実施された。これは第2・3回大会の2回だけ行われたもので、1916年(第2回大会)の場合、全国大会に参加は12校。1回戦の試合数が6試合。2回戦が3試合となると、次のステップに進めるのは3校と端数が生じてしまうということで、1回戦で敗れた6チームのうち抽選で2校を敗者復活として出場させた。対象校は中学明善(福岡)と鳥取中(鳥取)であった。敗者復活校同士の試合は鳥取中が勝利したが、鳥取中は次の試合で敗北している。1917年(第3回大会)も12校で開かれたが、この時は抽選による敗者復活が4校となった。対象校は愛知一中(愛知)、明星商(大阪)、長崎中(長崎)、和歌山中(和歌山)であった。4校による敗者復活戦をして、その勝者2校が2回戦で対戦し、その勝者が準決勝に進んだ。ところが、この敗者復活戦を勝ち抜いた愛知一中は決勝まで進み、そのまま優勝した。このことから敗者復活制度を行うことに疑問が感じられたため、この第3回を最後に廃止された。決勝戦の後の閉会式の最後には、優勝校・準優勝校選手による場内一周が行われる。これが最初に提案されたのは1919年(第5回大会)。地元勢として初優勝を果たした兵庫県立第一神戸中学校(現兵庫県立神戸高等学校)の偉業を称え、スタンドを埋めた観衆へのサービスとしての企画であった。しかし神戸一中ナインは、われわれは見世物ではないとの理由でこれを固辞。神戸高校は神戸一中時代に当該大会以降も何度か出場しているが、場内一周の機会にはこれ以降恵まれていない。1941年(第27回大会)が戦時体制による交通制限実施により中止となり、以降1946年(第28回大会)が行われるまで5年間、太平洋戦争などにより空白の時代を迎えていた。しかしこれによって和歌山県立海草中学校が6年間も優勝旗を保持することとなってしまったが、実は中止になった第27回で3連覇の期待がかけられていた。海草中は1939年(第25回大会)を制し、翌1940年(第26回大会)でも連覇。中止になった時点で2年間保持していた。そのため優勝旗の保持が7年にも渡ったのである。戦後初の大会である1946年(第28回大会)での海草中の成績だが紀和大会で敗退し結果入場行進は主将一人となった(※その大会の代表校は和歌山県立和歌山中学校であった)。1969年(第51回大会)、松山商(愛媛)と三沢(青森)の決勝戦は同点のまま延長18回で試合終了した。翌日に決勝戦では春夏を通じて初の引き分け再試合が行われた。この再試合で松山商が勝利し、優勝となった。準優勝投手である三沢の太田幸司は4日連続で45イニングを一人で投げぬいた。また、2006年(第88回大会)、駒大苫小牧(南北海道)対早稲田実業(西東京)の決勝戦では、8回に両チーム1点ずつを獲得し、両チームエースの好投で延長15回引き分けとなり、37年ぶり2回目の再試合となった。この再試合で早稲田実が勝利し、優勝となった。優勝投手である早実の斎藤佑樹は4日連続延べ42イニングを一人で投げぬいた。この決勝戦は朝日放送発にテレビ朝日系で12:55~試合終了まで完全生中継されたが、偶然にも決勝第1戦の日が日曜日と重なったため、関東地区では平均視聴率で23.8%、最高視聴率は30.4%を記録した。1985年(第67回大会)の2回戦(初戦)PL学園対東海大山形の試合において、PL学園が春夏を通じて全国大会では史上初の毎回得点を達成し、29対7の圧勝を演じた。(スコアは「毎回得点#日本の高校野球」を参照されたい)1972年(第54回大会)の1回戦及び1989年(第71回大会)の2回戦(初戦)で、長崎県代表の海星高校と三重県代表の海星高校との同一校名対決が実現した(どちらも「かいせい」と読む)。1972年は2対0で長崎海星が、1989年には10対2で三重海星が勝利している。この時、スコアボードには三重側を「三・海星」、長崎側を「長・海星」と表示された。また、1957年(第39回大会)の2回戦では埼玉県代表の埼玉県立大宮高等学校と宮崎県代表の宮崎県立宮崎大宮高等学校が対戦し、延長10回の末7対6で埼玉の大宮高校が勝利しているが、こちらは後者が「宮崎」との冠名があるため、厳密には同一校名での対決ではない。1982年(第64回大会)の2回戦(初戦)益田対帯広農業の試合で、9回表の益田の攻撃。帯広農業の投手は第3アウトに気付いていたが、4人の審判員のほか各選手らも、それに全く気付かないという人為的なミスにより、第3アウト後も次の打者を出した。後に記録員の指摘で間違いが判明した。これは当時、スコアボードのアウトを表示するカウントランプが故障により、1つしか灯っていなかったのが原因だったという。この「第4アウト」目の記録は直ちに取り消されたものの、試合終了後にこのミスジャッジを重く見た高野連は、この試合を務めた4人の審判全員を同64回大会中謹慎処分とした。2002年(第84回大会)の3回戦にて、和歌山県代表の智弁和歌山と奈良県代表の智弁学園が対戦したことがある。この2校は同系列の兄弟校であり、学校長も同一人物が兼ね、ユニフォームのデザイン・色調も同一(違いは左腕の校章の一部と県名、胸の智辯の大きさ)の為、非常に稀な同一ユニフォーム対決となった。試合結果は7-3で、智弁和歌山が勝利した。1989年のNHKの高校野球開催直前の特別番組で、1980年代頃に兄弟校対決を予測して和歌山側が赤の帽子を準備したと放送されていたが、この試合では従来の帽子が使用された。また、1983年(第65回大会)の1回戦で、静岡県代表の東海大一と熊本県代表の東海大二とのほぼ同一(違いは地色が前者が白、後者が水色)ユニホームの兄弟校対戦もある。上記の節と類似しているが、1997年(第79回大会)の2回戦(初戦)で、栃木県代表・佐野日大と宮崎県代表・宮崎日大が対戦して2-1で佐野日大が勝った。2013年(第95回大会)の2回戦(初戦)で、3年連続16回目の西東京都代表・日大三と6年ぶり16回目の山形県代表・日大山形が対戦した。日大三は、2011年の全国制覇以降の勝利を、日大山形は山形県勢で7年ぶりの初戦突破を狙った試合だった。結果は、7-1で日大山形が日大三を下した。以降、準々決勝までに栃木県代表・作新学院、高知県代表・明徳義塾と、優勝経験のある3校を下し、山形県勢夏20勝目と夏初めてのベスト4を記録した。準決勝では、初出場で優勝した群馬県代表・前橋育英に1-4で敗れ、春夏通じて初の決勝進出にはならなかった。1957年(第39回大会)の2回戦で(1回戦が不戦勝の為、この試合が初戦)早稲田実業の王貞治投手が寝屋川高校相手に延長11回を投げ抜き、1対0で完封するだけでなくノーヒットノーランを達成した。延長戦でのノーヒットノーランは史上初の快挙で、春夏を通じて現在でも史上唯一の偉業である(0対0で試合が進み、11回表に1点を早稲田実業が先制し、そのまま11回裏を守り切った形で試合終了)。なお、同年の春・選抜大会で早稲田実業は優勝しているが、その時も初戦は寝屋川高校でスコアも同じく1対0であった。1984年(第66回大会)では、境高校の安部投手が対戦校である法政一高を10回裏2死までノーヒットノーランに抑えたが、次打者にサヨナラホームランを打たれ敗戦し惜しくも2度目の快挙はならなかった。更に2009年(第81回大会)の選抜大会でもPL学園の中野投手が南陽工業を相手に10回表1死までノーヒットノーランに抑えたが初ヒットを許した後に打ち込まれ2失点し、その裏の反撃も1点に終わり惜敗するなど快挙の再現はならなかった。なお、延長戦のノーヒットノーランは日本プロ野球でも1度しか達成されていない、希少価値のある大変珍しい記録である(プロでは阪神タイガースの江夏豊が中日相手に1973年8月30日甲子園で達成。延長11回表までノーヒットノーランに抑えるも味方の援護が無かったが、遂に11回裏、江夏が自らサヨナラホームランを放ってサヨナラ勝ちし成し遂げた)。1964年(第46回大会)に出場した高知は初戦で(対:秋田工)エースで4番打者の大黒柱であった有藤通世が顔面に死球を受け退場、陥没骨折で入院する事故に見舞われ、次の2回戦(対:花巻商)では主将が同じく死球で退場し、骨折して入院する緊急事態となった。(1回戦でエースで4番、2回戦では主将が負傷してしまい)準々決勝からは投打の大黒柱である二人が不在というハンディキャップを背負うこととなったが二番手投手の2年生:光内選手が終始好投、打線も大会を通じて2割に満たない数字ながらも(.196)ここぞという好機を逃さず加点し、ついにそのまま優勝を成し遂げ、周囲から将棋に例えた『飛車角落ちの優勝』と称えられた。甲子園に初出場して、その後2度と出場できていない学校は数多いが、その中でも抜群の成績を収めた学校が1校ある。1965年(第47回大会)で初出場を果たした三池工(福岡)は春夏を通じて初めての甲子園であったが、初戦で延長13回2-1(対:高松商)の接戦を勝利すると波に乗り、準々決勝でも延長10回3-2(対:報徳学園)で勝利。準決勝でも1点差で勝ち(4-3 対:秋田)、決勝戦では豪腕の木樽投手を擁する優勝候補筆頭の銚子商相手に逆に2-0の完封勝利で初出場初優勝の快挙を果たした。その後、夏の選手権大会、春の選抜大会にも出場することが無く、5試合で5勝0敗、勝率10割、優勝確率100%のままである。同様の例は夏の選手権優勝校では三池工業のみである。また、春の選抜優勝校では徳島海南高校が該当する。その他、春夏両方に出場経験があり、そのうちの一方の勝率が10割という高校は複数ある。降雨等による天災でノーゲームになった試合が、夏の選手権大会では9度起こっている。2003年(第85回記念大会)1回戦、倉敷工(岡山)対駒大苫小牧(南北海道)の試合では、駒大苫小牧が8-0と8点差の大量リードしながらも、4回裏途中台風接近による激しい雨が降り続き、降雨ノーゲームとなる。そして翌日の再試合では、前日と打って変わって倉敷工が試合を優位に進め、5-2で駒大苫小牧を下した。駒大苫小牧側では日付から「8・9の悲劇」と呼んでいる。 翌2004年(第86回大会)で甲子園に戻ってきた駒大苫小牧は、初戦の2回戦で佐世保実(長崎)を7-3で下し、北海道勢春夏50勝目の勝利を挙げた。その後も駒大苫小牧は日大三、横浜など強豪に勝ち続け、そして決勝戦では2004年春選抜大会で優勝の済美(愛媛)を13-10の乱打戦を制し、見事に北海道勢として初の甲子園優勝を果たした。 駒大苫小牧が8点もリードしながら、降雨によるノーゲーム再試合負けが大きく知られることになったが、これからさかのぼること10年前にも似たような経緯の試合があった。 1993年(第75回記念大会)2回戦、鹿児島商工(鹿児島)対堀越(西東京)の試合では、鹿児島商工が3-0と3点リードした8回表、突然の豪雨で球場全体が水浸しになり、2度目の24分間の中断後、降雨コールドゲームが適用されて鹿児島商工が堀越を下した。 続く3回戦、鹿児島商工は常総学院(茨城)と対戦、鹿児島商工が4-0と4点リードしながらも4回表、前日に続く雨で今度は降雨ノーゲームとなってしまう。翌日の再試合ではなかなか点が取れず投手戦になり、7回表に1点を取った常総学院にそのまま1-0の僅差で敗れ、鹿児島商工は不運な敗戦で甲子園を去った。 翌1994年(第76回大会)で鹿児島商工は、学校名を樟南に変更して甲子園に戻ってくる。前年にノーゲームによる悔しい負け方をした樟南(鹿児島)は3回戦、双葉(福島)との試合で、3-1と樟南が2点リードで迎えた試合成立寸前の7回裏途中、降り続く雨で中断。又もノーゲームと思われたが1時間10分後に試合再開、結果樟南が4-1で下してそのまま決勝へ勝ち進むことになる。 この年の決勝で対戦した佐賀商(佐賀)も、準々決勝の北海(南北海道)との試合中、5-0と佐賀商が先行していた4回表に、激しい雷雨により1時間33分間も中断となったが、6-3で佐賀商が逃げ切って勝利。 1994年夏選手権の佐賀商の優勝に貢献した当時のコーチは、奇しくも10年後、2004年の夏選手権で優勝した駒大苫小牧の香田誉士史監督である。さらに、1993年の夏選手権でノーゲーム再試合で運良く鹿児島商工に勝った常総学院は、同じく奇遇にも駒大苫小牧がノーゲーム再試合で悔しく敗れた、2003年の夏選手権で全国制覇を成し遂げている。 2008年(第90回記念大会)1回戦では、大阪桐蔭(北大阪)対日田林工(大分)の試合で、大阪桐蔭が4-0とリードしながら、2回裏途中で雷雨により降雨ノーゲームとなる。大阪桐蔭の部員数人は「再試合はリードしていた学校が敗れるケースが多いので、嫌な予感がよぎった」と語ったが、翌日の再試合も大阪桐蔭は前日の打撃好調を維持、16-2と日田林工に圧勝してノーゲームの不運を吹き飛ばした。大阪桐蔭はその後も勝ち進んで決勝戦に進出。そして決勝の大阪桐蔭は、常葉菊川(静岡)に17-0と圧倒的な大差を付けて、17年ぶり2回目の夏選手権での全国制覇を成し遂げた。2007年(第89回選手権大会)では開幕戦に登場した佐賀県立佐賀北高校の副島選手が(対:福井商)8回表(佐賀北1対0でリードの場面)で追加点となる本塁打を放ち、大会第1号を叩き出して開幕戦を勝利(2対0で今回が2回目の出場となる佐賀北にとっては甲子園初勝利)。その後も接戦の連続ながら(2回戦では延長15回引き分け再試合を制し、準々決勝では延長13回サヨナラ勝ちなど)快進撃を続け、勝ち進んだ決勝戦(対:広陵)では0対4で敗色濃厚の劣勢から8回裏に一死満塁から押し出しで1点を返し、打席には3番の副島選手が立ち、見事に奇跡の逆転満塁本塁打を放ち決勝点となる5点目のホームイン。そしてそのまま5対4で試合終了し初優勝を成し遂げたが、この大会では最初の本塁打(大会第1号)と最後の本塁打(大会第24号)を同一チームの同一選手が成し遂げるという史上唯一で珍しい実例があった。なお、佐賀県勢の選手権大会優勝は2回あるが(76回大会の佐賀商と89回大会の佐賀北)、どちらも開幕戦に勝利し優勝戦では満塁本塁打で決勝点、しかも2校とも近年では少数となってきた公立校による全国制覇という、まるでジンクスのような偶然の一致がある。ちなみに開幕戦で勝利し、そのまま優勝した事例は過去に9回ある。第2回:慶応普通部(東京)、第8回:和歌山中(和歌山)、第20回:呉港中(広島)、第22回:岐阜商(岐阜)、第29回:小倉中(福岡)、第36回:中京商(愛知)、第49回:習志野(千葉)、第76回:佐賀商(佐賀)、第89回:佐賀北(佐賀)の9校である。かつて、1府県1代表制(北海道・東京は2代表)となった1978年(第60回記念大会)から2006年(第88回大会)まで、夏の甲子園では初戦で近隣都道府県の代表校と当たることを避けるために、初戦は「東ブロックの高校対西ブロックの高校」として、組み合わせが行われていた。これは1977年(第59回大会)に早稲田実(東東京)-桜美林(西東京)といきなり初戦で東京決戦に、その前1976年(第58回大会)も豊見城(沖縄)-鹿児島実(鹿児島)と南九州の隣県決戦に、その他にも隣都道府県同士に近い組合せが何度か続き「初戦は東西対決に分けるべき」という声が多かったためである。しかし初戦で「東西対決」方式の組合せに変更した1978年以降も、丁度東西ブロックの境目での隣府県対決や、全国9地区で唯一東西に分断される北信越地区(新潟・長野・富山・石川・福井)同士の試合が行われたケースが何度も有り、不公平感があるとの声があがった。そのため検討の末、2007年(第89回大会)から東西対決方式だった初戦の組合せを、1977年以来30年ぶりに、全地区でのフリー抽選式に戻すこととなった。但し、2代表が出場する北海道と東京勢は初戦で対戦しないように、抽選の最初に振り分けられる(なお10年毎の記念大会では他に、埼玉・千葉・神奈川・愛知・大阪・兵庫の6府県2代表も、同府県同士が初戦で当たらないよう配慮される)。フリー抽選式で行った第1回から第59回大会までに、実現していた初戦・隣都道府県対決及び現在の春選抜の同じ地区に属するものは、以下の対戦がある。それから第60回記念大会から第88回大会までの29年間、夏の甲子園で初戦は「東ブロックの高校対西ブロックの高校」として、組み合わせが行なわれるようになった。しかし、東西の境目での隣府県と北信越地区については、以下のようなケースで初戦対決が行われている(東ブロックの境目-新潟・長野・富山・岐阜・三重。西ブロックの境目-石川・福井・滋賀・京都・奈良・和歌山。なお第60~69回大会までの10年間、石川県代表は東ブロックに入っていた)。第60回~第88回大会まで、東西境目の隣府県及び北信越地区の初戦対決は、過去に13回行われている。また東ブロック代表の勝利はわずか3回のみで、圧倒的に西ブロック代表の方が有利な試合展開であった。毎年この大会の代表校の中から選出された12校が、この大会終了後の9月か10月に各都道府県持ち回りで開く国民体育大会に出場する。出場校は開催都道府県の代表校、ベスト8以上の各校の他、概ね3回戦の敗戦校の中から地域性、試合内容などを考慮して決定する。07年より1都道府県1校に決定。よって08年神奈川から国体に出たのはベスト4の横浜のみでベスト8の慶応は出ていない。2015年は東京の早稲田実・関東一が共にベスト4となったが、勝利数の差(早稲田実が4勝、関東一が3勝)により早稲田実が選出された。なお、国体の高校野球競技は公開種目(軟式も同じ)であり、公式な天皇杯獲得ポイントには反映されない。この大会では実質的な新人トーナメントとなる秋季高校野球都道府県大会・地区大会と同じく、新シーズンの甲子園出場を目指す1・2年生が中心となる場合もあるが、甲子園を湧かせた3年生の選手も事実上最後の全国大会としても出場することが大半であり、特にドラフトで注目を集める選手らは注目される存在となっている。1992年(第74回大会)の星稜高校は、明徳義塾高校に2回戦(松井秀喜が5打席連続敬遠された試合)で敗戦したが特例で国体の出場が認められ、国体では決勝戦の最終打席で高校生活最後のホームランを放った松井の活躍もあり優勝を飾った。なお、2006年(第88回大会)の国民体育大会(のじぎく兵庫国体)は、プロ野球公式戦の試合日程などの都合上、甲子園は使用せず、高砂市にある高砂球場で行われた。またこの年の国体決勝は、夏の甲子園決勝戦と同じ、駒大苫小牧-早稲田実業の対戦となりスタンドは満員札止め。朝日放送も、午後から録画中継でTV放送を行った。今大会においての連覇は現在7例ある。詳しくは甲子園連覇を参照のこと。

出典:wikipedia

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