民主主義科学者協会(みんしゅしゅぎかがくしゃきょうかい)は、日本の進歩的な自然科学者・社会科学者・人文学者の左派系協会。民主主義科学の発展をはかることを目的としている。略称は民科(みんか)。1946年1月12日創立。初代会長は数学者の小倉金之助、事務局長はホグベン著「百万人の数学」などを翻訳した数学者、科学史家の今野武雄。創立当時の会員は180名。進歩的文化人や一般市民・学生なども加入し、1950年前後の最盛時に、114の地方支部、1772名の専門会員、8243名の普通会員がおり、米軍占領期の学会・言論界に大きな影響力をもった。機関紙としては、『民主主義科学』(1946年12月1日創刊、第6号から『社会科学』と改題して民科社会科学部会の機関紙となり、1948年12月廃刊)、1948年4月25日創刊の『科学者』(1951年12月『科学文化ニュース』と改題、1953年3月廃刊)などがあった。その他、『民科学術通信』、『国民の科学』、『自然科学』、『理論』などの多様な機関紙誌を発行。専門分野の研究は宗教、哲学、歴史、水産、経済、農業、教育、心理、言語科学、法律、政治、婦人問題、芸術、生物学、地学団体研究(地団研)、自然科学などの専門部会で行われた。民科の指導部は実質的に日本共産党の影響下にあったが、発足当時の民科では共産党の政治的指導はゆるやかであった。1950年代に入ると日本共産党(所感派)の手で、民科内部に政治的課題が持ち込まれた。1952年に民科書記局員だった石母田正は「国民的科学の創造」を提唱し、民科の路線も「国民的科学の創造と普及」を目的としたものに変化する。政治と科学の結合をめざした運動中心の考え方は、共産党と無縁な学者や学生の離反をもたらした。1955年、共産党が六全協で路線転換を行うと、民科指導部も混乱して求心力をうしなった。1956年、ソビエトでのスターリン批判にともない、民科が支持していたミチューリン農法の正当性が否定されたことも大きな打撃となった。科学者・研究者からの支持を失い指導部も混乱した結果、機関誌「国民の科学」は停刊し、1950年代末から1960年代前半頃にかけて大部分の部会は実質的に解体した。1956年の第11回全国大会開催を最後に民科本部としての正常な運営体制が崩壊し、翌1957年に本部事務所を閉鎖、事務局を解散した。その後一部の部会は独立した研究団体となり、活動を続けた。各部会のなかで、現在、「民主主義科学協会」または「民科」の名前を残して活動を継続しているのは、「法律部会」、「歴史部会」のみ。1950年に発足した「民科京都支部歴史部会」は、「京都民科歴史部会」と名称を変更し、歴史科学協議会の地域組織として活動を継続。1941年4月に創立され、戦中戦後の混乱で活動を中断していた科学史学会の有志の一部が1946年秋ごろから「民科科学部」主催の毎月の科学史研究会に協力していたが、1948年に科学史学会を再建してこれに移行した。1948年に民科歴史部会の中に、労働運動史研究会が設けられ、その後、独立したかたちで労働運動史研究会が設立して活動を続けた。「民科理論生物学研究会」からは、「日本生物科学者協会」が生まれ、研究誌「生物科学」の発行など、活動を継続している。1950年に発足した「民科大阪支部農業部会」からは「農業理論研究会」が生まれ、現在も活動を続けている。1954年に生まれた「民科蚕糸班」は、1960年から「民科蚕糸技術研究会」となり、2001年まで、「民主主義科学協会」の名前を冠して活動していた。「民科地学団体研究部会」は「地学団体研究会」となり活動を継続している。「民科言語科学部会」を母体として、イワン・パブロフの脳科学理論を基礎に、1951年に「児童言語研究会」が発足する一方、活動全般を引き継いで、「言語学研究会」が生まれた。ともに活動を継続中。これらは運動体というより学会・研究会として活動しており、民科の当初の目的・活動はむしろ日本科学者会議に引き継がれている。
出典:wikipedia
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