依田 信蕃(よだ のぶしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐武田氏、徳川氏の家臣。はじめ武田信玄に信濃先方衆として仕え、信玄の死後は引き続き勝頼に仕えた。永禄11年(1568年)12月、武田氏の駿河侵攻で駿府に乱入した軍勢の中に信蕃の名も見える。天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いの時期には遠江国二俣城(静岡県浜松市天竜区)の守将を務めた父・芦田信守と共に、信蕃兄弟も籠城し抵抗した。長篠の戦いで武田軍が大敗し徳川家康率いる徳川軍が反攻して来ると、僅かな手勢で堅固に守った。この間に病床にあった信守は死去する。信蕃が守将となり籠城が続行された。徳川方は攻めあぐね、城の周囲に複数の砦を築き、兵糧攻めにするしかできなかった。実に半年にも亘った攻防の末、結局力攻めでは落せないと判断した徳川方の申入れにより、全員の助命を条件に開城、高天神城(静岡県掛川市)に退去した。退去の際、城内を清掃したのち、整然と退去したとされている。後に駿河国田中城(静岡県藤枝市西益津)の城将となった。天正10年(1582年)3月、織田信長による甲州征伐が始まると、信長に呼応した徳川家康に田中城を攻められたが、またしても堅固に備えを立てて落城の気配も見せなかった。攻めあぐねた家康は成瀬正一に命じて開城の説得に当たらせるが、信蕃はこれを拒絶。さらに籠城を続けるうちに織田軍の攻撃で武田勝頼が自害し、その一族である穴山梅雪からの開城を勧める書簡を受けてから、ようやく大久保忠世に引き渡している。田中城開城後、家康より召抱えの要請を受けるが、「勝頼の安否の詳細が判らない内は仰せに従いかねる」と答えこれを謝絶。自領の春日城(長野県佐久市春日)へ帰還した。同年6月2日、本能寺の変が起こり、北条氏直との戦い(神流川の戦い)に敗れた滝川一益が同20日に家臣・道家正栄の守る小諸城(長野県小諸市)に入ると、同22日に信蕃は滝川一益と対面し佐久・小県郡の人質を集め、一益に引き渡した。この人質には嫡子依田康国や真田昌幸の老母が含まれていたという。一益は同27日に小諸城を信蕃に明け渡して旅立ち、28日には諏訪から木曽谷に入り、当初の約定通り佐久・小県郡の人質を木曽義昌にゆだね、7月1日に伊勢長島に帰還した。同年9月17日、佐久・小県郡の人質は、木曽義昌から徳川家康に引き渡された。7月12日、碓氷峠を越えて北条氏直の兵が進出すると信蕃はこれに抗し小諸城を放棄し、「蘆田小屋」へ退いて籠城した。「蘆田小屋」については『依田記』では三澤小屋の別称としているが、『乙骨太郎左衛門覚書』や『武徳編年集成』では両者を別の城砦とし、三澤小屋は蘆田小屋の詰城であるとも考えられている。また、「蘆田小屋」の由来は依田(蘆田)信蕃が籠城したことに由来するとする説もあり、場所については蘆田小屋は春日城を指すと考えられており、三澤小屋はさらに蓼科山に近い山奥に所在し、鹿曲川上流の大小屋城(押出城)を指すとする伝承があるほか、同じく鹿曲川上流の大滝不動・石不動が所在する「三澤」と呼ばれる一帯の白石付近を指すとする説がある。信蕃は同所でゲリラ戦を展開し、甲斐国若神子(山梨県北杜市須玉町若神子)まで進出していた北条軍の補給線を寸断した。また信蕃は徳川家康と連絡を密にしており、甲斐衆を主体とした家康の援軍が7月14日(芝田康忠、辻弥兵衛)、9月25日に岡部正綱、今福求助、三井十右衛門、川窪信俊等が三澤小屋に到着している。同28日、信蕃はそれまで北条方であった真田昌幸を調略、翌10月26日には春日城を奪還している。加えて郡内地方において北条軍が徳川軍に敗北したことにより、戦力的には劣勢な徳川に有利な条件で後北条氏との講和が10月29日に成立した。これらの功績により信蕃は北条方の大道寺政繁が撤退した後の小諸城も任され、周辺の勢力が続々と信蕃の下に集ってきたが、これを好しとしない勢力は、北条方の信濃佐久郡・岩尾城主の大井氏の下に集まった。『依田記』『三河物語』によれば、天正11年(1583年)2月21日、岩尾城の大井行吉を攻略しようとするが、即座に落とせると考えた信蕃の意に反し、予想外の抵抗に遭い苦戦する。2月22日、実弟の信幸とともに敵の銃撃を受ける。信幸は同日に死去し、信蕃は2月23日に死去した。享年36。後に長男の松平(依田)康国が整備した蕃松院が墓所となる。同寺に信蕃の位牌と、信蕃夫妻の墓所とされる墓石塔が残る。家康に属した期間は短いものだったが、家康の信蕃に対する評価が非常に高いものだったことは、家督を継いだ遺児・康国に松平姓と小諸城、そして当時の家康家臣としては最大級の6万石という大領だったことからも推測される。
出典:wikipedia
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