LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

インティライミ

インティライミ()とは、日本(JRA)の元競走馬である。おもな勝ち鞍は2005年京都新聞杯・2007年京都大賞典(ともにGII)。主戦騎手は佐藤哲三で、全29戦中、23戦に騎乗した。馬名の由来はアンデス地方で行われる「太陽の祭り」であり、ケチュア語でインティ=太陽、ライミ=祭をそれぞれ指す。これは、母名アンデスレディーからの連想であり、兄弟馬の多くにもアンデスに関係する名前が付けられている(「主な兄弟」を参照)。よって、香港表記は「」となる。現役引退後は北海道苫小牧市のノーザンホースパークにて乗馬となった後に退厩し、2011年より慶應義塾大学馬術部の所属となっていたが、2015年現在、再度ノーザンホースパークにて繋養されている。2004年8月に小倉競馬場での2歳新馬戦でデビューし、不良馬場をものともせず3 1/2馬身差で勝利し、単勝1番人気に応えた。また、この競走では後に中山大障害を連覇するキングジョイも出走していた(6着)。なお、この日の次の同じ芝1800mのレース(第6競走・未勝利戦)では後に福島記念(2006年)等に勝利する全兄のサンバレンティンが勝っている。続く新潟2歳ステークスでは単勝2番人気に支持されたが、後方から追い上げるも6着に敗れ、その後休養に入る。半年振りに出走したゆきやなぎ賞は競り合いの末、クビ差の2着に敗れたが、続く500万下条件戦を5馬身差で勝利し2勝目を挙げる。京都新聞杯ではスタートが良くなく、最後方からの競馬となったが、3コーナーからまくり気味に外を回って進出し、内を突いてきたコメディアデラルテとの叩き合いをハナ差制して重賞初制覇を飾る。単勝2番人気に支持された東京優駿(日本ダービー)では3~4番手を追走し、直線では逃げたコスモオースティンを内から交わして一気に先頭に立ったが、残り200m手前でディープインパクトに交わされて5馬身差の2着に終わる。その後、菊花賞ではディープインパクトの三冠阻止を期待する声もあったが、蹄の病気(裂蹄)により休養を余儀なくされた。長い休養から7ヵ月半ぶりに日経新春杯で復帰を果たし、単勝1番人気に支持された。レースでは直線で一旦先頭に立つも、久々の実戦に加えてトップハンデの56.5kgも影響してか、一緒に上がってきたアドマイヤフジとスウィフトカレントにゴール前で交わされて3着に敗れた。続く阪神大賞典では2番手を先行するも、距離が長かったのか、勝利したディープインパクトから4秒も離された、ブービーの8着と大敗した。その後は金鯱賞を目標に調整されていたが、裂蹄と背中の痛みのため再び休養に入った。6ヵ月半ぶりの復帰戦となった京都大賞典では、デビュー以来全ての競走に騎乗していた佐藤が騎乗停止のため幸英明に乗り替わりとなった。レースの上がり3ハロンが33秒3という超スローペースの中、3~4番手を進み、最後の直線では内を突いたものの、7着に敗れた。続く天皇賞(秋)では佐藤とのコンビが復活し、レースでは後続を4~5馬身離して逃げたが、直線で力尽きブービーの15着に大敗した。さらに中日新聞杯は重賞優勝馬が自身を含め3頭というメンバーで、57.5kgのトップハンデとなった。レースは5番手を追走し、最後の直線では内を突いて抜け出してきたが、ゴール前でさらに内をトーホウアランにすくわれ、ハナ差の2着に敗れた。2007年の初戦となったアメリカジョッキークラブカップは佐藤が2週間前の競走中に落馬し、肩を骨折したため柴田善臣に乗り替わりとなった。レースは逃げ馬不在の中、スタートして先頭に立つと1コーナー過ぎから掛かり気味になり、道中は7~8馬身のリードを取って逃げたが、直線で勝利したマツリダゴッホに捕まると、ゴール前でもさらに2頭に交わされ、4着に敗れた。続く中山記念は終始折り合って6~7番手を追走したが、4コーナーで前が狭くなる不利もあり直線で後退し、最下位の16着に敗れた。その後、3ヶ月の休養を経て金鯱賞に出走し、再び佐藤を鞍上に迎えた。レースではやや離れた5番手を追走し、4コーナーから直線では先頭集団から少し離されたが、そこから盛り返してローゼンクロイツの3着に入った。続く宝塚記念では強豪が揃う中、得意の雨で渋った馬場を味方に付けたが、7着に終わった(レースに関する詳細は第48回宝塚記念を参照)。その後は当初、8月19日に行われるはずだった小倉日経オープンに出走を予定していたが、馬インフルエンザの影響で開催が中止され、その翌週に開催された新潟記念に出走登録を行うもののハンデが58kgとなったため回避し、さらに2週間後の朝日チャレンジカップに出走した。スローペースの中、中団やや後方で折り合い、直線で大外に持ち出すと上がり3ハロンが33秒3の末脚で前の馬を交わし京都新聞杯以来、2年4ヶ月ぶりの勝利を挙げた。その勢いを駆って臨んだ京都大賞典でも前走同様、スローペースで折り合い、直線で鮮やかに抜け出してポップロックをクビ差で退け重賞2連勝を飾った。この後は天皇賞(秋)には向かわず、ジャパンカップに出走したが、やや後方からレースを進め、直線でメイショウサムソンの外に持ち出すも伸びず、10着に敗れた(レースに関する詳細は第27回ジャパンカップを参照)。なお、京都大賞典に勝利した3日後の10月10日に佐々木晶三調教師は、2008年は積極的に海外のレースへ挑戦し、その一つに佐々木が管理していたタップダンスシチーも出走した凱旋門賞に挑戦するプランがあることを表明していた。有馬記念を前にした12月6日に発表された同競走のファン投票の最終結果は9位となる5万769票であった。また、12月1日に佐藤が競走中に落馬し、腰椎などを骨折したため、有馬記念では福永祐一が騎乗した。レースでは後方から2~3番手を進むも最後の直線ではさほど伸びず、9着に敗れた(レースに関する詳細は第52回有馬記念を参照)。2008年は大阪杯から始動し、後方から差を詰めたが7着に敗れた。続く金鯱賞では中団からレースを進めたが、伸び脚を欠いて7着に敗れた。その後の宝塚記念では単勝11番人気と低評価であったが、1番枠からスタートすると終始3~4番手を先行し、直線では不利を受けたものの3着に入った。レース後はノーザンファームに放牧に出されたが、9月に右前種子骨靱帯炎を発症していることが判明し休養に入った。11ヶ月ぶりとなる復帰戦は3年連続の出走となる金鯱賞となった。レースではインコースの4~5番手を進むも、6着に敗れた。これで、3ヶ月以上の休養明けの競走では6戦未勝利となった。続く宝塚記念では好位から徐々に差を詰め、4コーナーで大逃げを打ったコスモバルクを捕らえて先頭に立ったが、直線で失速し、12着に敗れた。続く函館記念では中団で待機するも、直線で伸びあぐねて7着に敗れた。その後のアンドロメダステークスには、騎乗停止の佐藤に代わり、クリストフ・ルメールを迎えて出走し、後方から進出して脚を伸ばしたが、8着に敗れた。中1週で挑んだジャパンカップではクリストフ・スミヨンとのコンビで出走したが、いいところなく14着(同着)と大敗した。明け8歳となった2010年の初戦は日経新春杯。2番手からレースを進めるも直線で失速してブービーの11着と大敗した。続く小倉大賞典では、中団を追走するが、失速しシンガリの15着と大敗を喫した。レース後に屈腱炎が判明、2010年2月24日付でJRA競走馬登録を抹消され、現役を引退した。引退後は北海道苫小牧市のノーザンホースパークにて乗馬となることが発表された。通算成績~29戦5勝、2着3回、3着3回、着外18回([5-3-3-18])※重量欄の下線はハンデ戦を示す

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。