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キラー・トーア・カマタ

キラー・トーア・カマタ("Killer" Tor Kamata、本名:McRonald Kamaka、1937年3月9日 - 2007年7月23日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ハワイ州ホノルル出身。カナカ人の血を引くとされる。選手時代は悪役レスラーとして活躍し、流血大王の異名で呼ばれた。実弟もプロレスラーで、1972年7月にコーア・ティキのリングネームで新日本プロレスに来日したことがある。ハワイでは学生時代にレスリングで活動する一方、試合を終えたプロレスラーが集まるナイトクラブで用心棒として働いていた。アメリカ空軍を除隊後、ハワイ地区のプロモーターだったエド・フランシスに誘われて1959年にプロレス入り。デビュー当初は、同じハワイ出身のカーティス・イヤウケアやニック・ボックウィンクルのフォローを受けていたという。本名のマクロナルド・カマカ("McRonald Kamaka")名義で活動後、1965年よりアメリカ本土のテネシー地区でトーア・カマタ("Tor Kamata")に改名。日系人レスラーのトージョー・ヤマモトのパートナーとなり、同年10月2日にナッシュビルにてジャッキー・ファーゴ&レン・ロッシーからNWA南部タッグ王座を奪取。ヤマモトとのタッグ解消後もトーア・カマタとして中西部や中南部など各地を転戦、1966年にはオクラホマ地区でジャック・ブリスコやダニー・ホッジと抗争した。AWA圏では日系人レスラーの大御所ミスター・モトにあやかり、ドクター・モト("Dr. Moto")のリングネームで活躍。ミツ・アラカワとタッグチームを結成し、1967年10月13日にインディアナポリスにてディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーからWWA世界タッグ王座を、同年12月2日にはシカゴでウイルバー・スナイダー&パット・オコーナーからAWA世界タッグ王座を奪取している。翌1968年12月28日、最終的に両王座をブルーザー&クラッシャーに明け渡すまで、AWAとWWAの世界タッグ王座の2冠王として1年間にわたって長期政権を築いた。アラカワとのタッグ解消後、1969年よりリングネームをトーア・カマタに戻し、派手な着物をまとった日系ヒールとして北米の主要テリトリーを転戦。カナダのカルガリー地区(スチュ・ハート主宰のスタンピード・レスリング)では1972年にクルト・フォン・ヘスやジェフ・ポーツを破って北米ヘビー級王座を再三獲得。王座戴冠中の同年7月8日にはエドモントンにて、当時ドリー・ファンク・ジュニアが保持していたNWA世界ヘビー級王座に挑戦した。以降もフラッグシップ・タイトルの北米王座を巡り、ジョージ・ゴーディエンコ、カルロス・ベラフォンテ、アーチー・ゴルディー、ギル・ヘイズらと対戦。同タイプのアブドーラ・ザ・ブッチャーとも流血の抗争を繰り広げた。1975年5月には同地区のブッカーだったジョー・タイゴーの招聘で国際プロレスに初来日。以後、日本マットにおいても実績を残した(後述)。1976年下期からはニューヨークのWWWFに進出。イワン・プトスキー、ケビン・サリバン、S・D・ジョーンズらを下すも、反則・暴走が目に余るため、トップコンテンダーにもかかわらず当時の王者ブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に挑戦させてもらえなかったという逸話を残している(マディソン・スクエア・ガーデンでの挑戦機会はなかったものの、1977年1月15日にコネチカット州ニューヘイブン、2月27日にメリーランド州ランドーバーにてサンマルチノへの挑戦が実現した)。WWWFではフレッド・ブラッシーをマネージャーに迎え、ニコライ・ボルコフやスタン・スタージャックと組んでチーフ・ジェイ・ストロンボー&ビリー・ホワイト・ウルフが保持していたWWWF世界タッグ王座にも度々挑戦した。地元のハワイでは、1977年12月にサム・スティムボートからNWA北米ヘビー級王座を、1978年8月にドン・ムラコからNWAハワイ・ヘビー級王座をそれぞれ奪取。1980年からは再びニューヨークに登場し、新王者ボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に挑戦。同年8月9日にシェイ・スタジアムにて開催されたビッグ・イベント "Showdown at Shea" にも出場しており、パット・パターソンを相手に反則負けを喫している。1981年の下期はジム・バーネットの主宰するジョージア・チャンピオンシップ・レスリングに参戦し、レイ・スティーブンスとのタッグなどで活動。同年11月1日にはアトランタのオムニ・コロシアムにてスーパー・デストロイヤーと組み、スタン・ハンセン&トミー・リッチと対戦、翌11月2日にはオーガスタにてハンセンとのシングルマッチも行われた。1982年にはマーク・ルーインのブッキングにより、キング・カマタ("King Kamata")のリングネームでニュージーランドに遠征。キラー・カール・クラップやオックス・ベーカーをパートナーにタッグ王座を獲得している。1980年代前半に心臓に不安要因が見つかり減量、最後の来日を果たした1987年に現役を引退した。2007年7月23日、カナダ・サスカチュワン州サスカトゥーンにて心臓発作のため死去。。日本には1975年5月に国際プロレスに初来日し、5月26日に後楽園ホール、6月6日に宇都宮市体育館にてラッシャー木村のIWA世界ヘビー級王座に連続挑戦(宇都宮では金網チェーン・デスマッチで挑戦)。以降、1977年まで3回に渡って国際プロレスに参戦し、木村のIWA世界タイトルには計5回挑戦、金網デスマッチでも雌雄を決している。IWA世界タッグ王座にも挑戦しており、1976年3月13日にはカルロス・コロンと組んで王者チームのグレート草津&マイティ井上に、1977年8月4日にはジプシー・ジョーとの狂乱コンビで草津&アニマル浜口にそれぞれ挑んだ。1978年5月、全日本プロレスに初登場し、6月1日に秋田市立体育館でジャイアント馬場のPWFヘビー級王座に挑戦。38回もの連続防衛記録を重ねていた馬場を破り、第2代のPWF王者となる(カマタの反則攻撃に怒った馬場の暴走による反則勝ち)。しかし6月12日の愛知県一宮市での初防衛戦でビル・ロビンソンに敗れて王座転落。同年10月9日に久留米にてロビンソンにリターン・マッチを挑むが失敗、その後も王者に返り咲いた馬場に2度に渡って挑戦したが王座奪回は果たせなかった。以降も全日本の常連外国人選手となり、世界最強タッグ決定リーグ戦には1979年に大木金太郎、1978年後半戦と1980年には因縁のアブドーラ・ザ・ブッチャーと組んで参加しており、1980年にはジャイアント馬場&ジャンボ鶴田、ザ・ファンクスと並んで最後まで優勝戦線に残っている。1979年のチャンピオン・カーニバルでは、3月17日の福岡市九電記念体育館での公式戦でブッチャーと対戦して引き分けているが、カルガリー時代のような抗争アングルには発展せず、全日本ではブッチャーのパートナーとして女房役に回った。1980年2月の来日ではディック・マードックとの対立アングルが組まれ、3月2日に後楽園ホールで行われたシングルマッチではマードックを相手に大流血戦を演じた。馬場&鶴田のインターナショナル・タッグ王座には、1980年11月2日にブッチャー、1981年7月17日にグレート・マーシャルボーグ(カマタの弟子という触れ込みで来日したが、昭和プロレス史上でも一・二を争う「食わせ物選手」として名を残している)、1982年7月16日にタイガー・ジェット・シンと組んで挑戦。1982年は1月3日に後楽園ホール、7月9日に熊本にて、ジャンボ鶴田のUNヘビー級王座にも2回挑戦した。日本には国際・全日本を合わせ、1975年5月から1987年5月まで12年間で計16回来日している。1980年のWWF参戦時にはボブ・バックランド、ダスティ・ローデス、ペドロ・モラレス、パット・パターソン、レネ・グレイなど当時の新日本プロレス系の外国人選手と対戦し、8月9日の "Showdown at Shea" ではアントニオ猪木や藤波辰巳と邂逅したが、団体間の紳士協定のため新日本に来ることはなかった。

出典:wikipedia

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