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戸山為夫

戸山 為夫(とやま ためお、1932年1月5日 - 1993年5月29日)は、京都府久世郡淀町(現・京都市伏見区)出身の元騎手(国営競馬、日本中央競馬会(JRA))、元調教師(日本中央競馬会)。徹底したハードトレーニングで競走馬を鍛えた調教師として知られる。実家が淀にあり、京都競馬場に近く、近所に競馬関係者が多く住んでいたため、少年時代から頻繁に同競馬場内に立ち寄っていたという。場内で当時見習騎手だった小林稔(のちの調教師)に誘われて馬に乗ったのをきっかけに騎手を志した。京都市立四條商業高等学校(廃校)在学当時から武平三騎手の内弟子となり、高校卒業後の1949年に高橋直三厩舎で騎手候補生となる。1950年、坂口正二厩舎へ。1952年に騎手免許取得。障害競走を中心に騎乗し、アラブ大障害を3度制覇した。騎手としては身長が高く減量に苦しんだこともあって、若くして調教師転向を決意。1964年3月1日に調教師免許を取得して厩舎を開業し同年3月22日管理馬初出走(ヨシミ7着)、同年5月31日にイエロラツキで初勝利(延べ17頭目)。1967年10月15日にアトラスで第2回北九州記念を勝ち初重賞勝利をあげる。1968年7月7日には第35回東京優駿(日本ダービー)をタニノハローモアで初制覇。開業当初は厩舎の管理馬房数に制限がなく、高額な馬は有力な厩舎が独占する傾向が強かったため、安価な馬をハードトレーニング、具体的にはインターバルトレーニングで鍛えることで対抗しようとした。しかし馬にかける負荷を強めることは故障の危険性を高めることでもあり、多くの馬を故障させつつ試行錯誤を繰り返した。また、馬こそ安価であるもののトレーニングにかかる経費は決して安価ではなく、タニノハローモアのダービー制覇も馬主の谷水信夫が同じ思想の持ち主(スパルタ教育で強い馬を育成する)で無ければ成し遂げれなかったと語っている程である。その後も苦戦を強いられるものの、1985年栗東トレーニングセンターに坂路コースが完成すると戸山は積極的に活用し、まさに坂路コースの開拓者となった。坂路コースにはコーナーが無くウッドチップ(木くず)が敷き詰められている為、馬の脚部にかかる負担を軽減しつつ筋肉を付けるトレーニングを行うことが出来たからである。現在の坂路コースでの競走馬鍛練のノウハウについても、コース開設当初から戸山が幾度と無く繰り返した数々の試みが与えた影響は小さくない。坂路コースを使ったトレーニングにより生み出したのが、1991年に入厩した2歳馬・ミホノブルボンである。ミホノブルボンは血統的にスプリンター(1200m前後のレースが得意な馬)であると見られていたが、戸山は「スタミナ面の不安はハードトレーニングによって克服可能である」とし、1日3~4回、多いときで1日5回坂路コースをダッシュするメニューを課した。多くの競馬メディアは戸山の取り組みに懐疑的な見方をしていたが、ミホノブルボンは戸山の思惑通り1600mの朝日杯3歳ステークス、2000mの皐月賞、2400mの東京優駿(日本ダービー)と、適性外であるはずの距離のGIレースを次々と制覇。ついには無敗のままクラシック三冠をかけて3000mの菊花賞に出走した。世間一般では「マラソンの様な3000mは無理」と考えられていたが、「3000mは陸上で例えれば400m」と考えていた戸山にとっては、この程度の距離延長は大した問題では無かった。事実、ミホノブルボンが出走した最も短い距離(1000m)と比較してもたった3倍の差である事を考えると、決して無茶な考えでは無い。ミホノブルボンは逃げ馬(先頭に立ってレースを進める馬)であったが、菊花賞にはキョウエイボーガンという逃げ馬も出走していたため、楽に先頭に立つことができない可能性があった。戸山はレース前、騎手の小島貞博に「キョウエイボーガンが競りかけてこようとも最後までペースを落とすな。自分のラップを刻んで、力で押し切れ」と指示していたが、レースではトライアルである前走京都新聞杯で先頭を奪えなかったキョウエイボーガンが、かなり強引とも思える暴走気味の速いペースで先頭に立ったため、小島は先頭を譲ってレースを進めた。ミホノブルボンには他の馬が先頭に立つとエキサイトする癖があったが、このときもエキサイトしてしまい、結果はライスシャワーの2着。このときの小島の騎乗については「先頭を譲るべきではなかった」、「あれ以上速いペースで進んでいたら2着も危なかった」という2つの見解があるが、戸山の信念に反する騎乗であったことは確かで、レース後戸山は「どうしてミホノブルボンを信じることができなかったのだ」と小島を諭したという。なお、ミホノブルボンは菊花賞の後筋肉痛、さらには骨折を発症して長期休養に入り復帰することなく引退した。菊花賞の当時戸山は食道癌を患っており、レース後しばらくして入院した。病床で執筆したのが「鍛えて最強馬を作る - ミホノブルボンはなぜ名馬になれたのか」である。ミホノブルボンや調教論について触れるだけでなく自伝的色彩が強い本であったため、執筆当時戸山はすでに死を覚悟していたといわれる。同書は戸山の死から1ヵ月後の1993年6月に出版され、JRA賞馬事文化賞を受賞した。戸山の死後、ミホノブルボンは再びレースを走ることなく引退した。しかし戸山の管理馬であったレガシーワールドが1993年のジャパンカップを制覇するなどして活躍した。このハードトレーニングで調教された競走馬は結果を残すことが多くなるメリットがあるものの、その一方で故障発生数も多くなると言うデメリットもあった。実際に戸山厩舎の競走馬の故障発生数は非常に多い部類に入り、これについては戸山厩舎で調教助手をしていた森秀行が「坂路調教などのトレーニングはハードであったが調教前の運動や調教後のクーリングダウンをしっかりしていたかと言うと決してそんなことはなかった。その前後の運動がしっかりされていなかったのが(戸山厩舎の)故障発生率の多さに現れていた」と自著で語っていた。通算成績1254戦122勝通算成績6170戦695勝、重賞28勝※太字は門下生。括弧内は厩舎所属期間と所属中の職分。

出典:wikipedia

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