久邇宮邦彦王(くにのみや くによしおう、1873年(明治6年)7月23日 - 1929年(昭和4年)1月27日)は、日本の皇族、陸軍軍人。階級及び位階勲等は軍事参議官、陸軍大将、大勲位、功四級。贈元帥、贈大勲位菊花章頸飾。久邇宮朝彦親王の第三王子。香淳皇后(昭和天皇の皇后)の父。邦彦王は1887年(明治20年)父朝彦親王の継嗣と定められ、京都府立中学(現・京都府立洛北高等学校)、学習院を経て東京・成城学校(現・成城中学校・高等学校)に入学する。1891年(明治24年)には朝彦親王薨去を受けて久邇宮を継承する。1896年(明治29年)陸軍士官学校を卒業し陸軍士官として勤務し、1902年(明治35年)陸軍大学校卒業。1904年(明治37年)には日露戦争に出征する。戦功により歩兵少佐に進級し功四級金鵄勲章を受章する。以後も累進し1910年(明治43年)歩兵第38連隊長、1917年(大正6年)第15師団長、近衛師団長、軍事参議官を歴任する。第一王女の良子女王は1918年(大正7年)1月に皇太子裕仁親王との婚約が内定したが、後に婚約破棄や山縣有朋暗殺説が飛び交う宮中某重大事件と称する事件へと発展した。発端は枢密院議長山縣有朋が良子女王の母方である島津家に色盲の遺伝ありと元陸軍軍医総監で貴族院議員の石黒忠悳より聞いたことに始まる。他にも山縣は良子女王の兄朝融王が学習院の身体検査に於いて色弱の疑いがあると診断されたとの情報を良子女王の担当医平井政遒より得て、皇室に色覚障害の遺伝子が混ざる事を恐れた山縣は元老西園寺公望、同松方正義と内談する。両元老は山縣に同意し、久邇宮に婚約を辞退させようと謀る。医師団の見解としては良子女王には色覚異常は認められないものの、色覚異常の遺伝子を有している為に皇子に遺伝する可能性があると判断した。山縣はこれを受けて邦彦王に婚約解消を迫るが、邦彦王は貞明皇后に拝謁し直訴するに及び、また宮内省は1921年(大正10年)2月10日に「良子女王殿下東宮妃御内定ノ事ニ関シ世情種々ノ噂アリヤニ聞クモ、右御決定ハ何等変更ナシ」と発表する。宮内省がこの発表を行った頃には過激派が山縣や時の首相原敬、他の皇族を暗殺するとの噂があり、山縣が皇族に危害が及ぶ前に解決を図ったものである。この発表があるまで報道が禁止されていた為、新聞は一斉にこの件を宮中某重大事件として報じたが、そもそも真相がわからないため複数の高官が辞表を提出するなどの憶測を報じていた。事件が解決し皇太子と良子女王は3年後の1924年(大正13年)1月26日に成婚となった。一方、政界に隠然とした勢力を保ち続けていたさしもの山縣も、この件を契機に急速にその影響力を失っていく。ところが翌年に長男の朝融王と酒井菊子の婚約破棄の問題が発生、この問題で邦彦王は先件とは逆の立場に陥ったため、婚約相手の酒井家や宮中からも大きな批判を受ける。結局婚約破棄は実現したものの、摂政宮から訓戒処分を受けることとなった。外戚となった邦彦王はしばしば皇居に出入りし、のみならず皇室に金の無心をするようになった。とくに自邸の改装費に関しては、貞明皇后を怒らせるまでに至った。しかしこのような邦彦王の行動は当時はいっさい表沙汰にはならなかった。旧薩摩藩最後の藩主だった島津忠義公爵の八女・俔子と結婚し3男3女をもうける。第一王女の良子女王は昭和天皇の皇后となった。邦彦王は今上天皇の母方の祖父にあたる。
出典:wikipedia
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