斧(おの)は、片手、もしくは両手持ちの柄の先に厚くて重い刃を装着した叩き切るための刃物。石器時代から世界中に遍在する、歴史のある道具である。→#歴史斧の基本的な用途は、樹木の伐採、また木材の成型、薪づくり等々である。道具としての斧の一般的な用途は、生きている樹木を伐り倒し丸太を作ったり、枝を切り払ったり、丸太を割ったり、材木を成形すること、薪をつくること 等々なものである。斧はまた武器としても使用されてきた歴史がある。武器として発達した斧は戦斧と呼ばれる。斧は使用方法ごとに様々なタイプがある。現代の斧は使用目的、サイズおよび様式ごとに特化している。斧は石器時代より、石斧(せきふ)として存在し、樹木をたたき切る道具や武器として用いられた。石斧はその製法により打製石斧と磨製石斧に分けられる。技術の発達に連れ、銅、青銅、鉄および鋼で作られた斧が現われた。片手で使うための短い柄を持つ斧はしばしば手斧(ハンドアックス、ハチェット『』)と呼ばれる。特に樹木伐採や木材加工用の、片手で使える小型のものをそう呼ぶのである。(ただし「手斧」という語は、柄のない斧、を指すためにも用いられているので若干注意が必要である。)ハチェットはしばしば刃の背にハンマーを備えていることが多い。また現代では、柄に収納式のガードが取り付けてあり、刃を保護し安全に持ち歩けるようにしたものもある。中世、近代では通常は木製の柄とそれに直角に固定された金属製の刃からなる。材質に着目すると、西洋の斧は、伝統的には全鋼の刃に、曲線的な木製の柄(典型的ヒッコリー、もしくはホワイト・アッシュ、アオダモ製が)から構成されている。大抵の斧の刃は刃欠けが起こらないように柔らかめに焼き入れを施してあり、鑢で研ぐことも可能である。柄は近年ではプラスチック製やグラスファイバー製の柄も珍しくない。なお日本語では伝統的に、大きい斧や、特に刃渡りの広い斧(丸太の側面を削って角材を作るためのもの)鉞(まさかり)と呼びわける。和語では薪などを細く割る小型の斧を「マキ割り」「よき」とも呼んだ。近年の日本の斧では、刃が主に全鋼製で両手で扱う薪割り斧と、割込で片手で扱う伐採斧があり、柄は主にカシ製の直線柄である。儀式もしくは紋章のシンボルにも用いられる。手斧のような初期の石器は恐らく柄が付いていなかったと思われる。最初の本当の柄付き斧は中石器時代(紀元前6000年頃)に始まることが知られているが、一部の地方では枝角で作られていた斧が新石器時代でも利用され続けた。燧石で作られた切る道具は柄が付けられ「ちょうな」として使われた。磨製石器の石斧は新石器時代以降に現れることが知られている。それらは木を切り倒し加工するために使用された。木製の柄はほとんど見つかっていないが、斧は通常くさびを使って柄に取り付けられたようである。刃を固定するには樺のタールや生革の紐が用いられた。新石器時代の後期(ミシェルスベルク文化、Cortaillod文化)では長方形の非常に小さな刃が一般的になった。それらは柄に取り付けられるとき枝角のスリーブが付けられた。これは柄が割れることを防ぎ、同時に石の刃自体への衝撃を和らげた。新石器時代の初期には打製石器だった斧の刃は、次第に磨製石器になっていった。新石器時代の晩期までには製材(木製の鋸や砂)は一般的になった。これにより、生の素材のより効率的な使用が可能になった。スカンジナビア、北部ドイツ、およびポーランドでは燧石の打製石器、磨製石器の刃を持つ斧が一般的だった。石の斧は実に効率的な道具である。これを使用すると、直径10cmのトネリコ硬材を切り倒すのに約10分かかる。直径30cmならば1 - 2時間であった(現代の比較:3.5kgの競技用伐採斧を用いた場合、25cmのストローブマツ軟材が2分未満)。新石器時代の晩期以降(Pfyn-Altheim文化)平らな斧が銅あるいはヒ素を混ぜた銅で作られていた。青銅の斧は初期の青銅器時代(A2)以降見つかる。平斧はパルスターブ、フランジ付き斧、さらにその後、翼付き斧、ソケット付き斧へと進化していく。紀元前3千年紀(?)、ヨーロッパのいわゆる戦斧民族は初期のインド・ヨーロッパ語族、後のケルト人とドイツ人の先祖に当たると考えられている。また、斧は中国の武器類で重要な役割を占めた。「斧」を意味するプロトインドヨーロッパ語の単語はpelek'u(ギリシア語:pelekus、サンスクリット:parashu)だったと思われる。しかし、この単語は恐らく究極的にはシュメール語balag、アッカド語pilakuと関係する借用語、あるいは新石器時代のwanderwortだったかもしれない(ラブリュス、も参照のこと)。何千もの磨製石斧が粗仕上げされていた新石器時代後期の「斧工場」はイギリス(例えばカンブリアのGreat Langdale)、アイルランド(Lambay島、Porphyry、Rathlin島およびTievebulliagh、porcellanite)、ポーランド(Krzemionki、フリント)、フランス(Plancher-les-Mines、ボージュ山地、pelite、Plussulien、ブリタニー、meta-dolerite)およびイタリア(Val de'Aoste、omphacite)が知られている。石斧の分布は有史以前の貿易を示す重要なサインである。磨製石斧の刃の起源を決定するためにはその薄片を使う。石斧は今日なおイリアンジャヤ(ニューギニア)の一部で作られ使用されている。ハーゲン山地域は主要な生産の中心地だった。古代エジプト、古代ギリシア、古代ローマなど。開拓時代のアメリカ東海岸地域は広大な森林地帯であったため、効率的に開拓するために斧に改良が加えられた。ヨーロッパ製のものに比べ柄が湾曲し太くなり、刃も強く孤を描くように作られた斧は、それまでの直線柄で刃の細い斧に比べて1・5倍もの威力があるという。日本においても旧石器時代より斧は「石斧」として使用されてきた。はじめは石を打ち欠いて整形した「打製石器」だったが、縄文時代に滑らかに研ぎ澄まされた「磨製石斧」へと進歩し、大いに作業性が高まった。大木の根元で火を焚き、石斧で削りとる方式で伐採されたクリの巨木で作られた櫓や「ウッドサークル」を、青森県三内丸山遺跡や北陸のチカモリ遺跡に見ることができる。弥生時代に中国大陸や朝鮮半島より鉄製の斧が伝来したが、当時は鉄が貴重品だったため、鉄の使用量が少なくて済む、鍬のように木製の刃の先に鉄を被せた形状のものが流通していた。それでも貴重な品で、権力者の石棺に副葬品として納められるほどの重要性を持っていた。(なお、戦前まで沖縄で使われていた斧「ウーヌ」は、これとよく似た、木の台に刃を被せた形状である。)やがて鉄器製造技術の向上によって斧は刃の全てを鉄で作られるようになり、古墳時代から飛鳥時代にかけて全国的に広まり、さらに続縄文時代だった北海道にも伝播した。鋸がほとんど普及していなかった鎌倉時代以前の日本において斧、ちょうな、鑓鉋は伐採から製材、仕上げをこなす唯一の道具であった。斧で木を伐り倒して断ち切り、楔で引き裂いて角材や板材の大まかな形を取り、ちょうなや鑓鉋で表面を仕上げる。木工用の工具が未発達だったゆえに日本では杉、檜のように、木目が通っていて引き割りやすい針葉樹が、建材として重要な位置を占めるようになった。法隆寺においては、柱はもとより戸板、窓の格子に至るまで、樹齢2千年級の檜の巨材を斧で断ち切り、楔で打ち割ることによって素材を得ている。このような状況ゆえに、良材を原料にしなければ作れない大型の板は、大変に高価なものだった。やがて鎌倉時代に丸太を横に寸断できる横挽き鋸が普及し、さらに室町時代、大陸から大型の縦挽き鋸(大鋸)が伝来した。以降は節の多い材や、ケヤキのような木目の入り組んだ材であっても挽き割って角材や板に加工できるようになり、木材は大いにコストダウンされた。さらにそれまで斧のみが使用されていた伐採作業もノコギリが併用されることとなった。明治時代以降、良質で安価な鉄材が入手できるようになると、鋸が多用される傾向が高まった。第二次世界大戦後には、小型・軽量化が著しく進んだチェーンソーや電動ノコギリなどの進歩により、化石燃料の使用、あるいは「薪割り機」の登場により、斧が使用される場は狭まっている。その一方で、握りやすい曲線的な柄など西洋式斧の利点を取り入れた和式の斧が開発されてもいる。少なくとも新石器時代後期以降には、精巧に作られた斧(戦斧、丁字斧など)は宗教的な重要性を持っており、またその所有者の地位の高さを示したと考えられている。ある種の斧は、ほとんど磨耗の跡が無い。新石器時代中期の柄の無い斧の刃だけが蓄えられたもの(イギリスのサマセット・レベルのように)は神への贈り物だったのかもしれない。ミノア文明時代のクレタ島では両刃の斧(ラブリュス、labrys)が特別の意味を持っていた。両刃の斧は新石器時代にまで遡る。1998年には精巧に装飾された柄の完備した両刃斧がスイスのツーク、チャムエスレンで見付かった。柄は長さ120cmで、装飾された樺の樹皮で包まれていた。斧の刃は長さ17.4cmで、Gotthard地域で採掘されたアンチゴライトで作られていた。柄は両円錐形の穴を通し、枝角のくさびと樺のタールによって固定されていた。それは初期Cortaillod文明に属する。中国では霊力を持つと考えられ、玉座の前での儀式に使用された。刃を下に向けたものが象形字「王」となった。古代王朝・殷においては、巨大な銅製の鉞で人身御供の首を刎ね、供物として神に捧げた。また軍権、専断権の象徴ともされ、配下にそれらの権限を与える際に斧鉞を与えている(仮節)。ローマの束桿(ファッシ)では斧が斬首する権能を表すという説もある。実際にヨーロッパ諸国では近代まで斧による斬首刑が行われてきた。最期の斧による斬首刑は1900年12月10日にスウェーデンのヴェステロースで執行されたヨハン・フィィップ・ノーデァンドだと言われている。ちなみに、断頭台とは斧による斬首刑を行う場合に斧の下にある木の台のことを指していた。民間伝承では石の斧が時々雷電であると考えられ、(神話的に)稲妻が同じ場所に2度落ちないと言われている(現在ではこれは真実でないと分かっている)ので、建物を稲妻から保護するために使用された。このために斧の伝播に偏りを引き起こした。投げられた斧は嵐を近付けない力があると考えられたので、ときどき収穫物を悪天候から守るため、刃を空に向けて農地の中に置かれた。家の敷居の下に直立した斧を埋めると魔女除けになると言われ、またベッドの下に斧を置けば男子の誕生を保証すると言われた。日本でも、斧は神事にも用いられており、その代表例は伊勢神宮の神宮式年遷宮に用いられる用材の伐倒式である。これは斧入れ式と呼ばれ、古来から伝わる「三ッ緒伐り」という方法で2本の檜の巨木を伐採する。まず木の3方向から斧でえぐる様に伐りこみ、3つの切り込みが木の中で繋がって木が「三本足」の状態で幹を支えている状態にする。最後に三本足のうちの1本を切断すれば、木は反対方向に倒れる。この方法で、2本のヒノキが重なるように倒す。近年では、1997年に岐阜県加子母村の国有林内で行われた。チェンソー全盛の時代でも、伊勢神宮では次の式年遷宮のため、専門の樵がこの伐採方法を伝承している。長野県諏訪大社の御柱祭でも、儀式に使用される樅の大木は斧と鋸を利用した昔ながらの方法で伐採される。山から下ろされた巨大な丸太は支える綱を斧で切断されて「木落し坂」を滑り落ち、最終的には斧で先端を削られた後、諏訪大社の境内に立てられる。日本の伝統的な斧の刃には、一方に3本、もう片方に4本の筋が刻まれている。これは山の神と火の神、鉄の神に敬意をはらう意味であり、同時に「三を四ける」つまり「身を避ける」で、危険な山仕事の最中、事故から身を守るために信仰として刻まれたものである。木を伐るなど、木材を木目と垂直に切るためのもの。木の繊維を軽快に切断できるよう、刃は薄く、鋭い。片刃または両刃があり、また重量、形、柄の形状、切断する素材の特性に合わせた切断形状には様々なものがある。特に北米では、伐る樹木の硬さに合わせて刃を使い分けるために「両刃斧」が広く使用されている。日本式の伐採斧は「よき」とも呼ばれ、木に深く打ち込めるよう、刃渡りが狭く、峰から刃までが長い。この形状ゆえに横に振る際にブレを生じやすく、操作には熟練を要する。丸太の側面を削ぎ、角材を作り上げるために使われる。刃の形状はのみ状(片面は平らで、もう片面は斜角がつけられた刃)で、より精密な作業が可能なように作られている。「鉞」「刃広」「たつき」と呼ばれる日本式のそれは、この限りではない。1回での作業量を多くするために、刃渡り20cm、柄の長さは1m以上に達する。斧は庶民の生活の道具であり規制を受けず、刀や槍、弓と異なり訓練を受けることなく利用できたため、古今東西に武器として特化した斧が存在する。日本の律令時代では兵が装備するものとして、斧1つ、小斧1つ、手鋸1つなどが記されており、斧が兵装として認識されている。また、漢字の「王」の字は闘斧に由来し、クレタ島のミノス文明における王権の象徴も双闘斧がたびたび用いられている。また、戦場では武器として以外にも攻城用(壁、石垣の破壊等)や陣地整備用の工具としても使用された。プロ野球の村田兆治(投手)はその投法からマサカリ投法と言われた。
出典:wikipedia
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