沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)は、広島県福山市鞆町後地にある神社。式内社、旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。「鞆祇園宮(ともぎおんぐう)」の別称とともに、「祇園さん」の通称がある。祭神は次の2柱。現在の沼名前神社は、明治に渡守神社(わたすじんじゃ)・鞆祇園宮(ともぎおんぐう)を合祀し、『延喜式』神名帳の記載にならって「沼名前神社」と改称したものである。神社側では、渡守神社が『延喜式』神名帳所載の式内社で、同社が現在に至るとしている。現在の祭神2柱(大綿津見命・須佐之男命)は、それまでの各社の祭神である。社伝では渡守神社(現・沼名前神社)の創建に関して、第14代仲哀天皇2年に神功皇后が西国に向かった際、当地の霊石に綿津見命を祀り海路安全を祈ったことに始まるという。そして帰途に際し、綿津見命の前に「稜威の高鞆(いづのたかとも。鞆は弓具の1つ)」を奉じたことから、「鞆」の地名が起こったともいう。平安時代中期の『延喜式』神名帳では備後国沼隈郡に「沼名前神社」として式内社の記載がある。同帳では読みは「ヌナサキ」「ヌナクマ」の2説がある。その後、この式内社は所在不明となっていた。近世以後の考証で現在は渡守神社に比定されているが、鞆にあるのか自体も明らかとなってはいない。近世には、渡守神社は猿田彦神・船魂命(船玉命)を祭神としていたという。元は後地平村もしくは鞆の関町にあったともいわれ、慶長年間(1596年-1615年)に祇園社の境内社として現在地に遷座したと伝えられる。明暦年間(1655年-1658年)には、藩主水野勝貞によって社殿が再建された。神社側は、鞆祇園宮の創建については不詳であるとしている。天長年間(824年-834年)の創建とも、保元年間(1156年-1159年)の勧請によるとも伝えられる。祭神は、現在同様素盞鳴命(須佐之男命)であった。元は鞆の関町に鎮座していたが、慶長4年(1599年)の火災で焼失し、現在地に遷座したという。この鞆祇園宮を『備後国風土記』逸文に見える「疫隅国社(えのくまのくにつやしろ)」にあてる説もある。当社は鞆の産土神として崇敬され、福山藩主からも多くの寄進を受け、社地も有していた。近世以降の両社の経緯は次の通り。社殿前に建てられている石燈籠は、江戸時代の慶安4年(1651年)に福山藩3代藩主の水野勝貞から寄進されたものである。総高3.24メートル。六角形の台座の上に、直径47.4センチメートルの竿石、さらに中台・火袋・笠石・宝珠が置かれる大形なものである。近世初頭の社前献灯としては標本的な燈籠であるとして、福山市指定重要文化財に指定されている。境内の八幡神社隣には、20個の力石がある。これらは全て花崗岩製で、楕円状、重さは230キログラムから118キログラムである。各石には銘があり、うち制作年代がわかる5個は天保15年(1844年)から安政5年(1858年)である。鞆は海運の町であり、祭礼の場で力を競い奉納したものとされる。これらの力石は、近在の住吉神社の3個とともに「鞆ノ津の力石」として福山市指定有形民俗文化財に指定されている。また本社社殿の一段下には、桃山時代の能舞台が建てられている。舞台の構造は桁行一間、梁間一間、一重、切妻造、妻入、柿葺。元は伏見城内にあって豊臣秀吉も愛用したという組立式の舞台であり、福山藩初代藩主の水野勝成が現在の福山城伏見櫓等とともに2代将軍・徳川秀忠から拝領し、福山城に移設したという。万治年間(1658年-1660年)、3代藩主の水野勝貞が当社に寄進したのち、元文3年(1738年)に現在見られる固定式に改められた。組立式の様式は随所に見られ、各部材には番号・符号が振られており、戦場にも持ち運べるものであるとされる。正面の鏡板に描かれる松と竹は、当初よりの絵である。ただし、現在見られる橋掛り・楽屋等は当時の建物ではない。この能舞台は、桃山時代の特徴を持つ貴重なものであるとして、国の重要文化財に指定されている。境内最下段に建てられている第二鳥居(二の鳥居)は、江戸時代の寛永2年(1625年)に水野勝重(のちの2代藩主水野勝俊)が長子(のちの3代藩主水野勝貞)の誕生に際して、この健康を願い寄進したものである。形式は一般に見られる明神鳥居であるが、笠木の先端は丸味を付けて反り上がっており、さらに鳥衾(とりぶすま)が載せられた独特なものである。先端を反り上げるのは「肥前鳥居」によく見られる形式であり、鳥居の柱にある「大工 肥前之住人中島弥兵衛」の銘との関係が指摘される。この鳥居は広島県指定重要文化財に指定されている。所在地開門時間交通アクセス周辺
出典:wikipedia
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