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フリートウッド・マック

フリートウッド・マック(Fleetwood Mac)は1967年にイギリスで結成されたロック・バンド。40年を超えるキャリアを誇り、デビューから1970年代初頭までは主にブルースをベースにした音楽スタイル、1970年代半ば以降はポップバンドに転身し、そのいずれでも大成功を収めた。1967年、ジョン・メイオールのブルース・ブレイカーズのメンバーだったピーター・グリーン(ギター)とミック・フリートウッド(ドラム)を中心に、ボブ・ブランニング(ベース)、ジェレミー・スペンサー(ギター)の4人で活動を開始する。数回のギグの後、ブランニングに変わってジョン・マクヴィー(ベース)が加入。初期のバンド名はピーター・グリーンズ・フリートウッド・マック(Peter Green's Fleetwood Mac)。グリーンによるギブソン・レスポールの音を前面に出し、当時イギリスで勃興していたブルース・ロックのブームに乗って活動を開始した。1968年の2月に、初のアルバム『ピーター・グリーンズ・フリートウッド・マック』をリリースして注目を浴びる。さらに同年に録音した「ブラック・マジック・ウーマン」(後にサンタナにカバーされて大ヒットしている)をシングルとして世に送り出し、8月には2枚目のアルバム(アメリカにおけるファーストアルバム)の『ミスター・ワンダフル』をリリースしている。更にグループは18歳のギタリスト・ダニー・カーワン(ギター)を加入させ、グループ初期における最高のラインナップを整える。トリプル・ギター編成のバンドは当時としては奇抜なアイデアで、グリーンとグループが思い描く、常にサウンドの変化に対応できる体制となった。カーワン加入後はアメリカ向けに編集したセカンド・アルバム『英吉利の薔薇』をリリース。ヨーロッパでもシングル「Albatros」がヒット・チャートに昇るなど、セールス面でも好調の兆しを見せていた。1969年1月には渡米して、ブルースの故郷とも言えるシカゴのチェス・スタジオで念願のレコーディング。ウイリー・ディクソンやバディ・ガイ、オーティス・スパンと共演して記念版的作品として残している。同年にはこのメンバーでの最後のブルース・アルバムとも言える3作目の「ゼン・プレイ・オン」をリリースしている。ジューダス・プリースト、ゲイリー・ムーア、ジョー・ジャクソン、ジミー・ペイジ、ブラック・クロウズ、エアロスミスが、この時期のフリートウッド・マックの曲をカバーしている。ピーター・グリーンは、体調が不安定な状態で臨んだミュンヘンのとあるギグでLSDを使用して精神疾患を発症。1970年に突如バンドを離れてしまった。グリーン離脱後、バンドは、主にジェレミー・スペンサーが音楽面をリードして活動を続け、1970年に「キルン・ハウス」を発表した。しかしスペンサーもドラッグで徐々に精神的に不安定な状態となり、新興宗教にはまって脱退してしまう。スペンサーの後任には、ジョン・マクヴィーの妻で元チキン・シャックのクリスティン・マクヴィーと、オーディションによりアメリカ人ギタリストのボブ・ウェルチが加入し、1971年に「フューチャー・ゲーム」を、翌1972年には「枯れ木」を発表した。従来のブルース色を弱めロック色/フォーク色を強めたこれらの作品は、主にダニー・カーワンが音楽面を主導して制作された。しかしそのダニー・カーワンも、酒癖が原因の神経衰弱によりメンバーの信頼を失い、脱退を余儀なくされた。カーワンの解雇を経てバンドの音楽的主導権をウェルチが握ると、マックは、クリスティンのよりポップ/ロック色の濃い楽曲や、ウェルチの強い影響下でジャズ・ロック的アプローチをとった楽曲等をフィーチャーした3枚の優れたアルバムを発表し、60年代とは別のバンドへと変化していった。この時期を代表する曲としては、ウェルチ脱退後もライブで演奏されていた「Hypnotized」、1977年にウェルチのソロ作としてヒットした「Sentimental Lady」などがある。後のウェルチの回想によれば、「(『神秘の扉』当時の)ウェルチ、クリスティン、ジョン、ミック、ボブ・ウェストンのラインアップが団結していた時は、後の『噂』時代のラインアップに勝るとも劣らなかった」とのこと。この時期、バンドとしての活動はコンスタントに続けていたが、度重なるメンバーチェンジや、アメリカにおける「偽フリートウッド・マック全米ツアー騒動」等、困難の多い時代でもあった。1974年、アメリカ・ツアーを終えたマックは、彼らのこれからの活動をアメリカ中心にするべく、活動拠点をカリフォルニアに移した。しかし、その直後、フロントマンのウェルチが脱退。バンドは存続の危機を迎える。ウェルチに代わるフロントマンを探していたミック・フリートウッドとジョン・マクヴィーは、バンドの新作のレコーディングエンジニアのオーディションを通じて「バッキンガム・ニックス」というアメリカ人の男女デュオの作品を耳にした。リンジー・バッキンガムのギターとヴォーカルに強い関心を持ったミックは、1974年12月、リンジーと電話で連絡を取りバンドに誘った。リンジーは、バンドに合流するにあたり、ガールフレンドでありデュオのパートナーでもあるスティーヴィー・ニックスを同行することを提案し、結局グループは、この二人をセットで新メンバーとして迎え入れることになった。再び生まれ変わったマックは、1975年にアルバム「ファンタスティック・マック」を発表、「セイ・ユー・ラブ・ミー」、「リアノン」といったヒット曲が生まれ、アルバムは全米1位を獲得、それまでにない成功を収める。安定したピアノプレイと穏やかで安心感を醸し出す暖かい歌声のクリスティン、絵になる二枚目ギタリストでありポップで張りのある声を持つシンガーでもあるリンジー、可憐な容姿と野性的なダミ声かつ哀愁味を帯びた個性派シンガーのスティーヴィーという三者三様のボーカルが醸し出すバラエティとハーモニーは、レコードでもライブでもバンドの大きな魅力となった。1977年には、最大のヒット作となるアルバム「噂」を発表。シングルカットされた「オウン・ウェイ」「ドリームス」(グループにとって唯一の全米1位シングル・Billboard Hot 100)「ユー・メイク・ラヴィン・ファン」、「ドント・ストップ」などの大ヒットとともに、アルバムは31週間に渡って全米1位(ビルボード)(1977年・年間チャート1位・Billboard Top 200)に輝き、1,700万枚といわれる史上空前のセールスを記録する。マックは一躍スーパースターの座に上り詰めた。この後、「牙 (タスク)」(全米4位・Billboard Top 200)、「ライヴ」、「ミラージュ」(全米1位・Billboard Top 200) の3枚のアルバムを発表したが、「噂」のような大ヒットにはいたらなかった。しかしワールドツアーは盛況を重ね、観客動員の面ではスーパースターとのポジションを維持し続けた。1980年代に入るとメンバー各自のソロ活動が活発化し、全米アルバムチャートでNO.1を記録したスティーヴィーを筆頭に、リンジー、クリスティンも、それぞれソロでTOP10ヒットをものにする。ミックも、アフリカのミュージシャンを起用した意欲的なソロアルバム「The Visitor」を発表した。しかし、バンドとしてもソロとしても順調に活躍していたこの時期のマックには、メンバー同士の関係の悪化、スティーヴィーの薬物中毒克服のためのリハビリ施設入り、バンドのゴタゴタや妻との離婚、父の死など公私にわたるトラブルに疲れ切ってコカインとブランデーに溺れたミックの破産など、バンド周辺でトラブルが絶えない、暗い側面が同時に存在していた。久々に全員が揃った1987年の「タンゴ・イン・ザ・ナイト」(全米7位・Billboard Top 200)では、音楽面におけるリンジーの献身的な貢献もあり、いつも通りのヒットを記録したが、アルバム発表直後にそのリンジーが脱退。ライブツアーは、新メンバーとしてギター2名を加えた新編成で行われた。この時のライブでは、バックボーカルやキーボードにサポートメンバーを使い、クリスティンのボーカル曲では彼女をステージの前面に出したり、スティーヴィーのソロ・ヒット曲「Stand Back」を取り上げるなど、リンジーの不在をクリスティンと、特にスティーヴィーを大きくフィーチャーすることで補う演出がされていた。1990年には、スティーヴィーとクリスティンが今後バンドのライブツアーに参加しないことを表明。1990年発表の「ビハインド・ザ・マスク」(全米18位・Billboard Top 200)は、1975年の「ファンタスティック・マック」以来初めてゴールドディスクを逃した。1992年、ビル・クリントンの大統領選挙のキャンペーンソングに「ドント・ストップ」が使用されたことから、1993年初頭、クリントンを支援するために「噂」発表当時の黄金期メンバー5人が一時的に集まり再結成ライブを行なった。ただし、この再結成は一時的なもので、ライブ終了後リンジーが再離脱。1993年年末にはスティーヴィーが今後の活動に参加しないことを表明し、正式に脱退。ほぼ同時期に、リック・ビトーも脱退した。1994年、ミックとジョンは、新メンバー二名の加入とライブ・ツアーの開始を発表する。しかし、直後にクリスティンが脱退を表明。ツアーは、クリスティンを除くメンバーで行われた。翌1995年に、新アルバム「タイム」を発表。しかし、全米アルバムチャートTOP200にチャートインせず、不発に終わる。1997年、リンジーのソロアルバムのレコーディングセッションにミックが参加したことを契機に、黄金期のメンバーが再集結。再結成ライブを行ない、ライブアルバム「ザ・ダンス」を発表。1981年発表の「ミラージュ」以来となる全米NO.1を獲得(Billboard Top 200)した。しかし翌1998年、クリスティンが引退を理由に再離脱した(その後、2004年、ソロとして復帰)。2003年にクリスティンを除く黄金期メンバー4人による本格的な復活作「セイ・ユー・ウィル」を発表、ライブツアーも大きな話題となり、全米3位(Billboard Top 200)の大ヒットを記録した。2014年、クリスティン・マクヴィーが16年ぶりに復帰、ワールドツアー"On With The Show"をスタートさせツアーは2015年まで行う。

出典:wikipedia

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