越山会(えつざんかい)は、かつて存在した日本の政治団体。越山会の前身ともいえる田中角栄の後援会は、清水村の若者十数名が作った田中党が始まりとされている。しかし若者たちが清水村を離れると、やがて消滅した。他にも田中後援会、越路会などがすでにあった。越山会は、田中が1953年の第26回衆議院議員総選挙で4回目の当選を果たした直後、田中の要請で加茂市で田中の上官であった片岡甚松(後の越後交通社長)、またそのおじで材木商の菊田次郎や旧友を中心に加茂市80名、下田村83名、計163名で発足した。初代会長は菊田次郎である。越山会の命名は田中の指示によると言われている。当時の加茂市、下田村は亘大明神といわれるほど、亘四郎の強固な地盤であった。これをきっかけに、田中の地盤である新潟3区の全市町村に相次いで結成され、すでに存在していた後援会も合流または改名し、越山会となった。田中の出生地である柏崎市刈羽郡は発足が最も遅く、1970年頃であった。会員には革新政党の支持者も多くいた。1960年10月に越後交通が発足すると、越後交通本社に越山会の本部がおかれ、越山会全体の事務を取り仕切る秘書課が設けられた。秘書課は得票率という概念を持ち込み、選挙の翌日か翌々日には各支部にパーセンテージとして配られ、各支部は得票率を競い合って集票活動にさらに熱心になった。これは、後の越後交通社長田中勇の発案とされる。地区越山会(支部に当たる)は細分化して317にものぼり、さらにその上に郡市単位の連絡協議会があり、選挙指令は徹底されていたことが田中の大量得票の源泉となった。越山会の名物といえるものに、目白詣でというものがある。新潟から団体で2泊3日の日程を組んで、田中と関係の深い国際興業のバスで目白の田中邸を訪れ、田中と面談、記念撮影をし、東京観光をするというものであった。これは地元筆頭秘書本間幸一の発案で、旅行の珍しかった当時としては画期的なことであり、支持基盤を固めるのに大いに役立ったという。これは全国の代議士で初めてのことであり、先駆けとなった。地元の土木業界関係者に大きな力を持ち、東京目白の田中邸詰めの秘書・山田泰司が新潟を訪れ、公共事業に関する陳情を受け整理することを「越山会査定」と呼んだ。査定に不満を述べる業者も、「目白で交通整理が済んでいる」と言われると沈黙した。田中の秘書佐藤昭子が責任者として経理の一切を担当、「越山会の金庫番」「越山会の女王」と称された。最盛期には会員数9万5千人を数えるまでになり、中には野党支持者も入会していた。1976年に田中が外為法違反の疑いで逮捕(ロッキード事件)されると、幹部会は全国で起こる批判に抗するように、全会一致で立候補を確認した。田中も新潟3区に張り付き、辻説法で選挙を戦った。結果、第34回総選挙では総理就任時に次ぐ16万8522票という大量得票で再選となった。1977年3月、全越山会青年部長を務め、現職県会議員である桜井新が衆議院選挙に出馬を決意すると、南魚沼郡の越山会は分裂した。田中の意向は出馬反対であったが渋々認め、「(兄弟ながら同一選挙区で立候補をした)岸(信介)と佐藤(栄作)の例を見ても兄弟でも他人だ。票はやらないがとにかく頑張れ」と言ったとされる。1979年の第35回総選挙は桜井が僅差で落選したが、それまで田中が盤石の強さを見せていた魚沼では桜井が2600票も上回り、地殻変動が起きた。1983年12月、田中がロッキード事件の一審有罪判決を受けての第37回総選挙(田中判決解散)が行われると、それまで2度行われた総選挙での田中の得票が減り続けていたため結果が注目されたが、危機感を覚えた越山会側の引き締めと田中の必死の選挙活動で、戦後衆院選史上歴代2位となる22万761票という大量得票で当選した。1986年7月に行われた第38回総選挙は、前年に田中が脳梗塞で倒れていたため政治活動ができる状態ではなかったが、越山会の支持者が活動し、17万9062票で当選した。田中が1990年に衆議院議員を引退した後、越山会からは後継者を擁立しないことを確認、その後解散した。長女の田中真紀子が衆議院選挙に出馬した時には越山会の復活が注目されたが、真紀子との方針があわず、結局、旧六日町支部所属会員など一部が支持するのみだった。越山会の名前は、田中が22年の初当選後から愛用していた雅号「越山」から来ている。越山会は、その後の政治家の参考対象になっている。小沢一郎の後援会組織「陸山会」や中村喜四郎の後援会組織「喜友会」などの例がある。
出典:wikipedia
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