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登別温泉軌道

登別温泉軌道(のぼりべつおんせんきどう)は、かつて北海道登別市の登別駅前より、登別温泉街までを結んでいた路面電車およびそれを運営していた軌道事業者である。登別温泉の交通は登別温泉の旅館「第一滝本館」の創業者である滝本金蔵が、駅と温泉の間を結ぶ馬車道を1891年(明治24年)に私費で開削・整備したのが前史である。当時は6人乗りの馬車が片道2時間かけて登別温泉にむかっていた。滝本金蔵の死後、跡を継いだ長男の2代目金蔵も早世し、長男の嫁が一人旅館を経営するには限界があったので室蘭市に本拠を構える運送業栗林合名会社(現在の商社「栗林商会」)の創業者・栗林五朔(ごさく)が、懇請されて「第一滝本館」をはじめ登別の地約21,000坪その他関連施設を10万円で譲り受けることになった。栗林は登別温泉を再開発するにはまず交通機関の改革が必要と考え、登別駅と登別温泉を結ぶ軌道を計画した。当初は旧道に敷設しようとしたが勾配が続き馬の休息が取れないため紅葉谷経由に変更したが、この時に紅葉谷を専用軌道にするよう希望したため住民が反対した。これにより折衝に時間がかかったが紅葉谷を併用軌道にすることで1915年(大正4年)12月に762mm軌間の馬車鉄道が開通した。温泉行きは1時間20分。官設駅行きは1時間で運行した。馬車鉄道は、乗合馬車に比べ時間が短縮され乗り心地がよくなったが 馬の暴走による事故や御者の罷業にはなやまされ、また登別温泉が標高の高い所にあるため馬力では輸送力にも限界があった。そのため1917年(大正6年)3月の臨時株主総会において動力を蒸気に変更することを決議した。1918年(大正7年)5月より蒸気機関車が運転され、上り下りとも所要時間は1時間になった。ただ非力な蒸気機関車のため勾配に弱いことや煙突から吐き出される火の粉による火災発生など問題は残った。そこで1923年(大正12年)6月の株主総会において動力を電気に変更することを決議し、1925年(大正14年)11月に1,067mmへ改軌・電化された。電力は登別温泉街の電燈用として、登別川に水力発電所が1916年(大正5年)に建設されていたのでこれを供給源に利用した。路面電車の登場により所要時間は35分となった。昭和に入って並行道路の整備が進むとバスとの競争が激化、対抗上輸送力向上のため発電所の増設を検討したが過大投資になるおそれがあるため断念し、1933年(昭和8年)に廃線となった。社名は廃止直前に「軌道」を省いた「登別温泉」に改称されていた。登別温泉株式会社は、「株式会社栗林商会」(本社・室蘭市)のグループ会社として2014年(平成26年)時点でも存続しており、登別温泉の一部泉源の権利を保有して、地元の旅館向け給湯事業を行っている。軌道廃止後、保有電動車3両は旭川市街軌道に譲渡された。廃線時1930年4月1日改正時1918年(大正7年)に、魚沼鉄道で余剰となっていた雨宮鉄工所製の0-4-0(B)形タンク機関車2両を譲り受け、改軌まで使用した。1930年度時点において、電動車3両、付随車2両(いずれも木造4輪単車。電動車は1925年(大正14年)の電化時、付随車は1927年(昭和2年)にそれぞれ製造)、貨車3両を保有していた。電動車の電装品はシーメンス製であったという。全駅北海道に所在。『日本の市内電車』227頁には神威若 - 登別(駅前)間に西阿寄、阿寄の停留所が記載されている。

出典:wikipedia

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