八木 智哉(やぎ ともや、1983年11月7日 - )は、神奈川県横浜市保土ケ谷区出身のプロ野球選手(投手)。現在は中日ドラゴンズに所属。義理の弟は総合格闘家の徳留一樹。小学2年の時、地元横浜市の軟式野球チーム「くぬぎ台レッドパンサーズ」で野球を始めた。中学時代はヤングリーグ「横浜旭ベースボールクラブ」に所属し全国大会出場。山梨県の日本航空高等学校に進学し、3年夏に第83回全国高等学校野球選手権大会に出場する。初戦の鳴門工戦で11奪三振を記録して3回戦に進出した。創価大学に進学後、1年時からベンチ入りし大学通算35勝。4年時のの全日本大学野球選手権大会では49奪三振の大会新記録を樹立する。同年11月2日の横浜市長杯争奪関東地区大学野球選手権大会白鴎大学戦で完全試合を達成し、希望入団枠制度で日本ハムに入団(同年11月7日公示)する。3月31日、対オリックス1回戦に先発し、5回0/3無失点でプロ初勝利。4月15日の対ソフトバンク4回戦では延長10回まで無安打無得点に抑えた(0-0のまま降板したため、勝利投手にはなっていない。その後、武田久→マイケル中村と継投。この両投手も安打を許さず、2リーグ制以後初となる継投でのノーヒットノーラン達成となった。また、「史上初めて延長まで安打も得点も許さないまま途中降板する」という珍記録も残ることとなった)。才能が開花し始めたダルビッシュ有とともに先発の柱として12勝を挙げ、リーグ優勝と日本一に貢献した。同年のパ・リーグ新人王に選出された。11月18日に大学時代から交際していた一般人女性と入籍し、翌年の長男誕生後、12月9日に披露宴を行う。その後、左肩痛など影響もあり4勝6敗と成績を落とし、は2試合の登板に終わった。雨の千葉マリンスタジアム(対ロッテ戦)で5回コールド「完封」、翌週のクリネックススタジアム宮城で完投勝利。同年は規定投球回には到達しなかったが、9勝を挙げ、チームのリーグ優勝に貢献した。日本シリーズでは東京ドームでの巨人戦で第4戦に先発し、5回1失点の好投で新人の2006年以来となる勝利投手となった。だがチームは第5.6戦と破れ日本一を逃した。3月26日に先発するも5回9失点(自責点8)と乱調。翌週の登板も4回で失点2被安打7与四死球2と調子が上がらず、二軍降格となった。6月24日に再度一軍登録され、7月7日には7回2失点でシーズン初勝利を収めたが、その1勝に終わった。は序盤の3試合に先発したが、その後は一軍での登板機会がなく、そのままシーズンを終えた。4月に3年ぶりの完封勝利を挙げるなど前半戦は好調を維持しローテーションを支えた。しかし8月に入ると打ち込まれるようになり、3試合でわずか4回1/3を投げたのみで2軍に降格し、その後は一軍での登板はなかった。1月25日に木佐貫洋、大引啓次、赤田将吾との交換トレードで糸井嘉男とともにオリックス・バファローズへ移籍。6月27日に移籍後初先発を果たすも、2回を投げ5失点と結果を残せず、翌日登録抹消された。9月に入って2度先発するも、いずれも結果を残せなかった。結局、この3試合の登板に終わり、プロ入り初のシーズン未勝利に終わった。シーズンオフの12月4日に契約更改が予定されていたが、八木本人は更改日を「9日」と勘違いしていたため、契約更改交渉を欠席した。同月9日に改めて契約更改交渉を行うも、0勝2敗という結果もあり、減額制限いっぱいの25%ダウン提示で更改した。交流戦シーズンに入った5月24日に、広島東洋カープ戦に先発するも、1回2/3を投げて被安打4、1失点という内容で、翌日に登録を抹消される。7月に再度昇格するが、中継ぎで2試合投げただけで21日に降格。10月28日、戦力外通告を受ける。12球団合同トライアウトを経て、11月18日に中日ドラゴンズへの入団が発表された。開幕ローテーションを勝ち取ると、2試合目の先発となった4月4日の広島戦で黒田博樹と投げ合い、7回無失点、自身初の2桁奪三振で移籍後初勝利を挙げた。これは北海道日本ハムファイターズ時代以来、982日ぶりの勝利となった。しかし、その後は打ち込まれることも多く、最終的に14試合の登板で4勝6敗、防御率3.92であった。また、4勝すべてを広島から挙げている。ストレートは平均球速約134km/h。
出典:wikipedia
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