河豚計画(ふぐけいかく)とは、1930年代に日本で進められた、ユダヤ難民の移住計画である。1934年に鮎川義介が提唱した計画に始まるとされ、1938年の五相会議で政府の方針として定まった。実務面では、陸軍大佐安江仙弘、海軍大佐犬塚惟重らが主導した。ヨーロッパでの迫害から逃れたユダヤ人を満州国に招き入れ、自治区を建設する計画であったが、ユダヤ人迫害を推進するドイツのナチス党との友好を深めるにつれて形骸化し、日独伊三国軍事同盟の締結や日独ともに対外戦争を開始したことによって実現性が無くなり頓挫した。「河豚計画」の名は、1938年7月に行われた犬塚の演説に由来する。ユダヤ人の経済力や政治力を評価した犬塚は、「ユダヤ人の受け入れは日本にとって非常に有益だが、一歩間違えば破滅の引き金ともなりうる」と考えた。犬塚はこの二面性を、美味だが猛毒を持つ河豚に擬えて、「これは河豚を料理するようなものだ」と語った。のちに、日本通として知られるアメリカ人ラビのマーヴィン・トケイヤーが同計画に関する研究書を執筆した際に、この喩えを借りて『河豚計画("The Fugu Plan")』と題したことから、「河豚計画」と通称する。ただし同書によれば、この語は当時も非公式に使われていたという。河豚計画の核心はアメリカ(殊にユダヤ系アメリカ人)を説得することにあった。つまり、ヨーロッパ諸国の数千から数万のユダヤ人に対して、満州国(あるいは上海)への移住を勧めるようアメリカを説得しようとした。その目的は、ユダヤ人の経済力の恩恵を日本が享受し、日本へも資本を投下させようとしたためである。その背景として、当時すでにユダヤ人がヨーロッパ諸国で迫害を受けるばかりか、ドイツ国内における市民権を否定され公職から追放されるなど深刻な状況下におかれていたことを挙げることができる。実際、ナチス政権下のドイツにおいては、1935年にニュルンベルク法が制定されるに至っていた。河豚計画は、「在支有力ユダヤ人の利用により米大統領およびその側近の極東政策を帝国に有利に転換させる具体的方策について」という長い表題の付いた計画書である。その中で計画者らは豊富な選択肢を提示した。その選択肢には、ユダヤ人の移住及び投資獲得の方法に関する詳細な計画が含まれていた。1939年6月に編纂されたこの計画書は、同年7月に「ユダヤ資本導入に関する研究と分析」と改題した上で政府に提出され、承認を受けた。当時、ユダヤ人社会は日本と比較的友好的な関係にあり、また、アメリカは、満州国建国などで日本との外交的対立が先鋭化してきていた。そこで同計画書において提示されたのは、世界のユダヤ社会とアメリカとの双方の関心を惹く方法であった。すなわち同計画書には、などが盛り込まれていた。同時にこの計画は、アメリカの新聞や映画業界を抱き込むことをも提案していた。計画者らは、当時これらの業界がユダヤ人に支配されていると信じていた。しかし、実際の記述の大半は移住計画に割かれていた。例えば上海近郊の諸地域や、満州の多くの箇所が候補として示された。同移住計画は、移民の人口が1万8千人から60万人に及ぶと見積もっていた。しかも、それぞれの想定人口規模に合わせた、学校、病院などのインフラの整備、居留地の面積に関する詳細も示されていた。計画者らの間において、これらの居留地においてユダヤ人に対し、文化・教育面での自治、完全な信教の自由を与えることが合意されていた。日本の計画者らは、ユダヤ人に過度の自由を与えることを警戒していた一方で、ユダヤ人の好意と経済的恩恵を継続的に享受するためには、ある程度の自由が必要であろうと考えた。計画者は、この計画を承認するよう要請した。その計画において主張されていたのは、「居留地は一見自治国のように見えるが、ユダヤ人を密かに監視下に置くために統制が必要である」ことであった。計画者は、ユダヤ人が支配権を掌握して、日本の政治経済の主流への道を進むのではないかと懸念したのである。なお、『シオン賢者の議定書(後述)』によれば、諸外国でユダヤ人が支配権の掌握を行った、とされている。ただし、その計画における居留地への投資と移民の送致は、世界のユダヤ社会任せとされていた。元来この計画は、日本政府のうちでも少数の者、及び軍当局(彼らは満州国に住民が定住する必要性を感じ、また同地に対する日本の産業及びインフラの構築を支援することが可能であった)の考えであった。この一派の主な顔触れは、「ユダヤ専門家」として知られる陸軍大佐安江仙弘と海軍大佐犬塚惟重の両名に加え、日産コンツェルンの総帥鮎川義介、及び関東軍のいわゆる「大陸派」(満州進出を求めた多くの軍閥)であった。例えば鮎川は1934年、「ドイツ系ユダヤ人五万人の満洲移住計画について」と題する論文を発表した。彼は、5万人のドイツ系ユダヤ人を満州に受け入れ、同時にユダヤ系アメリカ資本の誘致を行うことにより、満州の開発を促進させると共に、同地をソ連に対する防壁とする構想を立案した。関東軍の後ろ盾を得た彼は1937年、日本産業を改組して満州重工業開発を設立。満州への本格的進出を果たした。満州国にユダヤ人を呼び寄せるという彼らの構想は、ユダヤ人が多くの資金や政治権力、及びそれらを獲得する超自然的ともいうべき能力を有するという確信から来ていた。彼らは、ドイツ系ユダヤ人でアメリカ人銀行家のジェイコブ・シフの名を記憶していた。30年前、クーン・ローブ商会を率いるシフが日本政府に提示した巨額の投資があったればこそ、日本は日露戦争に勝利できたのである(戦費の約4割を、日本政府へ協力したシフが調達したといわれる)。さらに彼らは、『シオン賢者の議定書』の記述を信じた。1897年にスイスのバーゼルで開催された、第1回シオニスト会議の秘密議事録という触れ込みで流布した同書は、「世界の政治経済の支配を目論む、国際的なユダヤ人の陰謀の存在を示す証拠」とされ、偽作の疑いがたびたび出たにも拘らず、世界中に影響を与えた。アルフレート・ローゼンベルクもその1人である。『二十世紀の神話』の著者であり、ドイツの理論的指導者として知られる彼は、1923年に同書の解説本を上梓している。政府中枢でも、ユダヤ人の経済力や政治力、及びユダヤ人が世界中に四散したことによる国際的情報網を過大評価した者は少なくなかった。彼らは、ドイツやソビエト連邦をはじめとするヨーロッパ諸国で迫害を受けているものの、日本とは比較的友好的関係にあったユダヤ人を救出することで、日本に対する在米ユダヤ人からの確実で永続的な好意を獲得できると考えたのである。1918年に、日本はロシア革命の鎮圧のためシベリア出兵を行い、赤軍と敵対していた白軍を援護した。10万人の兵と9億円の戦費を投入したものの、3千人の死者を出した上に目立った成果もなく、1922年に撤退を余儀なくされる。この頃、白系ロシア人らの間では、革命はユダヤ人による陰謀であるとの疑惑が広がっていた。レーニンをはじめ、トロツキーやカーメネフ、ジノヴィエフ、スヴェルドロフら多くのユダヤ人、もしくはユダヤ系の人物が革命の主導者として名を連ねていたことが原因とみられる。白軍は『議定書』の写しを兵士に配布し、またシベリアや満州に逃れた白系ロシア人は、行く先々で反ユダヤ主義思想を喧伝した。こうしてユダヤの情報に接した者の中に、安江と犬塚も含まれていた。2人はシベリアで『議定書』の存在を知り、ユダヤ陰謀論の洗礼を受けた。1922年に帰還した彼らは、ユダヤ人に関する多くの報告書を書いた。安江は1924年、「包荒子」の筆名で著した『世界革命之裏面』で、『議定書』の全訳を掲載した。また1928年にイギリス委任統治領パレスチナのユダヤ人入植地を訪れ、ハイム・ヴァイツマン(ヘブライ大学創立者)、及びダヴィド・ベン=グリオン(後のイスラエル初代首相)と会談し、さらにユダヤ人入植者の勤勉さを目の当たりにするに至って、ユダヤ人の力に魅了されるようになった。2人は外務省に対し、ユダヤ人への関心を持たせることに成功。以後、日本のあらゆる大使館及び領事館の職員は、彼らの駐在する国々のユダヤ社会の動向を外務省に伝え続けることを要求された。膨大な報告書が上げられたが、いずれも「国際的陰謀」の存在を決定的に証明しなかった。「ユダヤ専門家」はその後、「大陸派」とある程度まで協力した。陸軍大佐板垣征四郎及び陸軍中佐石原莞爾率いる「大陸派」は、日本から開拓者や資本を満州に誘致しようとしたが、難航した。これが、計画者の胸中に河豚計画の最初の種が蒔かれた瞬間であるとみられる。1931年、満州事変の直前のことであった。だがユダヤ専門家にとって不運なことに、1933年8月、満州の都市ハルビンでユダヤ系ピアニストのシモン・カスペ()の誘拐・殺害事件が発生したのである。この時の日本側の対応が、ハルビン在住のユダヤ人に不信感を抱かせた。彼はロシア系ユダヤ人で大富豪のヨゼフ・カスペ(Josef Kaspe)の息子であった。シモンは、たまたまハルビンに帰省した際に何者かに誘拐され、同年12月、遺体で発見された。両手の生爪を剥がされ、耳を削がれた上、頭部に銃弾を撃ち込まれるという凄惨なものであった。のちに容疑者としてロシア人の警察官「マルティノフ」、反ソ活動家「シャンダリ」、反ソ思想の「キリチェンコ」、反ソ運動者「ザイエフ」、農民上がりの「コミサレンコ」と「ベズルーチコ」の六名が逮捕された。ヨゼフ・カスペはゲーペーウーに活動資金を提供していると噂されており、祖国愛による犯罪とされた。満州国警察庁は某方面からの注文によって全員を「情状の余地あり」と評した。関東軍は、裁判で有罪の判決を下した中国人判事を逮捕した。日本人判事による再審の結果、被告らには10年から15年の不定期刑が下されたが、翌週には特赦により釈放されたのである。1933年10月3日、反ユダヤ主義の新聞「ナシ、プーチ」()がロシアファシスト党の機関紙として出版された。1935年に日本総領事森島守人はこのユダヤ人を中傷するこの機関紙を批難した。この新聞はナチス党部の後援により反共工作を研究する「アンティ、コムミンテルン」協会本部より出版された。満州国政府の要請によって1938年2月1日に一度停止するが、1941年までハルビンで出版されつづけ、その後上海に移動した。もはや日本の軍部を信頼できなくなったハルビン在住のユダヤ人(当時既にかなりの人数が在住していた)は、事件の2年後には大半が市外に逃れた。彼らの多くは遠く上海へ逃れ、出会った者達に恐怖の体験を語った。軌道に乗ると思われた計画は、大きな壁に直面した。以下は、「比較的公平なる態度を以って研究しつつある一ロシア人の報告による」とされる。1928年4月5日、フリーメーソンのスンガリー(松花江)会場が設立された。これは暫く存在が隠れていたが、1929年夏にロシアのファシストシンジカリスト党が、この会の存在を暴露し宣伝した。ユダヤ系ロシア紙は「フリーメーソンは有害・危険なものではない」として反論した。1930年、ユーゴスラビアのベオグラード市で発行された『「メーソン」の特質と其の行動』というフリーメーソンの有害さ・危険さを強調した書籍が、輸入されてきた。ユダヤ人はこれを買い占めて撲滅に至らしめたという。その後、白系ロシア人によって1931年に成立したロシアファシスト党がドイツファシストの反ユダヤ政策を真似し、反メーソンな新聞広告や公開討究会等を行うが、その他の反メーソン運動は日が経つにつれ大分下火になったという。1937年に、安江はハルビンで現地のユダヤ人指導者のアブラハム・カウフマン(Abraham Kaufman)らと会談し、「日本人は改心した」と彼らに確信させた。同年12月26日、第1回極東ユダヤ人大会がヨゼフ・カスペ所有のモデルン・ホテルで開かれた。関東軍の認可の下、3日間の予定で開催された同大会に、陸軍は「ユダヤ専門家」の安江をはじめ、当時ハルビン陸軍特務機関長を務めていた陸軍少将樋口季一郎らを派遣した。この席で樋口は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるドイツの反ユダヤ政策を激しく批判する祝辞を行い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びた。これを知ったドイツ外相のヨアヒム・フォン・リッベントロップは、駐日ドイツ特命全権大使を通じてすぐさま抗議したが、上司に当たる関東軍参謀長東條英機が樋口を擁護し、ドイツ側もそれ以上の強硬な態度に出なかったため、事無きを得た。翌1938年1月、関東軍は「現下ニ於ケル対
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。