ヴォルフガング・リーム(Wolfgang Rihm, 1952年3月13日 - )は、ドイツのカールスルーエ生まれの現代音楽の作曲家。高校を卒業する以前から、地元のカールスルーエ音楽大学でオイゲン・ウェルナー・フェルテに作曲と理論を師事。1963年に最初の作曲。この頃から頻繁にダルムシュタット夏季現代音楽講習会やドナウエッシンゲン音楽祭に通うようになる。1973年にはケルン音楽大学のカールハインツ・シュトックハウゼンに師事するが一年余りで離れ、1974年からフライブルク音楽大学のクラウス・フーバーに師事。これら師事した作曲家の他に、ヘルムート・ラッヘンマンやモートン・フェルドマン、ルイジ・ノーノなどを手本とし、本人の指向は多種多様である。この頃までに10回余りの作曲コンクールに入賞、程なくして母校のカールスルーエ音楽大学で教え始め、まもなく教授に就任。クラーニヒシュタイン音楽賞をピアノトリオ「見えざる情景」で受賞した後は、ドイツ国内からの委嘱が殺到し、これに全て答えるという離れ業を披露した。クラウディオ・アバドが第一回ウィーン・モデルンにおいて、ノーノやジェルジ・リゲティと並んでリームをテーマ作曲家の一人に選び、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団で新作を初演した。その後、アバドの伝手でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のコンポーザー・イン・レジデンスに就任した。現在はドイツ国内のみならず、世界中の楽団からの委嘱を受けている。創作ペースは若い時ほどではないが、それでもかなりの数が一年に書き下ろされている。多作家。1966年の「ト調の弦楽四重奏曲」から数えて2016年初頭までに383曲+11曲の合計394曲以上とされる。その殆どが楽器や歌と始めとする生楽器のための音楽であり、純粋な電子音楽は存在しない。これは数十分を要する作品も一曲と数えられているため、書かれた楽譜の総ページ数は膨大である。インストラクションを必要とする特殊奏法には殆ど興味を示さないので、使われることは非常に稀である。が、コントラバス・チューバやコントラバス・クラリネットなどの珍しい楽器を使用したり、非常に珍しい楽器の組み合わせを用いることもある。多くの作品は極めて即興的に作られるので早書きになり、最短で一週間に一曲のペースと言われている。1980年代中庸まではほとんど推敲なしに書き上げていた。あまりの多作のためLPのリリースがとても間に合わなかった。さらに、ウニヴェルザール出版社からの楽譜出版を重視する方向であったため、全盛期と称される1980年代中葉に主要音源が入手しにくいという事態に発展した。名声が上がってからは、アンネ・ゾフィ・ムターのような名演奏家にも取り上げられて、人気がさらに向上した。現在は室内楽の国際コンクールの課題曲にも、コンクール向けに難易度を落とすことなく採用されている。多くの管弦楽曲は金管楽器を増強した編成が膨大である。演奏時間も単一楽章なのに思い切り長く感じられ、スケールの大きさで勝負する作曲家はヨーロッパでも極めて稀な例である。特に管打楽器奏者と声楽家への負担は非常に大きいとされる。リームはその読書経験から、古今の文学への言及もプログラムノートやインタヴューで非常に多く、この姿勢もドイツ語圏の多くの聴衆をひきつける要因になっている。しかし、「ドイツ語圏ならでは」の魅力に訴えるために、ドイツ語圏を離れると賛否がたちまち割れる点はデビュー時から変わっていない。リームのCDは様々なレーベルから出されているが、特に入念さが伝わるのは独ヘンスラー社・ネオス社である。初期から最近作まで網羅されている。近年は「推敲のたびに進化する」作品も見られる。1974年のドナウエッシンゲン音楽祭は「弦楽四重奏とオーケストラのためのSektor IV aus Morphonie(1972/1973)」の初演後、阿鼻叫喚の大騒動に発展した。ポスト・セリエルによる抽象性が支配的だったドイツの楽壇から、和声と旋律による具象性を極端に強調した音楽性に、聴衆の多くが反発したのである。デビュー当初は「新ロマン主義」や「新しい単純性」などといわれていたが、結局のところ、彼の作風をカテゴライズすることは、不可能である。「電子音楽とオーディオ・アートを一切作らない作曲家」ということしか出来ない。この当時は調性や引用が、頻繁に用いられた。引用の元はベートーヴェンやシューベルトのようなものから、マーラー、シェーンベルクなどの現代作曲家にまで渡っている。非常に保守的な音の重ね方の中に斬新な側面もあり、一貫して強弱の対比が極端に大きく、その中間のメゾフォルテやメゾピアノは殆ど見られない。交響曲第二番(1975)では、冒頭に古典的なロングトーンを提示したかと思うと、沈黙後にオクターブを含んだ和音で咆哮するという大胆な音響構成が、前衛の常識を全く超えていた。「弦楽四重奏曲第3番“奥底にて”(1973)」では21歳の若さでベートーヴェンから初期シェーンベルクにいたるイディオムを縦横に組み合わせ、ラストのヴァイオリンソロの旋律がすべてを解決する新ロマン主義ならではの傑作として、再演が重ねられた秀作である。「見えざる風景」でも従来の前衛世代が忌避したピアノ三重奏曲という編成に挑み、古今のドイツ語圏の作曲家のモチーフが混ぜ合わされている。このような混合を後日「意味が無かった」と否定したが、オクターブや協和音程をふんだんに含んだ充実した楽想は、リーム作品の核と言える。このころはブライトコップフ・ウント・ヘルテル出版社と契約し、作品番号も付されていた。のち、ウニヴェルザール出版社へ移籍したのは前述のとおりである。巨大な「弦楽四重奏曲第6番“青色本”(1984)」の完成後、率直な引用や調性を含むパッセージの使用を嫌い、ヘルムート・ラッヘンマンやフォルカー・ハインらの試みに似た騒音的効果への執着が顕著になる。弦楽四重奏曲第八番は「紙を破く」、「紙をくしゃくしゃにする」、「全員が弓でパート譜の上にCon Amoreと書く」という指定がなされており、聴衆はその書かれた文字を「音で聴く」。「暗号」と題された一連の連作では、無作為に打たれ続ける単音のみで音楽が演奏され、70年代に目指した具象性からは遠ざかる結果となった。この傾向は音楽劇「メキシコの征服」で頂点を迎える。1990年代以後はシューマンの後期に見られた過剰な反復を狭い音程内で積極的に導入するようになり、時にはコル・レーニョのように本来散発的に使われるはずの特殊奏法が数分以上続く「弦楽四重奏曲第10番(1993/1997)」のように聞き苦しい結果となる。また、PPに徹し続けた薄い密度が曲全体を覆う、細い単音のみの提示など、ライトな作風も使い分けることができている。「マルシャス」・「名づけざる物IV(2002-2003)」のように従来の作風の延長線上の作品も多いが、年をとってからは全体的にテンションの増減が小さくなりつつある。「細片8」の曲尾や「弦楽四重奏曲第12番」の冒頭で見られる、すすけた渋い音色の引き伸ばしも目立っており、枯れた味わいへの移行も見られる。今まで速筆で多作であった彼が、一つの作品に時間を掛けて取り組むことが多くなった。数年以上にまたがって作品が書かれていることもある。静的な佇まいとは言えるものの、叙情性はゼロという晦渋さは放棄しておらず、数十分にわたる持続を書ききる体力は健在である。「セラフィン協奏曲(2008)」も冒頭は比較的2台のピアノから速めの音型が飛び出すものの、中間部は楽器のソロの長い持続で持たせる箇所が急増する。表現主義的なダブルリードのメロディーはそれほど新しくないが、スラップを中心とした衝撃音が毎度絡まっているため、依然として耳への負担は大きい。tacetも目だって増えた。健康の悪化が激しく、2009年のシュトゥットガルトのバッハ・アカデミー委嘱作品は入院の為、一回キャンセルされた。健康状態が回復してからは創作ペースは元に戻っており、2010年にオペラDionysosを完成させるなど、創作意欲は衰えを感じさせない。2013年は彼にしては珍しく旧作の「ヤーコプ・レンツ」が再演された。演奏予定を見ると、旧作の再演出から新作まで幅広く演奏されており、ドイツ語圏以外の上演ももはや珍しくなく国際的な重鎮として2016年のいまもなお健在である。1970年代から作曲を教えており、近年は審査員活動や後進への賞の授与などで頻繁に名がみられ、国際的に成功した弟子にはヨルク・ヴィトマン・ダーフィト・フィリップ・ヘフティ・マートン・イレシュ・レベッカ・サンダースらが含まれる。
出典:wikipedia
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