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国土交通省直轄ダム

国土交通省直轄ダム(こくどこうつうしょうちょっかつダム)は、日本のダムのうち国土交通省により施工、管理が行われているダムまたは堰である。主として河川法、特定多目的ダム法に基づき、国土交通省の各地方整備局および北海道開発局、内閣府沖縄総合事務局(委託管理。後述)が実際の施工・管理業務を担当する。"国土交通省直轄ダム事業年表も参照"国土交通省が管理や施工を行うダム事業は「河川整備基本計画」又は「河川工事実施基本計画」に基づく「河川総合開発事業」として建設される。一部のダムを除き、通常は国土交通大臣によって計画から建設、そして管理まで一元的に行われる特定多目的ダムがほとんどであるが、直轄ダムの中には河川法第17条による「兼用工作物」として管理が複数の利水事業者と行われているダムもある(詳細は「多目的ダム」を参照)。近年では洪水調節のみを目的とした治水ダムも近年では事業計画がなされている。多目的・治水何れのダムについても、最大の目的は洪水調節、すなわち治水である。通常一級河川の上流部は都道府県によって委託管理されている(これを指定区間と呼ぶ)。ただし直轄管理されているダム及びダムに伴って形成された貯水池(人造湖)、さらに上流・下流の一定区間に関しては国土交通大臣による直轄管理がなされる(これを特定水利と呼ぶ)。これは沖縄県の二級河川でも同様に扱われる。国策として建設されるため水没住民に対する補償対策は特に重視され、1973年(昭和48年)の水源地域対策特別措置法の施行に伴い、特に大規模なダム事業に関してはほぼ例外なく法を適用し、水源地域住民への対応を行っている。さらに国土交通省は従来の閉鎖的管理からの転換を図り、直轄ダム・水資源機構管理ダムを地元の観光資源として積極的に一般に開放する方向へ転換を行った。この施策は1994年(平成6年)に「地域に開かれたダム」施策として実施され、ダムの周辺整備やPR施設の建設、町興しへの積極的参加や社会科見学の誘致等の基本計画を各ダムごとに提出させた。これにより宮ヶ瀬ダム(中津川・神奈川県)や御所ダム(雫石川・岩手県)のように年間100万人を超える観光客が訪問するダムも出てきている。一方で八ッ場ダム(吾妻川・群馬県)や川辺川ダム(川辺川・熊本県)のように地元との間に長年の軋轢(あつれき)を抱えたダムもあり、現在計画が進められているダムの大半は事業が長期化している。また第2次橋本内閣以降強まった公共事業見直しの風潮により、計画中であったダムの相当数が事業中止・凍結された。なお、茨城県・東京都・山梨県・香川県・宮崎県には、国土交通省が管理・施工しているダムや堰は現在存在しない。また、かつては国土交通省(建設省)が施工したダムの中には各地方自治体に管理を移管したダム、または地方自治体が管理していたダムが国土交通省直轄ダムとなったダムも存在する。2008年(平成20年)5月に福田内閣は都道府県内で完結する一級水系について原則地方自治体へ移管する方針を示したが、今後国土交通省直轄ダムの中にはこうした河川の管理移譲に伴い、都道府県営ダムに管理主体が変更される可能性がある。2009年10月9日、前原誠司国土交通大臣は、建設中の国土交通省直轄ダム(水資源機構が事業主体となっているダムを含む)56事業のうち、改修事業を除く48事業について「2009年度は(ダム事業を“調査・設計”→“用地買収”→“生活再建工事”→“転流工工事”→“本体工事”という段階に区切った場合における)新たな段階に入らない」ことを表明、ダム建設事業を全面的に見直す立場を示した。今後、事業を継続すべきか否かの妥当性について再検証が行われることとなり、12月に具体的な「凍結」ダム事業が発表された。対象となった直轄ダムはサンル・新桂沢・三笠ぽんべつ・平取・田川・成瀬・鳥海・八ッ場・万座・利賀・設楽・新丸山・足羽川・大戸川・横瀬川・山鳥坂・大分川・城原川・本明川・立野・七滝・川辺川・奥間の23ダム事業である(導水事業などを除く)。各論におけるダム一覧表の見方については、以下の通りである。ダムデータは財団法人日本ダム協会『ダム便覧』を基礎出典とし、適宜追記する。横線は検証可能な出典での数値提示が不能なものである。北海道開発局管内では直轄ダムが運用16、施工中5の計21ダムを管理・施工している。北海道開発局は国土交通省の地方支分部局として国土交通省の発足時に統合されたが、農林水産省の地方農政局機能も担当している。このため土地改良法に基づく国営農業水利事業によって建設された大夕張ダムと川端ダム(夕張川)も直轄管理しているが、両ダムは農林水産省直轄ダムとしての扱いを受け、国土交通省直轄ダムには該当しない。北海道は1950年(昭和25年)5月に北海道開発法が施行され、同法に基づき北海道開発庁(1950年6月)と北海道開発局(1951年7月)が設立。以後数次にわたる北海道総合開発計画に沿って河川総合開発事業を展開していた。1952年(昭和27年)からの第一次北海道総合開発計画において道内最大の河川・石狩川水系の河川総合開発事業が初めて盛り込まれ、利水目的の事業として雨竜川の鷹泊ダムが1953年(昭和28年)に完成するが、治水目的として計画されたのが三笠市を流れる幾春別(いくしゅんべつ)川の桂沢ダムと、空知川支流芦別川の芦別ダムである。電源開発などとの共同事業で計画された両ダムは、双方をトンネル導水路で連結して治水のほか上水道供給、灌漑、水力発電を目的とし、1957年(昭和32年)に道内初の直轄ダムとして完成した。以後石狩川水系の河川開発は石狩川改修全体計画(1953年)、石狩川水系工事実施基本計画(1965年)に基づいて進められ金山ダム(空知川)、大雪ダム(石狩川)、漁川ダム(漁川)が建設されたほか、札幌冬季オリンピック開催を控え人口の増加が顕著となった札幌市の治水安全度と上水道供給向上を図るため豊平川流域の総合開発も計画され、豊平峡ダム(豊平川)が建設された。しかし1981年(昭和56年)の台風14号と寒冷前線による豪雨は石狩川流域で過去最悪となる大洪水を引き起こし、治水計画は根本からの見直しが図られた。この結果、全ての主要支流においてダム計画が立案され、定山渓ダム(小樽内川)、滝里ダム(空知川)、忠別ダム(忠別川)、夕張シューパロダム(夕張川)が完成、新桂沢ダム(幾春別川)、三笠ぽんべつダム(奔別川)が計画・施工されている。このうち夕張シューパロダムは大夕張ダム、新桂沢ダムは桂沢ダムのダム再開発事業として施工されており、夕張シューパロダムは北海道最大規模のダムとして2015年(平成27年)完成した。ただし夕張シューパロダム完成に伴い大夕張ダムは水没し、桂沢ダムも新桂沢ダムが完成すれば水没する運命である。石狩川以外では日本第4の大河である天塩川水系で本流に岩尾内ダムが1971年(昭和46年)完成。十勝川水系では電源開発による十勝糠平系電源一貫開発計画により糠平ダム(音更川)などの水力発電事業が先行していたが、1962年(昭和37年)の大水害を契機に十勝川水系の総合開発計画が実施され、本流に十勝ダム、支流札内川に札内川ダムが完成したほか、十勝川中流部の洪水流下阻害要因となっていた千代田堰堤地点の流下能力強化を図るため放水路である千代田新水路と、水路の水位調節を図る千代田分流堰が2006年(平成18年)に完成した。またオホーツク海に注ぐ常呂川では北見市などの治水安全度と上水道供給向上を目的に鹿ノ子ダム(常呂川)が、日高では沙流川流域に二風谷ダム(沙流川)、清流として知られる後志利別川には美利河ダムがそれぞれ完成している。留萌川水系では1988年(昭和63年)の洪水で留萌市全世帯の4分の1が浸水した大水害を契機にダム計画が進められ、支流のチバベリ川に留萌ダムが完成している。施工中のダムとして石狩川水系では新桂沢、三笠ぽんべつの2ダム、天塩川水系では支流名寄川の二次支流であるサンル川にサンルダム、沙流川では支流の額平川に平取ダムがあるが、国土交通省によるダム事業再検証の対象となりその後事業が再開になった経緯がある。またダム事業に対する地元との摩擦については二風谷ダムにおいて萱野茂と貝沢正が起こしたダム建設差し止め訴訟が知られる。ダム建設差し止め自体は却下されたがアイヌ民族の先住性が裁判で認められ、1997年(平成9年)には差別的法律であった北海道旧土人保護法の廃止とアイヌ文化振興法の制定につながった。なお、北海道開発局が管轄する一級河川のうち渚滑川、湧別川、網走川、釧路川、鵡川、尻別川の各水系には直轄ダムが建設されておらず、このうち渚滑川と釧路川は本支流の何れにもダムが全く建設されていない。また石狩川水系の主要支流では雨竜川流域には直轄ダムが建設されていない。北海道開発局において、中止となった直轄ダム事業としては鵡川本流に計画されていた赤岩ダムと、石狩川本流に計画されていた石狩ダムがある。赤岩ダムについては1950年代、鵡川上流にある景勝地・赤岩青巌峡の一番瀬付近に高さ103メートルの重力式コンクリートダムを計画。治水と日高電源一貫開発計画に沿った形での水力発電目的を以って計画が行われていた。完成すれば総貯水容量が3億5,000万立方メートルに達し朱鞠内湖を越える大人造湖が出現するが、トマム・ニニウを含め占冠村の大部分が水没するため占冠村官民挙げて反対運動が巻き起こった。最終的に1961年(昭和36年)に開発局が計画を白紙撤回し、中止された。一方石狩ダムは大雪ダムの前身として、北海道電力との共同事業として1960年代より層雲峡に計画されていた。高さ118.2メートル、総貯水容量1億4,200万立方メートルの中空重力式コンクリートダムとして計画され、完成すれば石狩川水系最大規模の多目的ダムであったが、その後の計画変更により現在の大雪ダム地点にダム計画が移転し、1975年(昭和50年)に現在の規模で完成している。東北地方整備局管内では既設ダム・堰23基、施工中ダム4基の合計27基を直轄管理・施工している。これは全ての地方整備局の中で最多である。また、総貯水容量が1億立方メートルを超える大人造湖を擁するダムが既設・施工併せて8基あり、これもまた地方整備局の中では随一である。ただし東北地方の直轄ダムにおいて、阿賀野川水系と荒川水系にあるダム(大川ダム、横川ダム)については本流河口が新潟県に位置するため、水系一貫管理の観点から北陸地方整備局の管理となっている。なお仙台市などの水源でもある釜房ダム(碁石川)の人造湖である釜房湖は人造湖としては唯一、湖沼水質保全特別措置法(湖沼法)に指定されており、厳重な水質管理が行われている。事業については河川法第17条に基づく兼用工作物として鳴瀬川中流堰(鳴瀬川)が国土交通省と農林水産省の共同事業として建設されている。東北地方は日本でも早期より多目的ダムによる河川総合開発事業が積極的に進められていた。青森県は多目的ダムとして日本最初の施工例となった沖浦ダム(浅瀬石川)や十和田湖の総合開発事業を1938年(昭和13年)より実施。河川総合開発の父である物部長穂の故郷・秋田県も田沢湖・玉川の総合開発を1939年(昭和14年)より実施するなど他の都道府県に先駆けて河川開発を進めていた。当時河川行政を管轄した内務省も1941年より国直轄の河川総合開発を計画し、北上川と名取川が東北では対象とされ田瀬ダム(猿ヶ石川)が直轄ダム日本第一号として施工を開始、さらに田瀬ダムなど5ダムを北上川本支流に建設する北上川五大ダム計画(田瀬、石淵、湯田、四十四田、御所)がこの時成立した。また釜房ダムの計画も進められたが、太平洋戦争により事業は中断した。戦後東北では1947年のカスリーン台風、翌1948年のアイオン台風で北上川や名取川、雄物川などが致命的な水害を引き起こし多数の死者を出した。治水対策が急務となった建設省は北上川と支流の江合川、および鳴瀬川を対象とした河川改訂改修計画を立案しダムによる治水を盛り込む。さらに戦後の食糧・電力不足にも対応するため1950年の国土総合開発法に基づく特定地域総合開発計画が実施され、東北では岩木川・奥入瀬川を対象とした「十和田岩木川」、北上川・鳴瀬川を対象とした「北上」、名取川を対象とした「仙塩」、米代川・雄物川を対象とした「阿仁田沢」、最上川・赤川を対象とした「最上」そして阿賀野川・只見川・信濃川を対象とした「只見」と東北6県全てが特定地域の対象となった。これに基づき北上川五大ダムなど多数の直轄ダムが建設され、一部は所在地方自治体へ管理を移管させた(後述)。さらに東北自動車道や東北新幹線開通などによる人口の増加に伴う治水安全度の低下や水需要の増大、羽越豪雨などの深刻な水害を機に阿武隈川水系や最上川水系で直轄ダム事業が進められ、阿武隈川水系では七ヶ宿ダム(白石川)、三春ダム(大滝根川)、摺上川ダム(摺上川)が、最上川水系では白川ダム(置賜白川)、寒河江ダム(寒河江川)、長井ダム(置賜野川)が、赤川水系に月山ダム(梵字川)が建設された。また、東北の直轄ダムで最も総貯水容量の多い玉川ダム(玉川)は事業の一環として玉川の酸性水を中和する施設を建設、ダム湖を利用して粒状石灰石と中和させることで長年流域住民を苦しめた玉川毒水を大きく改善させた。直轄ダムで施工中のダムは4基あるが、ダム再開発事業として津軽ダム(岩木川)がある。完成すれば直上流にある目屋ダム(岩木川)は水没する。既に浅瀬石川ダム(浅瀬石川)により沖浦ダムが、長井ダムにより管野ダム(置賜野川)が、胆沢ダム(胆沢川)により石淵ダムがそれぞれ湖底に水没した。この他施工中のダムには鳥海ダム(子吉川)、成瀬ダム(成瀬川)があり、何れもダム事業再検証の対象となったが事業再開されている。また筒砂子ダム(筒砂子川)は田川ダムを統合拡大する形で計画された(次節参照)。ダム事業と住民の摩擦については住民軽視の補償交渉が後年批判の的となった石淵ダム補償問題のほか、胆沢ダムと津軽ダムでは石淵・目屋ダムで移転を余儀なくされた住民が、再び移転を余儀なくされる例も現れている。また、度重なる大地震による施設被害も起こり、岩手・宮城内陸地震では石淵ダムの堤体が損傷、東日本大震災では沿岸を襲った大津波が河川を遡上したことで北上大堰(北上川)、阿武隈大堰(阿武隈川)、馬淵大堰(馬淵川)などが被害を受けている。なお、東北の直轄ダムにおける技術的特徴として、石淵ダムはロックフィルダム施工の日本第一号であり、鳴子ダム(江合川)は日本人だけで手掛けられた最初のアーチ式コンクリートダムである。また堰では鳴瀬堰(鳴瀬川)は大河川を堰き止めた最初のゴム引布製起伏堰(ラバーダム)であり、最上川さみだれ大堰(最上川)はゴム引布製起伏堰として日本最大級である。東北地方整備局管内における中止したダム事業は、旧建設省時代を含めると6事業がある。大別すると特定地域総合開発計画において計画され、諸事情で立ち消えになったダムと、1990年代以降の公共事業見直しの中で中止されたダムという二つの要因がある。前者の例では、阿仁田沢特定地域総合開発計画における雄物川河川総合開発計画の中心事業として、鎧畑ダム、皆瀬ダムと共に「雄物川四大ダム」として計画された肴沢ダム(成瀬川)と川井ダム(役内川)がある。肴沢ダムは現在の秋田県雄勝郡東成瀬村肴沢、国道342号肴沢橋付近に建設が予定されていたが諸元は不明。川井ダムは現在の秋田県湯沢市川井、国道108号新川井橋付近に建設が予定されており、完成すれば鎧畑ダムとほぼ同等の規模を有するダムであった。しかし両ダム共1960年代には計画が自然消滅し、その後の雄物川水系における直轄事業としてのダムは玉川ダムと、肴沢ダム地点よりも上流の成瀬ダムが新たに加わった。役内川にはダムは計画されていない。後者の例としては天然湖沼開発の小川原湖総合開発事業がある。同事業は小川原湖より流出する高瀬川と高瀬川放水路に河口堰を建設して小川原湖をダム化し、淡水化することで治水と灌漑、むつ小川原開発地域への上水道と工業用水道供給を目的としていたが、水需要の低下などにより中止された。一方、鳴瀬川水系の総合開発は様々な計画が立てられ、時代の変遷と共に計画内容も変化。その中で複数のダム事業が計画され、また消えていった。北上特定地域総合開発計画の一環として鳴瀬川本流上流部に計画されていた内野ダムは、筒砂子川との合流点直下流に建設が予定されていた。しかし内野ダムは計画が立ち消えになり、暫くはダム計画も行われなかった。その後旧内野ダム予定地より上流に治水ダムを建設する計画が宮城県により立てられ、計画は治水目的に留まらず灌漑、上水道、工業用水道の供給、さらに水力発電目的も加わり国庫の補助を受けて建設される補助多目的ダムとして事業は拡充され1980年に完成した。これが漆沢ダムであり、結果的に内野ダムの目的を引き継ぎかつ強化した形となっている。漆沢ダム完成後も水害や水需要の拡大が続き、建設省は支流である田川に田川第一ダムと田川第二ダムを建設して田川・鳴瀬川の治水と鳴瀬川流域農地への灌漑用水供給、および上水道・工業用水道供給を図る目的で鳴瀬川総合開発事業を1992年(平成4年)より着手した。しかしその後の水需要の変化などで事業が縮小されて田川第二ダムは中止、第一ダムは田川ダムと名称を変更しさらに工業用水道供給目的を廃止。隣接する二ッ石川流域よりバイパストンネルによる洪水導水路を田川ダムに連結して、田川・二ッ石川および鳴瀬川下流域の治水と灌漑・上水道供給目的を以って計画された。しかしダム事業再検証対象となり多くの代替案を検討したところ、同時期に宮城県が補助多目的ダムとして計画しやはり再検証対象となっていた筒砂子ダム計画を大幅に拡張して田川ダムを統合し、合わせて漆沢ダムを治水ダムとして洪水調節目的に特化した方が費用対効果で最適であるという結論に達した。これに伴い田川ダム事業と宮城県補助事業としての筒砂子ダム事業は中止され、直轄事業としての「新」筒砂子ダム事業・漆沢ダム再開発事業を両軸とした鳴瀬川総合開発事業として事業自体は継続になった。関東地方整備局管内では既設14基、施工中1基の合計15基のダムが運用・施工中である。管内には日本最大の河川である利根川が流れている。有史以来洪水と改修を繰り返していた利根川水系において治水目的のダムが計画されたのは1926年、物部長穂による河水統制計画案を国策として採用した内務省内務技監・青山士らが中心となって策定した鬼怒川改修計画における五十里(いかり)ダム(男鹿川)が最初である。1931年(昭和6年)に現在のダム地点より約2.5キロメートル上流地点で工事が開始されたが劣悪な断層が多数露出して中断。太平洋戦争もあって事業は中断したまま戦後を迎えた。1947年関東地方をカスリーン台風が襲い利根川は埼玉県北埼玉郡大利根町(現在の加須市)で堤防を決壊させ、その濁流は東京都江戸川区にまで達し死者・行方不明者1,100名を数える大災害を招いた。内閣経済安定本部の指示を受けた建設省は利根川改訂改修計画を1949年に策定し、ダムによる利根川の洪水調節を目論んだが1950年の国土総合開発法施行により灌漑と水力発電を含めた総合開発計画に拡充。1951年に利根特定地域総合開発計画を策定した。この時計画・施工されたのが先の五十里ダムの他藤原ダム(利根川)、相俣ダム(赤谷川)、薗原ダム(片品川)、八ッ場ダム(吾妻川)、川俣ダム(鬼怒川)、行徳可動堰(江戸川)である。また荒川の治水を主目的に二瀬ダム(荒川)が1961年(昭和36年)完成する。その後利根川水系の河川開発は爆発的な人口増加を示す東京都など首都圏への上水道・工業用水道供給といった利水が主眼となり、利根川水系水資源開発基本計画が1962年策定された。この時建設省が計画していた矢木沢ダム(利根川)、下久保ダム(神流川)、草木ダム(渡良瀬川)などが水資源開発公団(現在の独立行政法人水資源機構)に事業移管された。一方で千葉県・茨城県南部の治水・利水を目的に川治ダム(鬼怒川)と湯西川ダム(湯西川)が建設されたほか、遊水池内を掘削して貯水池を建設し、平野部の治水と利水を図るため渡良瀬遊水地内に渡良瀬貯水池(谷中湖)、荒川第一調節池内に荒川調節池(彩湖)が建設されている。また、日本有数の酸性河川だった吾妻川の中和を図るため実施された世界初の河川中和事業・吾妻川酸性水中和事業の中心施設である品木ダムは群馬県の事業として1965年(昭和40年)完成するが、1968年(昭和43年)に建設省に移管されている。利根川水系以外での直轄ダム事業は横浜市、川崎市、横須賀市といった大都市を抱える神奈川県を流れる相模川水系で実施された。相模川水系では神奈川県により戦前から相模川河水統制事業が進められ、相模ダム(1947年)と城山ダム(1964年)が相模川本流に建設され県の水源となったが人口の増加は2ダムの供給量を凌駕。このため県西部の酒匂川水系も開発され三保ダム(河内川、1978年)が完成するが水需要に対する供給量は三保ダム完成を以ってしても不足していた。このため相模川支流の中津川に建設されたのが関東地方の直轄ダムとして最大規模を誇る宮ヶ瀬ダムである。宮ヶ瀬ダムは相模川の治水に加え相模・城山・三保の各ダムと共に神奈川県全域の水源として、さらに年間延べ訪問者数約157万人を超える神奈川県内有数の観光地として重要な位置を占めている。施工中のダムは八ッ場ダムのみである。八ッ場ダムは1952年に計画が立案され、当初は吾妻川の酸性水対策の目処が立たず、1967年(昭和42年)より本格的な計画が進められたが川原湯温泉水没を伴うため吾妻郡長野原町の猛烈な反対運動により計画が膠着。2001年(平成13年)に補償基準に調印し2020年(平成32年)完成予定で事業が進められている。しかし鳩山由紀夫内閣の前原誠司国土交通大臣(当時)により中止方針が示され再度事業が膠着した。前原の方針に神奈川県を除く関東一都五県の知事や地元長野原町、水没住民は挙って反発し以後迷走を続けたが、野田内閣においてダム事業再検証の結果、事業継続が決定した。だが計画から60年以上経過しても完成しない日本の長期化ダム事業の代名詞的存在となっている。八ッ場ダム以外にも地元との軋轢を生じたダムとして地元の了解無しに工事を強行して深刻な対立を招いた藤原ダムや老神温泉が一部水没することで『東の薗原、西の松原・下筌』とまで形容されるほどの反対運動となった薗原ダムがある。国土交通省によるダム事業再検証では八ッ場ダムと荒川上流ダム再編事業、吾妻川上流総合開発事業(後述)が対象となり、八ッ場は継続、吾妻川上流総合開発と荒川上流ダム再編事業は中止となっている。なお関東地方整備局が管轄する一級河川のうち久慈川、那珂川、多摩川、鶴見川、富士川の各水系には直轄ダムが建設されていない。特に鶴見川水系は都市河川でもあるためダムは本支流含め一つも建設されていない。久慈川、那珂川、富士川水系については支流に茨城県、栃木県、山梨県の各県が補助多目的ダムを建設している。関東地方整備局管内で中止されたダム事業は、旧建設省時代を含めると17事業18ダムに上るが、そのほとんどは利根川・荒川水系で計画されたものである。中止ダムのうち利根川本流の沼田ダム計画は利根川の治水、赤城山・榛名山麓の大規模農地灌漑、東京都への水道供給そして出力130万キロワットの水力発電を目的とし、ダムにより誕生する人造湖は総貯水容量が8億立方メートルと仮に完成していれば日本最大の多目的ダムとなっていた。しかしダムにより群馬県沼田市において2,200世帯が水没し移転を余儀なくされ、多大な犠牲を蒙る沼田市は市議会で建設反対決議を全会一致で可決。さらに神田坤六群馬県知事以下群馬県当局・群馬県議会も建設反対を表明し群馬県が官民一体で反対運動を繰り広げ、最終的に第1次田中角栄内閣の建設大臣であった木村武雄が1972年(昭和47年)に計画中止を表明するまで地元に大きな混乱をもたらした。広地(白砂川)、鳴瀬(温川)、高沼(四万川)、本庄(烏川)、山口(鏑川)、跡倉(南牧川)の6ダムは利根川改訂改修計画や利根特定地域総合開発計画において利根川治水計画の一環で検討されたものの立ち消えとなっており、このうち四万川には四万川ダム、烏川には倉渕ダムが後に完成または施工されている。また利根川改訂改修計画で計画された坂原ダム(神流川)はその後神ヶ原ダム計画を経て下久保ダムとして完成している。一方1990年代以降の公共事業見直しで中止になった事業も多い。関東地方整備局管内では既存の遊水池や天然湖沼などを利用し、ダム化する事業が多く計画されたが渡良瀬貯水池と荒川調節池を除き中止された。茨城県取手市の利根川にある稲戸井調節池内に貯水池を設ける稲戸井調整池総合開発事業、渡良瀬第二遊水地内に貯水池を設ける渡良瀬第二貯水池事業、さいたま市の荒川第二調節池に貯水池を設ける荒川第二調節池総合開発事業、印旛沼を掘削して貯水容量を増大させる印旛沼総合開発事業がこれに当たる。また行徳可動堰と江戸川水閘門(旧江戸川)直上流に新しい堰と水門を建設し江戸川の治水と利水を強化する江戸川総合開発事業、相俣ダム上流に高さ160メートルと関東の直轄ダムでは最も高いダムを建設して利根川の治水と首都圏への利水強化を目的とした川古ダム計画も中止された。ダム事業再検証で中止が決定された事業としては万座ダム(万座川)の新規建設と品木ダムの嵩上げ、中和処理施設改築を柱とする吾妻川上流総合開発事業と、新大洞ダム(大洞川)建設・二瀬ダム再開発または二瀬・滝沢・浦山3ダムの貯水容量再配分の何れか、もしくは複数を組み合わせて荒川の治水安全度向上を図ることを目的とした荒川上流ダム再編事業がある。利根川・荒川水系以外では山梨県南部を流れる富士川支流の早川に計画されていた角瀬ダムが1950年代に中止されている。完成すれば富士川水系最大規模の多目的ダムとなるが、計画を検討したところダムを建設するだけの費用対効果が得られないという結論に達し、事業は調査段階で中止となった。北陸地方整備局管内では、既設ダム・堰が12基、施工中ダム1基の計13基が存在する。日本最長の河川・信濃川を始め阿賀野川、荒川の各水系を一貫管理する関係上、本来は東北地方整備局管内である山形県の横川ダム(横川)、福島県の大川ダム(阿賀野川)や中部地方整備局管内である長野県の大町ダム(高瀬川)は北陸地方整備局管理の直轄ダムである。反面北陸地方でも福井県を流域に持つ九頭竜川水系と北川水系は、近畿地方整備局の管轄となっている。事業形態としては河川法第17条における兼用工作物規定に基づき、管内最大規模の直轄ダムである手取川ダム(手取川)は電源開発、北陸電力、石川県との共同事業で建設され(後述)現在は電源開発との共同管理である。また新潟県長岡市に建設された妙見堰(信濃川)は治水目的のほか国道17号バイパス(越の大橋)としての渋滞緩和、東日本旅客鉄道(JR東日本)の小千谷・新小千谷発電所の放流水均等化(逆調整)目的も有することから、旧建設省の河川管理部局と道路管理部局および東日本旅客鉄道の三者による共同事業として建設されている。北陸地方を流域に持つ河川は融雪による豊富な水量、北アルプスや三国山脈といった急峻な山岳地帯を流れるため急流かつ高落差であるという水力発電の好条件を備える河川が多く、大正時代から水力発電事業が各河川で盛んに実施された。だが水力発電に適した河川は大雨が降れば容易に洪水を引き起こし、信濃川の戌の満水や横田切れなど流域に甚大な被害を与える水害を度々もたらしていた。こうした中で実施された国直轄の河川事業で早期に行われたものとして信濃川大河津分水事業が挙げられる。享保年間より構想された分水計画は1896年(明治22年)7月22日の横田切れを機に急速に進められ、放水路である大河津分水(新信濃川)と信濃川の流量を調節する大河津洗堰が1922年(大正11年)完成する。しかし1927年(昭和2年)の洪水で分水側の堰が破壊されたことから、1931年(昭和6年)大河津可動堰が完成し分水本来の目的が強化された。しかし完成から70年以上経過して老朽化が著しく、治水安全上施設を改良する必要性が生じた。このため2000年(平成12年)に大河津洗堰が改築され、続いて大河津可動堰の改築が2014年(平成26年)にそれぞれ実施された。何れも旧堰地点とは別に新堰を建設し、旧堰の機能を継承・向上させる目的である。戦後、国土総合開発法に基づく特定地域総合開発計画のうち、北陸地方の河川に関連するものとしては只見川を中心とした阿賀野川、信濃川水系が対象の只見特定地域総合開発計画、神通川、常願寺川、庄川水系を対象とした飛越特定地域総合開発計画があるが、何れも主目的は電力会社が事業主体の水力発電であり治水は常願寺川の砂防事業程度であった。活発な水力発電開発により黒部ダム(黒部川)を筆頭に日本屈指の規模を持つダムが多く建設されたが、他地域で盛んに実施されていた河川総合開発事業に基づく治水が主目的の多目的ダム事業は一級河川では富山県が神通川水系の支流で実施した程度であった。しかし1967年(昭和42年)に新潟県下越地方・山形県置賜地方を襲った羽越豪雨は特に荒川流域に致命的な被害を与え、1969年(昭和44年)8月の前線による集中豪雨は信濃川・黒部川流域に大きな被害をもたらした。これら水害を機に新たな河川整備が計画され、荒川では二級河川だった河川等級を1968年(昭和43年)に一級河川に昇格させ大石(大石川)・横川ダムが、信濃川水系では関屋分水・蒲原大堰(信濃川)などといった下流部治水事業に加え支流魚野川流域に三国川(さぐりがわ)ダム(三国川)と犀川流域に大町ダムが建設され、水力発電専用ダムしか存在しなかった黒部川水系にも宇奈月ダム(黒部川)が建設された。一方石川県最大の河川・手取川では手取川ダムを巡り旧建設省の治水事業、電源開発・北陸電力の水力発電事業、石川県による水道事業が競合していたが一本化され、河川法第17条に基づき四事業者の共同事業による手取川総合開発事業として1979年(昭和54年)完成した。施工中の事業としては利賀ダム(利賀川)がある。利賀ダムは庄川水系における初の特定多目的ダムとして計画されているが、国土交通省によるダム事業再検証の対象となっている。一方、北陸地方整備局におけるダム事業の技術的特色として宇奈月ダムは関西電力の出し平ダムと連携してダム管理上の宿敵である堆砂(たいしゃ)を海に流す連携排砂事業を実施している。しかし宇奈月ダム完成前の1991年(平成3年)に出し平ダムが単独で実施した第1回排砂に対し、富山湾の漁業関係者の一部が排砂による漁業被害を理由に排砂の中止を求めて起こした黒部川ダム排砂被害訴訟が起こり、第一審の富山地方裁判所判決では排砂とワカメ被害の因果関係を認め被告の関西電力に賠償を支払う判決が下されたが原告・被告双方が控訴。最終的に「海中での被害立証は困難」とする名古屋高等裁判所金沢支部が和解を提案、2011年4月に両者の和解が成立した。本訴訟に宇奈月ダムは直接の関係は無いが、連携排砂と環境保護の両立は先の見えない状況が続いている。なお、北陸地方の一級河川では関川、姫川、常願寺川、神通川、梯川の各水系で直轄ダムが建設されておらず、特に姫川水系には本支流の何れにもダムが建設されていない。常願寺川は砂防事業が治水事業の根幹であり、支流を含め治水目的のダムは建設されていない。神通川・梯川水系は富山・石川・岐阜県により治水目的を有する補助多目的ダム・補助治水ダムが建設されているが、関川水系の笹ヶ峰ダム(関川)は治水目的を持たない多目的ダムである。北陸地方整備局管内で中止したダム事業は旧建設省時代を含めると4ダム事業があり、信濃川水系と阿賀野川水系で中止事業が存在する。信濃川水系では1964年に構想が発表され1985年(昭和60年)に予備調査が開始された信濃川本流の千曲川上流ダム計画と、1974年(昭和49年)3月の信濃川水系工事実施基本計画で三国川、大町ダムと共に計画され1984年(昭和59年)に事業が着手された清津川ダム計画(清津川)がある。両ダムとも大規模な特定多目的ダムであり、仮に完成すれば千曲川上流ダムは長野県最大、清津川ダムは新潟県最大の多目的ダムとなる。しかし千曲川上流ダムでは南佐久郡南牧村主要部と川上村で250戸が水没し、さらにJR小海線や国道141号が水没するなど地域に大打撃を与えるとして両村が反対、参議院に請願書を提出するなど抵抗した。また清津川ダムも南魚沼郡湯沢町などで110戸が水没、さらに上信越高原国立公園・名勝・国の天然記念物に指定されている清津峡が水没することで強い反対が起こり、当時の中魚沼郡中里村(現在の十日町市)議会も反対に回るなど流域間で対立を招いた。最終的に千曲川上流ダム・清津川ダムは両方共2002年(平成14年)に事業中止が決定する。しかしダム建設に反対していた地元住民は中止後の生活再建に対し国のみならず、ダム事業に反対していた政党や市民団体、旧中里村が何ら手を差し伸べないことを批判している。治水目的のダムは千曲川上流・清津川に限らず信濃川水系では田中康夫長野県知事(当時)による「脱ダム宣言」以降多くのダムが中止された。しかし平成16年7月新潟・福島豪雨(2004年)や平成23年7月新潟・福島豪雨(2011年)など信濃川水系は水害による被害を受け続けており、治水事業は途上である。また平成18年7月豪雨では大町ダムと犀川流域の発電用5ダム(奈川渡、水殿、稲核、高瀬、七倉)の連携洪水調節で、犀川の氾濫が抑制されている。阿賀野川水系では只見川支流の伊南川に計画していた大桃ダムが中止されている。只見川流域唯一の治水目的を持つダムで、只見特定地域総合開発計画で計画された内川ダム計画中止後の伊南川流域における水力発電目的を有していたが、計画自体が立ち消えとなった。これにより奥只見ダム(只見川)を筆頭に多数のダムが建設されている只見川は、治水を目的とするダムが現在一つも存在しない。一方日橋川上流総合開発事業は、天然湖沼である猪苗代湖周辺地域の治水安全度向上を図るため、日橋川流出口にある十六橋水門を改築することで猪苗代湖に新規の治水容量を確保、同時に複数の事業者に分散している猪苗代湖の水利権を河川管理者である国が一括管理することを主目的とした事業であるが、公共事業見直しにより中止されている。なお、猪苗代湖自体は日橋川上流総合開発中止後2005年(平成17年)より福島県が河川管理者として湖を管理し、現状の十六橋水門を利用した多目的ダムとして運用している。中部地方整備局管内では既設ダム・堰7基、工事中・再開発中ダム6基の13基を直轄管理・施工している。ただし、河川法第17条の兼用工作物として丸山ダム(木曽川)は関西電力と、新豊根ダム(大入川)は電源開発と、櫛田川可動堰(櫛田川)は三重県との共同事業として建設されている。また、中部地方を流れる河川のうち富士川水系は関東地方整備局、信濃川水系、神通川水系、庄川水系は北陸地方整備局が管理する河川である。管内を流れる木曽川水系、大井川水系、天竜川水系、矢作川水系は北陸地方の河川と同様に水力発電に適した河川として、大正時代から福澤桃介や松永安左エ門などにより大井ダム(木曽川)などの水力発電用ダムが建設され、治水は木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の分流工事など堤防整備を中心とした改修が行われていた。しかし戦後の水害頻発や食糧・電力不足を補う必要が生じたため多目的ダムによる河川開発が木曽川水系と天竜川水系で計画され、それぞれ木曽特定地域総合開発計画、天竜東三河特定地域総合開発計画として1951年閣議決定されて本流・支流に多数の多目的ダムが計画された。直轄ダムとしては木曽川水系において日本発送電が施工し関西電力に継承された丸山ダムが治水目的を加えた多目的ダムとして1955年(昭和30年)に完成。天竜川水系では特定多目的ダム法指定第一号の直轄ダムとして美和ダム(三峰川)が1957年(昭和32年)に完成した。その後1959年(昭和34年)9月の伊勢湾台風や1961年(昭和36年)の昭和36年梅雨前線豪雨(三六災害)による管内河川の洪水被害を受け木曽川、矢作川、天竜川の各水系で多目的ダムが計画され、横山ダム(揖斐川)、矢作ダム(矢作川)、小渋ダム(小渋川)が建設された。中部地方については名古屋市を中心とした中京圏の人口増加、古くから穀倉地帯である濃尾平野の農業生産力向上と知多半島、渥美半島、三方原台地、牧之原台地など慢性的な水不足地域への水供給、さらに中京工業地帯の拡充による利水需要の増大が戦前・戦後を通じ表面化。愛知用水(1961年)や豊川用水(1963年)などの完成により水需要は改善したものの東名高速道路や東海道新幹線の開通は人口の増加に拍車を掛け、水不足は容易に解決しなかった。このため1965年(昭和40年)に木曽川水系が水資源開発促進法の対象河川として水資源開発公団(現在の独立行政法人水資源機構)の開発河川に指定され、同法に基づく木曽川水系水資源開発基本計画により建設省が計画していた徳山ダム(揖斐川)、岩屋ダム(馬瀬川)、阿木川ダム(阿木川)は公団へ事業が移管された。このほか中部電力による水力発電事業が先行していた大井川水系では島田市、掛川市など大井川流域市町村への治水・利水を目的に流域唯一の多目的ダムとして長島ダム(大井川)が2001年(平成13年)に完成。名古屋市を貫流する庄内川水系では下流域の都市化により堤防建設や川幅拡張が極めて困難な状況になったことからダムによる治水が計画され、支流の小里(おり)川に小里川ダムが2003年(平成15年)完成している。櫛田川では1969年(昭和44年)に三重県が従来建設していた農業用の固定堰を改築して治水目的を加えた櫛田川可動堰が完成、さらに1991年(平成3年)には水系唯一の多目的ダムである蓮(はちす)ダムが支流の蓮川に完成。三重県中南部のみならず離島である神島の水需要に貢献している。管内における施工中のダムは6基あるが、このうちダム再開発事業が5ダム存在する。天竜川水系の美和、小渋ダムは流域が南アルプスに属しているが南アルプスは脆弱な地質が原因で絶えず崩壊しており、崩壊による大量の土砂がダム湖に流入して深刻な堆砂を招いていた。このため堆砂を防除してダム機能を維持するためのバイパストンネル建設を軸にした再開発事業が現在進められている。また天竜川最大にして日本屈指のダムである佐久間ダム(天竜川)は天竜川下流の治水強化とダム機能維持を目的として2004年(平成16年)より佐久間ダム再開発事業(天竜川ダム再編事業)が計画されており、完成すれば佐久間ダムは従来の水力発電目的単独から洪水調節目的が加わり多目的ダムとなる。一方木曽川本流の丸山ダム再開発は1983年(昭和58年)の豪雨で木曽川が美濃加茂市で氾濫し、丸山ダムの治水機能向上が不可避となったことから日本国内では最大となる24.3メートルのダム嵩上げをして治水容量を旧ダムの3.5倍に拡張する新丸山ダムがある。また新規ダム事業としては慢性的な水不足が頻発する豊橋市など愛知県東部の水がめおよび治水ダムがない豊川水系の治水を目的にした設楽ダム(豊川)があり、新丸山と設楽の両ダムはダム事業再検証対象となったが事業継続が決まっている。なお、管内の一級河川において狩野川、安倍川、菊川、鈴鹿川、雲出川、宮川の各水系には直轄ダムが建設されておらず、このうち狩野川と安倍川には本支流を含めダムが全く建設されていない。ただし狩野川については狩野川台風による甚大な被害を契機に狩野川放水路が建設されている。雲出川と宮川については三重県により君ヶ野ダム(雲出川水系八手俣川)、宮川ダム(宮川)といった補助多目的ダムが完成。鈴鹿川には支流に利水専用ダム(加佐登調整池)が建設されている。中部地方整備局管内における中止したダム事業は旧建設省時代を含め16ダムあるが、その大半は木曽川水系におけるものである。木曽川水系では木曽特定地域総合開発計画において、木曽川の丸山ダムを始め多数の多目的ダムが計画されたが、木曽三川のほか流域面積では木曽川水系最大の支流である飛騨川流域において河川総合開発が計画されていた。当時飛騨川は中部電力による飛騨川流域一貫開発計画に基づく水力発電事業が積極的に実施されていたが、木曽特定地域総合開発計画により建設省が新たにダム計画を定めていた。飛騨川本流の久田見ダムをはじめ支流に大規模な多目的ダムを建設するほか、中部電力が施工していた朝日ダム(飛騨川)を丸山ダムと同様に多目的ダム化する計画も存在していた。また揖斐川流域(揖斐川、根尾川、牧田川)にも横山ダム以外にダムを建設するほか、長良川支流の板取川にも大規模ダムを建設。さらに木曽川本流中流部の愛知県犬山市に犬山ダムを建設するのが当初の計画だった。しかし計画は変更されて揖斐川・長良川流域のダム計画は横山ダムを除き中止され、飛騨川のダム計画も久田見、岩屋、岩瀬3ダムに縮小された。代わりに信濃川水系との導水計画が加わって木曽川最上流部に薮原ダムが計画され、信濃川水系奈良井川との間にトンネルを建設して導水する予定であった。だがこれらの計画も変更されほとんどのダム計画が立ち消えとなり、最終的に完成したのは丸山、横山および二子持ダム計画から治水目的を除き愛知用水の水源とした牧尾ダムの3ダムである。なお中止したダム計画のうち幾つかは、その後別なダム事業として事実上の前身となる例があった。その例として薮原ダム地点に味噌川ダム、東杉原ダム地点に徳山ダムが建設され、岩屋ダムは1969年に旧計画を大幅に凌駕する大規模ダム計画として復活した。また根尾ダム地点付近には中部電力により1995年(平成7年)、奥美濃揚水発電所の下部調整池・上大須ダム(根尾東谷川)が建設されている。一方1990年代の公共事業見直しにより中止した事業としては矢作川水系の2ダムがある。矢作川本流に1971年(昭和46年)より計画された矢作川河口堰は矢作川河口より1.7キロメートル上流に計画され、矢作川河口部の治水と衣浦臨海工業地域への工業用水道供給を目的としていたが、水道事業者である愛知県が水利権を返上して事業から撤退し事業継続の必要性が低下、2000年(平成12年)に事業が中止された。また支流上村川に計画されていた上矢作ダムは東海豪雨による矢作川・上村川流域の被害が甚大であったものの、費用対効果と迅速な治水事業の進捗という観点で矢作ダムの有効活用と河川改修を重点に置くという矢作川水系河川整備基本方針の策定を受け、2009年(平成21年)に事業は見送りとなり鳩山由紀夫内閣の前原誠司国土交通大臣によるダム事業見直しで中止が決定した。天竜川水系では戸草ダム(三峰川)があり、2001年に当時の長野県知事である田中康夫が利水事業からの撤退を表明、2008年(平成20年)には国土交通省が事業中止を表明したものの伊那市など地元の反発により中止を撤回した経緯があるが、2012年(平成24年)7月に行われた事業再検証の結果、多目的ダムとしての戸草ダム事業は中止し、治水ダムとして再度計画を検討する方向性となった。近畿地方整備局管内では管理中ダム10基(取水ダム含む)、施工・ダム再開発事業中3基の計13基を管理・施工している。ただし河川法第17条の兼用工作物として管内最大の直轄ダムである九頭竜ダム(九頭竜川)は電源開発と、淀川大堰(淀川)は水資源開発公団(現在の独立行政法人水資源機構)との共同事業として建設されている。管内に大阪市、京都市、神戸市などの大都市と西日本最大の河川・淀川を擁する関係上、淀川水系の河川開発は最重要であった。古くは行基の頃より手掛けられた淀川の治水は1900年(明治33年)より実施された淀川改良工事で新淀川開削のほか琵琶湖の水位を調整する南郷洗堰(淀川)が建設され、さらに琵琶湖河水統制事業が1943年(昭和18年)より実施されて治水のほか水力発電、灌漑を目的に1952年(昭和27年)完成する。ところが1953年(昭和28年)台風13号が淀川、由良川に過去最悪となる水害を起こし、根本的な河川改修が求められた。この結果淀川水系改修基本計画が定められ淀川本流に天ヶ瀬ダムが建設されたほか瀬田川洗堰(淀川)の改築、木津川や桂川といった大支流に多目的ダムを建設する計画が立案された。その後淀川水系の河川開発は大阪市など関西圏の人口増加や阪神工業地帯の拡充による水道需要の急増に伴い、水資源開発に重点が移ったことから1962年(昭和37年)に水資源開発促進法に拠る淀川水系水資源開発基本計画が策定され、旧建設省が計画していた高山ダム(名張川)は水資源開発公団に事業を移管させた。以後、淀川水系の多目的ダム事業は水資源開発公団が主体で行い、青蓮寺(青蓮寺川)、室生(宇陀川)、一庫(一庫大路次川)、布目(布目川)、比奈知(名張川)、日吉(桂川)の各ダムが建設された。また1972年(昭和47年)琵琶湖総合開発特別措置法制定により建設省・水資源開発公団・滋賀県および琵琶湖沿岸市町村が一体的に参加した琵琶湖総合開発事業が実施され、琵琶湖の多目的ダム化が図られた。これに関連し1971年(昭和46年)の淀川水系工事実施基本計画に伴い、琵琶湖に関連する河川での多目的ダム事業が計画され、丹生ダム(高時川)や大戸川ダム(大戸川)が計画された。淀川と同時期に総合開発が実施された河川としては紀の川がある。紀の川の水を奈良盆地へ導水する吉野川分水計画は奈良県300年来の悲願であったが、水利権を巡る下流の和歌山県との対立は激化し単独での事業遂行は不可能だった。戦後1949年(昭和24年)に農林省(現在の農林水産省)主導による十津川・紀の川総合開発計画で新宮川(熊野川)の水を紀の川へ導水、さらに紀の川の水を奈良盆地に導水して奈良・和歌山両県の水需要を満たす計画が立案。同事業は1950年(昭和25年)の国土総合開発法に基づく吉野熊野特定地域総合開発計画に組み入れられ、新宮川・紀の川間導水の要である猿谷ダム(熊野川)を皮切りに農林省直轄ダムとして大迫(紀の川)、津風呂(津風呂川)、山田(野田原川)の各ダムが完成し奈良県の悲願である吉野川分水が達成された。ところが1959年(昭和34年)の伊勢湾台風で紀の川流域は水害による大きな被害を受け、治水目的の多目的ダム建設が急務となり紀の川本流に大滝ダムが計画されることになる。このほか九頭竜川水系は九頭竜ダムを核にした電源開発と北陸電力による奥越電源開発計画が競合していたが、伊勢湾台風や第二室戸台風による九頭竜川の洪水を機に建設省が九頭竜ダム計画に参入。電源開発との共同事業で1968年(昭和43年)に完成させるが、1965年(昭和40年)9月の奥越豪雨は笹生川ダム(真名川)の治水機能を喪失させ、当時の大野郡西谷村(現在の大野市)に壊滅的被害を与えた。このため支流真名川の総合開発も計画され1977年(昭和52年)真名川ダムが完成する。その後九頭竜川中流部の治水・利水を目的に九頭竜川鳴鹿大堰(九頭竜川)が完成し、福井市などへの利水も強化された。こうした中発生した2004年(平成16年)の平成16年7月福井豪雨において、真名川流域では真名川ダムの洪水調節で下流域への洪水被害をほぼ皆無に抑えた反面、強固な反対運動で足羽川ダム事業が凍結していた足羽川流域では福井市内で堤防が決壊するなど死者を出す大きな被害を生じ、同じ降水量にも関わらず対照的な結果をもたらした。福井豪雨以後ダム建設再開要望が福井市など流域市町村より高まり、穴あきダムとして足羽川支流の部子川に建設する新ダム計画となった。前原誠司国土交通大臣(当時)はダム事業再検証対象としたが、2012年(平成24年)にダムは事業継続となる。加古川水系は農林水産省による広域農業水利事業により鴨川ダム(鴨川)、呑吐(どんど)ダム(志染川)など農林水産省直轄ダムが支流に建設されていたが、治水・利水を目的として水系初の直轄ダムである加古川大堰(加古川)が1988年(昭和63年)に完成した。管内におけるダム事業と移転住民の摩擦では大滝ダムが特に知られる。1962年(昭和37年)より計画に着手したが吉野郡川上村で399戸487世帯が移転対象となり激しい反対運動が繰り広げられ、さらに試験的に貯水を行う試験湛水中に川上村白屋地区で地すべりが発生。対策工事などで運用を開始するまで51年を費やし、完成した日本のダムにおいて施工期間が最も長い日本の長期化ダム事業の代表格となった。また建設省が施工し京都府に管理が移管された大野ダム(由良川)は蜷川虎三京都府知事(当時)の奔走により補償交渉が妥結するという状況であった。一方で水没戸数が大野郡和泉村(現在の大野市)で529戸と大滝ダムを上回る規模の九頭竜ダムでは、施工を担当した電源開発が「補償交渉終了まで工事は実施しない」という方針を打ち出し、大滝ダムとは対照的にわずか2年で補償交渉を妥結に導いた。この原則は「九頭竜補償方式」と名づけられ以後電源開発によるダム事業の大原則となる。そして2005年(平成17年)に国土交通省の諮問機関である淀川水系流域委員会が答申した計画5ダム(丹生、大戸川、余野川、川上、天ヶ瀬ダム再開発)の事業中止答申は流域自治体に大きな影響を与え、国土交通省は一旦5事業を中止する意向を示したものの流域自治体が反発。その後嘉田由紀子滋賀県知事によるダム事業見直し政策などで状況は二転三転し淀川水系の河川開発は混乱を来たした。現在5ダムのうち余野川が中止(後述)、丹生・大戸川・川上は国土交通省によるダム事業再検証の対象、天ヶ瀬ダム再開発事業のみ再検証対象外として事業が継続している。また関西国際空港関連事業として大阪府が水利権を有していた紀の川大堰(紀の川)では、当時の橋下徹大阪府知事が2009年(平成21年)に水利権を返上している。なお、管内における一級河川のうち北川、円山川、揖保川、大和川水系には直轄ダムが建設されていない。大和川を除く3水系は本流にダムが建設されていないが、支流に補助多目的ダムが福井県や兵庫県、奈良県により建設、施工されている。また淀川水系の主要な支流のうち、木津川本流にはダムが建設されていない。ダム管理上の新たな問題点として天ヶ瀬ダムでは自殺者が急増したことにより一時緊急的にダムの立入を禁止し、現在はダムの夜間訪問が禁止されている。自殺防止対策として飛び降り防止柵や青色照明灯を導入するなどの対策により、2011年(平成23年)度における自殺者はゼロとなっている。近畿地方整備局管内における中止したダム事業は、旧内務省・旧建設省時代を含め11事業に上る。日本における最初期の直轄ダム事業として計画された猪名川ダム(猪名川)は太平洋戦争の激化により事業が中断され、戦後も再開されることはなかった。猪名川流域における多目的ダム事業は1968年(昭和43年)の一庫ダム着工まで行われなかったが、猪名川支流の余野川に余野川ダムが1980年より計画された。これは猪名川流域の洪水調節と上水道供給に加え、深刻な水質汚濁が慢性的に続く猪名川の水質改善を目的にダムより河川維持放流を行い、下流に設けられる河川浄化施設と連携することで猪名川の水質を改善させる計画であった。しかし2005年の淀川水系流域委員会答申で余野川ダムの中止が勧奨され、2008年には中止方針が決定された。一方、吉野熊野特定地域総合開発計画の中で旧建設省は、新宮川水系において十津川・紀の川総合開発計画とは別個に熊野川総合開発計画を立案。本流筋に3箇所、支流北山川筋に4箇所の多目的ダムを建設し、治水、灌漑および水力発電を行う計画を検討した。ところが詳細な計画立案を行ったところ事業費約450億円(当時の額)に対し完成後の効果がわずかであり、費用対効果に著しく欠けることが判明。1953年9月に建設省は調査事務所を閉鎖して熊野川総合開発計画とそれに基づくダム計画は全て白紙となった。しかし水力発電単独目的であれば採算性が取れることから電源開発が同計画を発電単独目的に修正した熊野川開発全体計画として1954年7月より事業に着手した。現在新宮川水系にある風屋ダム(熊野川)、二津野ダム(熊野川)、池原ダム(北山川)、七色ダム(北山川)、小森ダム(北山川)、坂本ダム(東ノ川)は何れも熊野川総合開発計画に基づき計画されたダム群の後身である。紀の川水系では和歌山県橋本市と伊都郡九度山町を流れる支流の紀伊丹生川に建設が計画されていた紀伊丹生川ダムが中止されている。治水および大阪府、和歌山市などへの利水を目的に高さ145メートルの巨大ダムが1989年(平成元年)より計画されたが景勝地の玉川峡が水没することで反対運動が強く、その後水道事業者の大阪府、和歌山市などがダム事業から撤退し費用対効果で事業の継続が困難になったことから2002年(平成14年)に中止されている。中国地方整備局管内では既設ダム・堰16基を直轄管理している。ただし河川法第17条の兼用工作物規定に基づき、坂根堰(吉井川)は農林水産省、および水道事業者の代理人である岡山県との共同事業として建設されている。中国地方の河川総合開発は日本全国に先駆け山口県が、青森県とほぼ同時に開始した。県東部を流れる錦川に1940年(昭和15年)、日本最初の多目的ダムである向道ダムが本流上流部に建設され、続いて厚東川ダム(厚東川)や木屋川ダム(木屋川)が施工された。終戦後には岡山県も岡山三大河川の一つで県都・岡山市を貫流する旭川の総合開発に着手

出典:wikipedia

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