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東二番丁通り

東二番丁通り(ひがしにばんちょうどおり)は、宮城県仙台市青葉区を南北に走る道路であり、全区間が国道286号に指定されている(勾当台公園前交差点と広瀬通り交差点の間は国道48号と重複する。)。愛宕上杉通りとの分岐点(旧市立病院前交差点)から北に延び、定禅寺通りとの交点(勾当台公園前)に到る。この交差点より北は、勾当台通(宮城県道22号仙台泉線)となる。1601年1月12日(慶長5年12月24日)から元和年間までにおける仙台藩祖・伊達政宗による仙台城下町の建設時に新設された道である。北端が定禅寺通り、南端が五橋通りで共に丁字路で終わる道であり()、片側の路肩に四ツ谷用水の支流が流れていた。このときは、現在宮城県庁舎や錦町公園などがある仙台上町段丘と、それより低い仙台中町段丘との間にある、南西方向に凸の弧状を呈する段丘崖沿いが城下町の概ねの北東端にあたり、上町段丘面には寺社地が設置された。中町段丘面には、段丘崖下の南側に接線状に元寺小路が造られ、門前町の町人町が設置された。同西側にも接線状に東三番丁が造られ、東三番丁と同じ南北軸に対する傾きで東二番丁から東五番丁までが平行に建設されて、侍町が設置された。東一番丁より西側の各南北道が奥州街道と平行にほぼ南北に通じさせた一方、東二番丁から東五番丁までが段丘崖に沿って北西から南東に南北軸に対して傾きを持って通したことにより、城下町北部の現勾当台地区と南東部の六道の辻・五橋周辺に道が集約し、完全な碁盤目型ではない形となった。第二次世界大戦後の占領期には、仙台に進駐した連合国軍(主に米軍)が "Fargo Avenue" と呼んでいたが、市民一般には浸透しなかった。戦後復興期には仙台市復興局により戦災復興事業が行われ、東二番丁は幅員8mから50mに拡幅された。このとき、両側に歩道は9mずつ設け、また、側方分離帯も3mずつ両側に設けられた。車道は中央の15m幅に片側2車線ずつと、側方分離帯と歩道との間に5.5m幅の停車帯および低速車線を両側に設置した。このような広幅員の道路が設置されたのは、将来の交通量を考慮したこともあるが、当時はまだ木造住宅が多かった市街地での防火帯と災害時の避難場所確保、さらに、戦災で失われた緑を復活させて杜の都を復興する目的があり、側方分離帯と歩道には並木が設けられた。1970年代半ばには、1976年(昭和51年)3月31日の仙台市電の廃止と前後して愛宕大橋・広瀬河畔通り・秋保通りなどが開通するが、東二番丁では五橋通りから南方への延伸が行われ、現在の五ツ橋交差点から仙台市立病院前交差点までの区間が開通した。同時に側方分離帯を廃止して中央分離帯を設け、片側4車線の道路へと改修された。東二番丁北端の県庁市役所前交差点では定禅寺通と丁字路を形成し、勾当台通とはクランクとなっていたが、仙台市営地下鉄南北線の建設にあわせ、勾当台公園を分割して1986年(昭和61年)に勾当台通と直線的に繋がった。そのため、勾当台通が仙台市役所付近カーブして東二番丁通りに接続していのるが確認できる。このとき、同交差点南西角に141ビル(ファッションドーム141)が再開発ビルとして建設された。仙台市が推進する「歴史的町名活用事業」において、仙台城下町時代の東二番丁(道路)に加えて、その南側に延伸された新道の総称()。仙台市都心部を南北に走る道路の1つであり、国道286号(旧国道4号)を通す。幅員は50m。

出典:wikipedia

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