国鉄C11形蒸気機関車(こくてつC11がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省が1932年(昭和7年)に設計した過熱式のタンク式蒸気機関車である。老朽化した種々雑多な支線・区間運転用機関車群の代替用として、1930年に設計されたC10形の改良増備車として設計・製造された軸配置1C2の小型タンク式蒸気機関車である。1920年代の国鉄では、第一次世界大戦終結後の日本経済の低迷と、特に都市部での並行私鉄線や自動車の台頭などの事情から、旅客・貨物輸送ともに輸送単位の縮小や列車運行回数の高頻度化が求められるようになっていた。そこでその要請に応えるべく、C51形やC53形といった大型制式蒸気機関車の新製投入で余剰となった、6200形などの鉄道国有化以前に製造された軸配置2Bのテンダー式蒸気機関車を改造した軸配置2B1などのタンク式蒸気機関車を、支線区運用や都市部の区間運転などに充てることとした。だが、それらの車両は改造の時点で製造から既に20年前後が経過しており、改造後10年を経ずして老朽化のために休車扱いとなる車両が発生するなど、その状態は思わしくなかった。また種車の形式が種々雑多で構造や交換部品の仕様などが完全には統一されておらず、保守作業の規格化という観点からも望ましくなかった。都市部での旅客列車の高頻度・高速運転については、当時地方私鉄を中心に実用化が進みつつあったガソリンカーなどの内燃機関を動力とする気動車も選択肢の一つであり、1929年(昭和4年)には鉄道省初の制式ガソリン動車であるキハニ5000形が製造されている。だが、これは搭載機関出力の非力さや設計面での未熟などが重なって、これらの老朽タンク機関車による旅客列車を代替するには全く不十分なものであった。そこで制式テンダー機関車ではもっとも小型であったC50形を基本としつつ、支線区の輸送需要を考慮して一回り小型化し、炭水を無補給で50kmから60km程度の距離を走行可能とする石炭庫と水タンクの搭載、それにそれらの重量の変化による動軸重の変化を抑制するために2軸従台車を付加する形で、国鉄としては1917年(大正6年)の4110形最終増備グループ以来13年ぶりとなる、新設計の制式タンク機関車が作られることとなった。その先駈けとなったのは鉄道省の島秀雄を主務設計者として鉄道省・国内機関車メーカー各社によって共同設計され、1930年に製造されたC10形である。これは主として都市部に配置され、短区間の折り返し運転による快速列車運用などで好評を博した。だが、このC10形は性能面では概ね満足な成績が得られたものの、従台車を2軸台車としたにもかかわらず動軸重が13tを超過し、軸重制限の厳しい丙線以下の支線区への投入には適さないという問題があった。そこでこの新型タンク機関車の本格量産にあたって、C10形に続き1931年(昭和6年)に設計されたC54形で得られたノウハウを盛り込んで設計をさらに見直し、特に薄鋼板部品の接合に折から実用化が急速に進みつつあった電気溶接を採用するなど、新技術を積極的に導入して軽量化を図ることで、動軸重を13t以下に抑えることになった。この新型機関車はC10形の続番としてC11形という形式が与えられ、C10形に引き続き島秀雄を主務設計者として設計作業が行われた。本形式では水タンク・石炭庫・運転室など薄鋼板を使用する部分について構造の見直しと工作法の工夫が行われ、これにより運転整備重量をC10形比で約5パーセントの削減となる66.05t、動軸重で最大12.5tの範囲内に収め、C10形と比較して入線可能線区を大幅に拡大することに成功した。本形式は不況期の輸送需要減少を背景として開発された機種であるがコンパクトで使い勝手がよく、戦時中に貨物輸送能力の増強用として支線区を中心に投入されたこともあり、その総数が381両に達するという、国鉄近代型制式蒸気機関車の中でも有数の成功作となった。また、その設計で得られた知見はC54形の後継機種となるC55形の設計にフィードバックされ、国鉄最後の新設計制式蒸気機関車となったE10形まで引き継がれており、その面でも大きな成功を収めた形式である。C50形のものよりボイラバレル径をやや太く、そして全長を短く再設計した2缶胴構成の過熱式ボイラーを、肉厚圧延鋼板を切り抜いて加工・組み立てした主台枠に搭載する。ボイラーの火床面積は1.6平方mで、基本となったC50形のものより若干小さいが、ほぼ同等の面積を確保している。過熱器はC10形と同じ4段構成であるが、最上段を4列、それ以外を6列としていた同形式とは異なり、4段とも6列構成として性能向上を図っている。シリンダ構成は一般的な単式2気筒、弁装置は鉄道省で標準的に採用されていたワルシャート式で、動輪径は総重量・ボイラー寸法などから8620形やC50形などで採用されていた1,600mmより5パーセント小さい1,520mmとされた。先台車の復元装置はC50形で初採用されたエコノミー式が踏襲され、従台車は外側軸受支持による釣り合い梁式2軸ボギー台車を備える。1932年から1947年(昭和22年)までの16年間に381両が汽車製造会社、川崎車輛、日立製作所、日本車輌製造の各社により生産された。生産時期によって1 - 4次までのバリエーションがある。C10形に比べると溶接部分が多く、ボイラーの過熱器がC10形と比較して2基増強され、除煙板(デフレクター)が装備されているなどの特徴がある。また、民間向けに製造されたものも少なくなく、11社へ計20両が納入されているが、いずれも概ね同時期の国鉄向けに準じた仕様となっている。製造年次ごとの番号と両数は次の通りである。製造所別の番号(製造番号)と両数は次の通りである。前述の通り、内地・外地合わせて11社へ20両が納入されている。最初は主に西日本の都市近郊や主要支線で使用された。近畿地方の快速列車を牽引した際には特急と張り合う俊足ぶりを発揮した。やがて活躍の場を広げてほぼ全国各地に配属され、主にローカル線の列車牽引に使用された。気動車が普及するにつれて余剰となり始め、1960年(昭和35年)ごろから少しずつ廃車が出たが、貨物列車用や入換用として蒸気機関車の末期まで数多く残った。本形式による優等列車運用への充当例としては、現役時代も終わりに近づいた1965年(昭和40年)10月から1968年(昭和43年)9月にかけて、肥前山口駅で長崎発着編成と佐世保発着編成を分割併合して運行されていた寝台特急「さくら」(2001・2002レ)の佐世保発着編成のうち、佐世保線早岐駅 - 佐世保駅間8.9kmの牽引に抜擢されたのが最も良く知られている。これは早岐駅の立地と構内配線の制約から、肥前山口から早岐を経て佐世保に至るルートで直通列車を運転する場合には列車を早岐でスイッチバックさせる必要があったが、早岐以東の本務機であるDD51形を同駅で機回しする所要時間に比して早岐と佐世保の間の運転所要時間が短く、かといって「さくら」の20系客車は機関車を最後尾とした推進運転に対応していなかったことから、機関車の付け替え時間の節減を図って当時早岐機関区に配置され佐世保・大村の両線で運用されていた本形式を早岐駅 - 佐世保駅間の牽引機に起用したものである。この「さくら」では1965年10月から1966年(昭和41年)9月まで、自重軽減のため電動発電機とパンタグラフを撤去したカニ22形を正規電源車とする基本編成が佐世保発着編成に割り当てられていたが、その後はマヤ20形簡易電源車を含む付属編成に割り当て変更となっている。なお、ヘッドマークは本務機に装着されたままとなっていたため、本形式には基本的にヘッドマークは装着されないことになっていたが、実際には、鉄道雑誌の取材などに応じた際に予備のマークを背面に装着したり、機関車を方向転換して正面向けにして、マークを装着して運転するなどのサービスをすることが時折あった。1970年(昭和45年)10月14日から1971年(昭和46年)6月25日まで、無火ながらC11 91が「日立ポンパ号」の先頭を飾り、全国各地の駅で展示された。動態保存用を除く本形式の払下げは、雄別鉄道への3両とラサ工業宮古工場専用鉄道への1両 (C11 247) 、三井鉱山奈井江専用鉄道への1両 (C11 226) の計5両が存在する。雄別鉄道へは、C11 65が1961年(昭和36年)、C11 127が1962年(昭和37年)、C11 3が1964年(昭和39年)に国鉄から払下げられ、江若鉄道からのC11 1、松尾鉱山鉄道からのC11 8とともに5両体制で1970年の廃止まで貨物列車の牽引用に使用された。小型で運転線区を選ばず扱いやすいことや、比較的に維持費が安く済むことから2016年(平成28年)現在、1両が運用を離脱したものの日本の動態保存中の蒸気機関車としては最多の5両が各地で保存運転を行なっている。1940年7月19日に川崎車輌兵庫工場で製造(製番2333)の3次形。同年7月28日に稲沢機関区に配置された。1941年10月25日に名古屋機関区に転属してからは、中京圏で使用された。1942年(昭和17年)2月14日には深川機関区、1944年(昭和19年)4月19日には朱鞠内機関区、1949年(昭和24年)3月9日には標茶機関区、1953年(昭和28年)8月15日には木古内機関区、さらに1956年(昭和31年)9月8日には長万部機関区に転属し、廃車になるまで北海道で使用された。そして、1974年(昭和49年)7月16日に釧路機関区に転属し、1975年(昭和50年)4月24日の無煙化まで貨物列車に使用された。同年6月25日に廃車となり、8月13日に標茶町の桜町児童公園に静態保存されていた。しかし、1995年(平成7年)11月3日に「C62ニセコ号」の運転を終了したJR北海道からの要請で返還され、1998年(平成10年)11月27日より苗穂工場にて動態復元工事が開始された。1999年(平成11年)4月21日に車籍復活し、同年5月1日より留萌本線深川駅 - 留萌駅(後に増毛駅)間の「SLすずらん号」(2006年(平成18年)9月10日に運転終了)で営業運転を開始した。その後は、「SLふらの・びえい号」や「SL冬の湿原号」、「SL函館大沼号」などの道内の蒸気機関車牽引列車に使用されるようになった。なお、2016年現在の道内におけるSL運転では、新型ATSの設置や北海道新幹線への影響による煽りなどから、上述した「SL冬の湿原号」のみの運用で用いられているのみである。また、この関係上、本機はそれまで所属していた旭川運転所から上述の釧路運輸車両所へ転属となった。通常はボイラー保護を目的として、ディーゼル機関車による補助機関車(補機)を従えての運行形態が採られているが、「SL冬の湿原号」通常運行時(釧路駅 - 標茶駅間往復)は補機を連結することはあまりない。臨時列車としての運転記録は以下の通り。1940年9月11日竣工として川崎車輌兵庫工場で製造された(製番2361)3次形の1両。1941年(昭和16年)3月31日に尻内機関区に配置され、1943年(昭和18年)9月に早岐機関区に転属、1949年(昭和24年)3月1日に伊万里機関区に転属、さらに1950年(昭和25年)10月15日に熊本機関区に転属し、九州地方で使用された。本機は熊本機関区時代に三角線熊本駅→三角駅間でお召し列車を牽引した経歴がある。1974年4月25日付けで休車、1974年6月12日付けで廃車となり、1977年(昭和52年)に解体される予定であったが、熊本県八代市在住の個人に買い取られ、1978年(昭和53年)より静態保存されていた。彼が復活を夢見て大切に保管していたことが、大井川鐵道の関係者の目にとまった。2001年(平成13年)6月23日に海上輸送で御前崎港西埠頭に到着、翌24日未明に陸送され、昼ごろに大井川鐵道に到着した。同年8月28日より同鉄道では「C11 190復活プロジェクト」が開始された。2003年(平成15年)5月に塗装が完了した。外装は、先述のお召し列車牽引の功績を称え、除煙板に金色の社紋が取り付けられ、車体各所にステンレスによる縁取りがなされたお召し仕様のものになった。同年6月16日より試運転を開始、同7月17、18日に募金者対象の試乗会が実施され、翌19日に営業運転を開始した。お召し仕様は、2007年(平成19年)の検査で通常の仕様に一時戻されたが、2011年(平成23年)10月7日 - 9日に開催されるSLフェスタ2011および全国SLサミットに合わせて、再びお召し仕様に戻された。同鐵道が年一度に開催される夜行運転「ナイトトレイン」の初充当は2008年で、この際にヘッドライト横にシールドビームによる副灯が追加されている。その後は一時的に取り外されているが、現在副灯が追加されている状態とされている。なお、2009年9月9日に、鉄道部品店ジャパレが主催とする団体列車「銀河超特急999号」の牽引機として充当された当日は、TVアニメ版銀河鉄道999の999号を模した装飾を施して運転されている。2016年、イカロス出版「蒸気機関車EX」との大井川鐵道SL復活運転40周年記念タイアップ企画として、当機にK-7形の門鉄デフが期間限定として装着された。これは、当機が現役時代九州地区で活躍していたことにちなんでの企画だが、当機自体は門鉄デフを装着された経歴は持ってはいない。2016年現在、単機での牽引は客車5両までが可能である。1941年12月26日竣工として日立製作所笠戸工場にて製造(製番1488)。C11 171と同じく3次形の1両。当初の配置区は不明だが、1949年3月31日に尻内機関区に転属した。1972年(昭和47年)12月8日に長万部機関区に転属してからは、瀬棚線の貨物列車などに使用されたが、同線の無煙化に伴い、1974年6月30日に「瀬棚線SLさよなら列車」に使用された。同年10月1日に廃車となり、11月19日より静内町(現・新ひだか町)の山手公園に静態保存されていた。2000年(平成12年)3月3日にJR北海道に返還され、苗穂工場で修復を受け、同年9月30日に車籍復活し、10月7日より函館本線小樽駅(後に札幌駅) - ニセコ駅(後に蘭越駅)間の「SLニセコ号」に使用されるようになった。復活1年目は動輪軸受の異常発熱が頻発して満足に運用できなかった。そのため、修理と調整を繰り返した末、翌年になってようやく安定稼働するようになった。以後はC11 171の予備機という扱いで「SLニセコ号」のほか、「SL冬の湿原号」、「SL函館大沼号」などにも使用され、時折C11 171との重連運転も実施された。2014年(平成26年)7月、鉄道ジャーナル2014年8月号において、C11 207が同年6月8日の「SL富良野・美瑛ノロッコ1・6号」の運用をもって営業運転を終了したという記事が掲載された。しかしこれは同誌の誤った情報であり、実際は検査期限である同年秋まで運用されることになっており、同11月の札幌駅 - 小樽駅での団体臨時列車を最後に、道内での運用から退いた。上記の通り動輪の調子が依然著しくなかったことをはじめ、本機に対しての新型ATSの設置が難しいこと、北海道旅客鉄道内での営業不振に伴う財政難や機関士確保が難航したことなどの影響により、同年以降はC11 171のみで運用されることになった。道内での運用から退いたC11 207については、東武鉄道が借り受け、2017年度(平成29年度)より東武鬼怒川線の下今市駅 - 鬼怒川温泉駅間で運行する予定である。苗穂工場にて全般検査を施工の上2016年8月12日に苗穂工場を出場、8月19日に南栗橋車両管区に入場、9月12日に火入れ式が行われた。なお、本機は濃霧の多い線区で使用されていたため、前照灯を左右除煙板のステー上に各1基ずつ搭載する「カニ目」、「蟹」と呼ばれる非常に独特な外見となっている。臨時列車としての運転記録は以下の通り。1942年9月9日竣工として名古屋の日本車輌製造本店で製造された(製番1108)。1975年11月22日に大井川鉄道(現・大井川鐵道)に入線し、1976年(昭和51年)7月9日のSL急行「かわね路号」運転開始で動態保存としての営業運転を開始した。1946年(昭和21年)3月28日に日本車輌製造本店にて落成(製番1418)。4次形の後期製造グループに含まれ、「戦時設計」「戦時工程」による大幅な簡素化が図られていた。そのため、現役当時は工作の容易化を図った角型の砂箱と蒸気ドーム被いを装着していた。当初は茅ヶ崎機関区に配属され、相模線や南武線、入換などに用いられた。21年後の1967年(昭和42年)3月、米沢機関区へ転出し、米坂線や左沢線で使用された。1972年、左沢線で蒸気機関車の運転が終了されるにあたり、本機が「SLさよなら列車」を牽引し、その後廃車となった。翌1973年(昭和48年)、新潟県水原町(現在の阿賀野市)水原中学校に無償譲渡、静態保存されることとなった。1996年(平成8年)、C12 66により「SLもおか」を運転していた真岡鐵道が、予備機として使用するため、3月27日に水原中学校から真岡鐵道真岡駅前に移設された。翌1997年(平成9年)11月より、JR東日本大宮工場(現在の大宮総合車両センター)にて動態復元工事が行われた。この復元工事にあたり、1次形にならい、特徴的であった角型ドームを通常の丸型ドームに交換した。翌1998年9月に動態復元工事が完了、10月に真岡鐵道に引き渡された。同月9日より試運転が行われ、この時「SLもおか」を牽引していたC12 66との重連での試運転が幾度か行われた。11月1日、全国の第三セクター鉄道による「ふるさとレールフェスタ」に併せて、C12 66を従えて初の営業運転に投入された。その後は、ホームグラウンドである真岡鐵道での「SLもおか」のC12 66検査時の予備機、および重連運転用として使用されている。2006年12月8・9日には本機の生誕60年(還暦)を記念してナンバープレートを赤色に塗り替えて運転されている。また、2012年(平成24年)4月14・15日にも、桜の開花に合わせて同じくナンバープレートをピンク色に塗り変えている。その他、外観の変移としては、2005年(平成17年)に全般検査を施工・出場した際には、デフレクター(除煙板)を加工してバイパス弁点検窓が追加されている他、汽笛の音調も微細ながら全般検査出場毎に変化が見られている。2001年にはJR東日本へ貸し出され、出張運転も実現した。以下は、本機の出張履歴である。特記以外使用される客車は全て高崎車両センターの旧型客車である。大井川鐵道では、かつてC11 312も動態保存されていた。詳細は以下の通り。国鉄を代表する蒸気機関車の一つであるC11形は廃車後、全国各地で静態保存された。このうちC11 1は青梅鉄道公園に、C11 64は京都鉄道博物館(旧梅小路蒸気機関車館)に保存されている。また、動態保存機として復活していたC11 312も保存されている。また、ニュース番組などで「新橋のSL広場前から…」と言うことがあるが、その新橋駅SL広場にあるのはC11 292である。かつて関西や広島地区などで放送されていた黒田食品「十一の奈良漬」のCMにもC11 261が登場していた。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。