早慶六連戦(そうけいろくれんせん)は、11月6日から11月12日にかけて明治神宮野球場において早稲田大学と慶應義塾大学との間で行われた、東京六大学野球リーグ戦の早慶戦および優勝決定戦である。1960年秋季リーグ戦の優勝争いは、最終週の早慶戦を前にこのような状況だった。3位の法政以下、立教・明治・東大は全日程を終えて勝ち点3以下で、優勝の可能性は早慶2校に絞られた。慶應が順調に勝ち点を積み上げたのに対して早稲田は直前の明治戦で4連戦の末に勝ち点を落としてしまった。慶應は早慶戦で2勝して勝ち点を取れば優勝を果たす。一方早稲田が優勝するには連勝するか、2勝1敗で慶應と同勝ち点・同率となって優勝決定戦(勝ち点・勝率がリーグ戦全日程終了時にともに同じ場合は、規定により直接対決の成績などに関係なく1試合制の決定戦を行う。引き分けがあった場合は勝敗が決するまで再試合を繰り返す)に持ち込み、勝てば優勝と、慶應より厳しい条件となってしまった。長く他校の後塵を拝してきた慶應にとっては8シーズンぶり優勝のチャンス。早稲田は前年の秋季リーグで立教との優勝決定戦に敗れ、この年の春季リーグは慶應に連敗して優勝を阻まれている。慶應は投手に清沢忠彦、角谷隆、三浦清、丹羽弘と実力者を多数そろえ、打線も六大学最高打率を更新した榎本博明や、後にプロ入りする安藤統夫、大橋勲、渡海昇二ら強打者を擁していた。対する早稲田は安藤元博、金沢宏の両サブマリンが投の軸だが、前年春季リーグでベストナインに選出された金沢は、練習中に指を痛め登板に不安を残す。野手陣は木次文夫、近藤昭仁といった好打者が卒業し、野村徹、徳武定之を中心とした守りのチームとなった。戦力的には慶應優位と言われており、優勝争いで一歩リードしていることから、この早慶戦を慶應優勢と見る声が多かった。両校を指揮するのは早稲田が3年目・28歳の石井連藏、慶應は新監督で30歳の前田祐吉。若い2人の指導者の采配にも注目が集まった。※早慶両校に安藤姓の選手がいるため、それぞれ「安藤元」(安藤元博=早稲田)「安藤統」(安藤統夫=慶應)と表記する。※責任投手名の右の()内は1960年秋季リーグ戦の通算成績。決定戦の成績はリーグ戦の成績にチーム・個人とも反映させないので表記せず。11月6日早稲田が5回に先制。2死1,2塁として末次義久が代わった角谷から3塁線を破る適時2塁打を放つ。7回にも村瀬栄治が適時打を打って追加点を挙げた。慶應は安藤元を打ち崩せず、最終回に1死1,3塁から大橋の適時打で1点差に迫り、続く小島の中飛で2塁走者渡海がタッチアップするが3塁で封殺されて試合終了。11月7日後がなくなった慶應が雪辱、逆王手をかけて3回戦に持ち込んだ。1回に榎本が3盗、このとき野村の送球が逸れて先制。2回には1死満塁から野選と押し出し四球で2点を加えた。2回から登板した角谷がロングリリーフ、早稲田打線をヒット1本に抑える好投を見せた。勝てば優勝だった早稲田は金沢宏の犠飛で挙げた1点のみで3回からは無安打。序盤の拙守の連発で優勝がお預けになってしまった。11月8日勝って優勝決定戦に持ち込みたい早稲田は1回に徳武の犠飛で先制、8回に敵失で追加点、9回に徳武が本塁に突入し落球を誘ってダメ押し点(後述)。投げては安藤元が慶應打線を5安打に抑え込んで今季初完封。慶應は打線が沈黙してしまった。かくして早稲田が2勝1敗で勝ち点を挙げ、早慶ともに9勝4敗・勝ち点4と全く並んだ。このため早慶による優勝決定戦が行われることとなった。早慶2校による決定戦は1939年秋季(この年は春も早慶で決定戦を実施)以来、21年ぶりのこと(ただし、1951年春季に立教も加わっての3校での決定戦がある)。11月9日翌日に行われた優勝決定戦は安藤元と角谷の投手戦になった。慶應は2回に3塁打の渡海を大橋が犠飛で返し先制するが安藤元から追加点を奪えない。一方の早稲田は角谷のカーブを打てず、9回まで来てしまった。しかし早稲田は1死から代打鈴木悳夫が右中間を破る3塁打、続く石黒行彦が返し土壇場で同点に追いついた。あとは両投手の投げ合いが続き、11回を終えたところで日没引き分けとなった(当時神宮には照明施設がなかった)。決定戦再試合はリーグ戦史上初めてのことだった。11月11日1日おいて決定戦の再戦が行われ、前の試合で完投した安藤元と角谷がともに先発に立った。早慶ともに連投の両エースを攻めたてチャンスを作るが、安藤元・角谷(6回途中から清沢に継投)ともに踏ん張り、得点を許さない。慶應は1回1死3塁を逸機、5回には1死2塁から安藤統がライト前に安打を放つが早稲田・所正美が好返球で得点を阻んだ。早稲田も苦手の角谷から再三ノーアウトで走者を出すもののあと1本が出ない。6回に代打鈴木悳の安打で所が本塁を突くがタッチアウト。重い展開のまま、前日に続いて延長戦へ。日没引き分けが迫ってきた11回の裏、慶應は無死1,3塁のチャンスを作るも満塁策をとった早稲田の必死の守りの前にホームを踏めず(後述)、この試合も引き分け。ついに、優勝の行方は6戦目=優勝決定再々試合にもつれこんだ。11月12日早稲田はこの試合も安藤元を先発させた。6戦中実に5度目の先発、もはや安藤元に命運を賭けた。慶應も頼みのエース角谷を立てる。こうなると双方ともに気力の勝負となったが、先制したのは早稲田だった。安打と敵失で1死1,2塁として所がレフトの頭上を越える3塁打を放ち、一気に2点を奪う。5回には徳武が適時打を放って追加点を挙げた。慶應は5回裏に1死満塁とこの試合最大のチャンスを作る。併殺崩れの間に1点を挙げ、なおも安藤統が痛烈なライナーを放つがライトの真っ正面に飛んでしまった。安藤元は連投の疲れも見せず、この後も慶應の追撃を抑えた。15時10分、ついに6戦にわたる激闘に終止符が打たれ、早稲田が3季ぶり20回目の優勝を果たした。この六連戦で安藤元博は5試合に完投、特に第3戦からは4戦連続の完投で実に49イニング、564球を投げ抜いた。この驚異的な連投もそうだが、この六連戦では数々の名場面が生まれた。その死闘の連続が現在まで語り継がれる「伝説」となった所以である。以下、数々のエピソードとともに紹介する。この六連戦には連日満員(計38万人)の観客が詰めかけ、決定戦が引き分けに終わると次の試合のチケットを求める徹夜組の列が早速でき上がるという具合だった。焚き火の材料を求めに青山霊園に走る者も出る始末だった(狙いは古い卒塔婆)。六連戦の模様はNHKだけでなく民放各局が連日放映、全国の注目を大いに集めた。かくして数多くの逸話を残した六連戦は、関係者のみならず人々の間で「伝説」となった。当時の選手たちだけでなく早大の関係者、当時を知る野球ファンのなかでは、六連戦は「あの」という言葉を頭に付けて語られている。70年を越えたプロ野球でも決定戦再試合は未だにゼロで、六連戦を越えるような死闘は、今後二度と出ないとも言われている。また1960年といえば安保闘争が起き、浅沼稲次郎が刺殺され池田勇人が所得倍増計画を唱えた年、日本全体が時代の激変のまっただ中にあった。そうした年の代表的な出来事としても、この六連戦は記憶されている。この当時は1試合あたりの観客動員数でプロ野球との地位が逆転しつつあるときだった。六連戦と前後してプロ野球は徐々に観客数を伸ばし、国民的な人気スポーツの地位を確保した。一方六大学は少しずつ観客数を減らし、テレビ中継していた民放局も徐々に放映から撤退していく。そのため、この六連戦を“六大学最後の栄光”としてとらえる向きも存在する(長嶋茂雄の立教卒業→プロ野球入りの時機を転機とする意見もある)。の秋季リーグ戦は、優勝争いは最終戦の早慶戦に持ち越された。早稲田はこの試合に1勝でもすれば、慶應に勝ち点で並んでも勝率の関係で優勝が決まり、また慶應は連勝して勝ち点を上げれば、早慶同率となるため50年ぶりの早慶優勝決定戦に持ち込むという大一番となった。
出典:wikipedia
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