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閑谷学校

閑谷学校(しずたにがっこう)は、江戸時代前期に岡山藩によって開かれた庶民のための学校。所在地は岡山県備前市閑谷。「旧閑谷学校」として特別史跡に指定され、講堂は国宝に指定されている。1666年10月、池田光政は津田永忠の案内で閑谷を訪問し、この地に庶民教育の学校を設置することを決めた。1669年、池田光政は岡山城下の西中山下に岡山藩学校を設置した。続いて1670年(寛文10年)、池田光政は津田永忠に閑谷学校の建設を命じた。津田は閑谷に転居し建設が始まる。1674年までの4年間に、学房・飲室・講堂・聖堂などが完成したが、当時は茅葺きの質素な建物であった。1675年には、光政は領内に123か所設置していた手習所を閑谷学校に統合した。1682年(天和2年)、池田光政が亡くなった。光政は遺言で学校を永続保つように津田に伝えていた。津田永忠は、聖堂と講堂の改築、芳烈祠の建立、石塀と門の設置などの再整備を行い、この作業は1702年まで続いた。建物の屋根はこのときに耐久性の高い備前焼瓦で葺かれた(後述)。椿山(御納所)もこのときに築かれた。芳烈祠は現在の閑谷神社で、池田光政を祀ったものである。椿山墓所には光政の爪と髪の毛が埋められたとされる。1700年(元禄13年)、当時の岡山藩主池田綱政が学校周辺の田畑を学校田とする。これによって田畑を奪われた農民は、岡山市の「幸島新田」に入植した。1704年には光政像が建立された。その後閑谷学校は一時衰退の時期を迎える。一時衰退していた閑谷学校は、5代目藩主の池田治政の時代に再び活気を取り戻す。1847年(弘化4年)、学房より出火して、共感宿舎や客宿舎などが消失した。幕末の混乱期においても、多くの子供が学問にはげんでいた。1870年(明治3年)の藩政改革によって同年9月閉鎖される。学房と習字所、教官宿舎は明治維新後に撤去された。講堂などの主要施設についても、一時撤去の動きがあったが、1872年(明治5年)夏頃より岡山の中川横太郎・谷川達海らが中心となって再興に向けた運動が行われた。池田慶政が資金を提供し、備中の漢学者山田方谷を招いて1873年2月に、『閑谷精舎』として改称され再び学問の場となった。山田方谷は刑部(現在の大佐町)にも塾を開いていたために、閑谷精舎には年2回ほど訪れ、一度の訪問で2-3カ月滞在したとされる。山田方谷の他にも方谷の高弟である鎌田玄渓や興譲館の坂田警軒が招聘された。しかし、講義が漢学に偏っていた為に次第に生徒数が減少。1877年(明治10年)に休校に至り、閑谷精舎時代は僅か4年で終わった。閑谷精舎が休校となって4年経過した1881年(明治14年)、元岡山県参事の西毅一は、中川横太郎や岡本嶺らとともに『閑谷保黌会』(ほこうかい)を組織し、財界や有識者より資金を募り、閑谷学校再興の活動を行った。備前8郡の主長も協力し、1884年(明治17年)8月に改称『閑谷黌』(しずたにこう)として開学式を執り行った。西毅一は岡山から閑谷に引っ越し、黌長に就任した。閑谷黌では閑谷精舎の失敗を踏まえて、英学・漢学・数学の3教科を教え、就学期間は3年間。入学生とは14歳以上、講義は週24時間とされた。閑谷黌では小説家の正宗白鳥や詩人の三木露風なども学んでいる。1902年(明治35年)、中学校に移行するために学則を改正した。1903年4月、文部省の認可を得て、閑谷黌は『私立閑谷中学校』と改称される。名称は翌年8月に『私立閑谷黌』と変更されるが、教育内容には大きな変化は無かった。大正8年4月には『中学閑谷黌』と改称。大正10年4月には県営となり『岡山県閑谷中学校』となった。この頃の校舎は学房跡地に明治38年に建設された木造2階建て校舎を使用していた。この建物はそのまま昭和39年まで学校として使用されることになる。1954年(昭和29年)、講堂などが特別史跡に指定される。1948年(昭和48年)、学制改革により岡山県閑谷中学校は県立岡山県閑谷高等学校となる。翌1949年には県立和気高等学校と統合され、同校の閑谷校舎となった。昭和39年4月、学校の統合と合理化のために閑谷校舎が閉鎖され、教育の場としての歴史に終止符が打たれる。校舎は明治時代の木造建築の特徴をよく反映した建築物であるので、岡山県青少年教育センターとして昭和40年4月より転用される。岡山県青少年教育センターが平成3年7月に、他の場所に新築移転したのちは、本館が残されて閑谷学校資料館として利用される。2001年(平成13年)、閑谷学校資料館が登録有形文化財に登録される。使用されている瓦は、釉薬を使用しない窯変瓦で、備前焼技法が応用されている。焼き具合によって1枚1枚色合いが違うのが特徴である。また一般の瓦が寿命60年といわれるのに対して、閑谷学校の瓦は300年経過しても殆ど割れないまま使用できている。高い耐久性は高温で焼結されている為であるが、制作過程で変形が起きやすく、屋根に拭いたときに隙間ができて雨漏りしやすいという欠点がある。そのため様々な漏水対策が施されている。閑谷神社には揚羽の蝶の紋が入った軒丸瓦が使用されている。これは閑谷神社が池田光政を祀っているためで池田家の家紋を模ったものである。一方の聖廟には無地の軒丸瓦が使用されている。閑谷の産土神福神社の近くの山麓には瓦を焼くための登り窯が設置され、閑谷窯と呼ばれた。窯は2基造られ、5万枚の備前瓦の他、学校で使用する食器や祭器も製造された。職人は京都から陶工を招いたとされる。それらの陶器は後に閑谷焼を呼ばれるようになる。今日では、閑谷窯の遺構は地上部分の大半が破壊され、残りの部分は土砂に埋没しているが、部分的に残っている側面の壁より当時の様子をうかがい知ることが出来る。閑谷窯の大きさは、幅2.3m、長さ13.8m程とされる。

出典:wikipedia

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