大分 恵尺(おおきだ の えさか、生年不詳 - 天武天皇4年(675年)6月)は、日本の飛鳥時代の人物である。姓は君。672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)のために働いた。大分氏(大分君)は豊後国大分郡の豪族であり、多氏の一族で大分国造家とする。壬申の乱の勃発時、恵尺は大海人皇子の舎人だったと推測される。大海人皇子は、6月24日に吉野で行動を起こす際に、倭(大和国)の京の留守司高坂王に使者を遣わし、駅鈴の引き渡しを求めた。このときの使者に、大分恵尺、黄書大伴、逢志摩の3人が選ばれた。皇子は「もし鈴を得られなかったら、志摩はすぐに還って復奏せよ。恵尺は急いで近江(大津京)に行き、高市皇子と大津皇子を連れ出し、伊勢で(私と)会え」と命じた。恵尺らは高坂王のもとにいって駅鈴を求めたが、得られなかった。恵尺は近江に向かった。事情は不明だが、高市皇子と大津皇子はそれぞれ別々の集団を作って脱出し、高市皇子は翌25日に伊賀の積殖山口で大海人皇子一行に合流した。大分恵尺は大津皇子に同行して伊勢に向かい、その日の深夜に鈴鹿関で大海人皇子の配下に制止された。鈴鹿関司ははじめ一行を山部王と石川王だと誤認したが、翌日に大津皇子と判明した。この後の恵尺の活動については記録がない。日本書紀には12月4日に勲功ある人を選んで冠位を増し、小山位以上をあたえたとする記事があるので、恵尺もこれと同じかそれ以上の位を受けたと思われる。天武天皇4年(675年)6月23日に、大分恵尺は病んで死が近くなった。天皇はこれを知って驚き、恵尺の功を語って子孫を厚く賞することを約束する詔を発し、恵尺を外小紫にした。小紫は高位だが、恵尺が得たのは外位である。出自の身分が低い恵尺を有力貴族と同列にすることはできないが、功臣を高く賞したいという考えから、外位になったと考えられる。恵尺は数日後に自宅で死去した。
出典:wikipedia
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