押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ、生没年不詳)は、飛鳥時代の皇族。麻呂古皇子、太子彦人皇子、忍坂日子人太子、皇祖大兄とも。敏達天皇の第一皇子で、母は広姫。子に舒明天皇、茅渟王がいる。敏達天皇の第一皇子として誕生。母は息長真手王の娘・広姫。蘇我氏の血を引かない敏達王統の最有力者であって、忍坂部(刑部氏)・丸子部などの独立した財政基盤を有し、王都を離れて水派宮(みまたのみや、奈良県河合町か)を営んでいた。用明天皇の崩御(587年)後に王位継承者として候補に挙がったとされるが、対立する蘇我系王族が台頭したため、以後の史料には活動が一切見えず、蘇我氏によって暗殺されたとの憶測もある。ただし、『一代要記』や『紹運録』を基に逆算される舒明の生年(593年)とその弟の存在を考えると、592年の推古天皇即位後も暫く生存していたはずで、非蘇我系の王位継承候補者として、蘇我系の竹田皇子や厩戸皇子と比肩し得る地位を保っていたと思われる。607年に王位継承者(厩戸)を資養する壬生部(みぶべ)が設置されているので、これ以前には亡くなっていたらしい。『延喜式』諸陵寮によれば、成相墓(ならいのはか、奈良県広陵町の牧野古墳か)に葬られた。忍坂部や丸子部といった押坂彦人大兄皇子伝来の私領は「皇祖大兄御名入部」と呼ばれ、以後も息子である舒明から孫の中大兄皇子(後の天智天皇)らへと引き継がれて、大化の改新後に国家に返納された(『日本書紀』大化2年3月壬午条)と考えられており、彦人大兄の死後においても、皇子の系統が蘇我氏や上宮王家に対抗して舒明即位から大化の改新の実現を可能にしたのは、こうした財政的裏付けの存在があったからだと言われている。主として『古事記』に拠る。4人の妃が確認されるが、うち3人は押坂彦人大兄皇子にとって異母姉妹に当たる。なお、『新撰姓氏録』左京皇別に敏達天皇の孫として見える「百済王(くたらのみこ)」も彦人大兄皇子の子であることは確実だが、『古事記』に掲げられた系譜には見えないため、多良王(久多良王の久が脱落)や茅渟王と同一人に考える説がある。
出典:wikipedia
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