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苫米地義三

苫米地 義三(とまべち ぎぞう、明治13年(1880年)12月25日 - 昭和34年(1959年)6月29日)は日本の政治家。衆議院議員(1946年-1952年、当選3回)、参議院議員(1953年-1959年、当選1回)。青森県上北郡藤坂村出身。(三本木市を経て現十和田市)関東管領上杉憲政の末裔、山内上杉流苫米地家の一族で古くは中臣鎌足まで遡ることができる日本の名門家系。旧制札幌中学校、東京高等工業学校応用化学科卒(明治36年)。日本進歩党、民主党、国民民主党(党首)、改進党、日本民主党、自由民主党に所属。会社員時代は、大日本人造肥料会社(現日産化学工業)の社長・第一化学工業株式会社の社長を務め、南部鉄道社長も要請により就任。骨相学・考星学(アストロロジー)・姓名学・霊気療法の研究を趣味とした。1946年4月10日、終戦後初の衆議院選挙で、日本進歩党公認で青森県全県区から出馬し、定数7の立候補者38名中7位で初当選。片山内閣で運輸大臣を務め、芦田内閣においても、国務大臣兼内閣官房長官を務めた。 1947年4月25日の衆議院選挙に民主党公認として、青森一区から立候補し、小笠原八十美(民主自由党)・山崎岩男(民主党)に次ぐ3位で当選。1949年1月23日の衆議院選挙に青森一区から民主党公認で立候補し、小笠原八十美に次ぐ2位で当選。1950年4月28日、国民民主党を結成し、最高委員長を務める。1951年のサンフランシスコ講和会議では野党を代表する形で全権委員の一人となる。1952年衆議院解散(抜き打ち解散)後の、衆議院選挙に立候補せず、日本国憲法第7条を衆議院解散の実質的根拠として行われた解散が憲法違反であるとして訴訟を起こした(苫米地事件)。1953年4月24日に行われた、参議院選挙に、国民民主党が合流し結成された改進党公認で全国区から出馬し、当選。改進党参議院議員会長を務め、改進党が日本民主党に合流し最高委員に就任、その後結党された自由民主党に合流。参議院議員の任期を全うして、政界を引退した。

出典:wikipedia

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