大洋デパート火災(たいようデパートかさい)は、1973年(昭和48年)11月29日午後1時15分に、熊本県熊本市(現在の同市中央区)下通1丁目3番10号にあった百貨店の「大洋デパート」(鉄筋コンクリート地下1階、地上13階建て・一部9階建て)で発生した、火災事故である。火災発生当時は隣接する櫻井総本店ビル3階-8階への増築および改装工事をしながら、また、年末に向けての書き入れ時の中での営業だった。出火原因がタバコの火の不始末か放火か、または改装工事の際の火花なのか、様々な憶測は出たが現在に至るまで判明していない。出火場所は、2階から3階の階段の踊り場の段ボール箱と言われる。パート店員が階段シャッター前の天井付近に薄い煙を認め店員に連絡、4、5名の店員が駆け付けたが消火ホースは水圧が足りず、粉末消火器は薬剤が放出されず残っていた。1階からバケツ20杯ほど水を運んだが消火に失敗。階段室の防火シャッターの操作ボタンを2回押すとゆるやかに降りたものの、シャッター前に座布団が高く積まれており、引火した。3階は寝具売り場で、大量の可燃物があり火勢が強まった。階段部分が事実上『従業員の通路』と化し、大量の荷物で通路幅が狭くなり避難を困難にした。さらにスプリンクラー設備などの防火設備などが工事中で作動せず、被害を大きくした。避難が始まってまもなく停電したとの証言が多い。燃えだしてから布団類の黒い綿をちぎったようなすすが出て暗くなった。火災を通報したのは道路向かいの理髪店主である。店内では3階寝具売り場からの知らせで主任が119番にダイヤルしたと証言しているが、消防機関には通じていなかった。店内の緊急放送は上司の許可が要るものの、連絡がとれなかった。電話交換手の部屋からは、3階の様子がわかるが、従業員は階段から逃げてしまっていた。従業員の誘導で従業員60名・客70名ほどが屋上に避難して助かった。はしごで救出された人数は67名。また、増築用の足場を利用して25名が救出された。この火災で3階以上延べ1万3500平方メートルを全焼し、年末に向けての買い出し客や従業員、工事関係者ら103人が死亡、124人が重軽傷を負うという、日本のビル火災では大阪市の千日デパート火災(1972年5月13日)に次ぐ大惨事となった。当時は衛星回線を使ったテレビの全世界中継が始まっており、ヨーロッパで実況放送が放映されていた。社団法人日本損害保険協会の予防時報 第97号(1974年4月1日)に大洋デパート火災の問題点が指摘されている。火災後直ちに現場を視察した日本大学の塚本孝一教授は「ごく普通にみる百貨店であるから、こういった事態は他でも起こりうる」としている。なお、九州朝日放送のホームページの企業情報内「KBCアーカイブス」にて、大洋デパート火災当時のニュース動画を見ることができる。また、NHKアーカイブスでも閲覧が可能。大病院へは重傷患者が運ばれ、一番近距離にある国立熊本病院は手術を中止し全ての麻酔器を使用し救急救命処置がとられたが、搬送された6名は全て気道熱傷で死亡が確認された。軽症者は開業医に運ばれた。前年の1972年に発生した千日デパート火災とこの大洋デパート火災を精査した結果、建物がそれぞれ「既存不適格」であったことが判明したため、建築基準法及び消防法の大幅な改正が実施されることとなった。それまでの百貨店やスーパーマーケットでは窓を設け外部からの救出や脱出の便を図ることが義務化されていたが、(この大洋デパートも含めて)実際には店内のディスプレイで窓の多くが塞がれているなどして救出や消火を困難にしたばかりか、火災時の電気系統の中断から停電を起こした際に現場に外光が殆ど入らなくなり犠牲者を増やす一因となった。一連の法改正では百貨店など商業ビル建築での窓設置の義務化を省く一方で、停電時の非常照明の整備や避難路の確保などが義務化されることとなった。大洋デパートは1952年に創業。火災が起こるまでは「鶴屋百貨店」を凌ぐほど市内随一の百貨店で、当時市民は市街地へ出かけることを「大洋に行く」と言うほどであった。朝には「朝だ元気で」(八十島稔作詞・飯田信夫作曲)、夕方には「夕焼け小焼け」(中村雨紅作詞・草川信作曲)が大洋デパートから市内一円に向けて放送され、市民に時を告げていた。1956年6月に行った増築工事で、8階に「大洋文化ホール」を設置した。固定席1,200席のほか、廻り舞台や楽屋、楽屋風呂までを備えた本格的な施設であり、それまで市内にはこの規模の劇場やホールはなかったため、熊本における文化活動の中心として活用された。しかし、売り場拡張のため、1966年(昭和41年)に廃止された。なお、中国のデパートである大洋百貨とは人的・資本的関係は一切ない。表記については、「大洋」と「太洋」が混用されていた。そのためか、慰霊碑には「太洋」が使われている。火災時の屋上看板は「大洋」だったが、マークは丸に「太」だった。火災後、大洋デパートの直営店である大洋ショッピングセンター健軍(現マルショクサンリブ健軍店→2016年熊本地震で建物が半壊したため解体決定)・水前寺(その後マルショクサンリブ水前寺店→2007年2月で閉鎖)・京塚店は閉鎖、大洋デパート八代店・大洋ショッピングセンター新市街店は規模縮小して営業と厳しい環境となったものの、1975年11月16日に防災設備を完備し、ロゴや店名表記(これまでの漢字表記から「TAIYO」に変更)などを変えてイメージを一新して本店を再オープンした。再オープンにあたり、防火設備を最優先で設置したため、売場面積を縮小。地上8階・地下1階の建物になる。三越との提携を強化してファッションに特化した店舗作りを目指した。また、下通り側アーケード出入り口の1階には慰霊碑が設置された。また1階の下通側には九州第1号店となるマクドナルド熊本大洋店がオープンした。火災により強度を失ったコンクリート製の店内の柱を補強するため、店内全体の柱は太くなり、買い物客に圧迫感を与える懸念から、柱が鏡張りとなった。再オープン初日は12万人が訪れて大混雑したものの、火災後のダメージは拭うことが出来ず、翌年に倒産、廃業した。1979年10月、大洋デパート跡地にユニード資本による百貨店とスーパーの複合商業施設として「熊本城屋」が開業。のち、ダイエーの資本参加により「城屋ダイエー」となり、1995年に「ダイエー熊本下通店」となる。しかし、建物の老朽化に伴い、2014年5月でダイエー熊本下通店はいったん閉店して南栄開発に売却され、建物は8月から解体工事が始まる。解体直前の2014年7月2日には南栄開発主催で慰霊祭が営まれた。これにより旧大洋デパートの建物は消滅することとなる。当初跡地には新しい商業施設が建設されダイエーが再出店する予定となっていたが、ダイエー自体が完全なイオングループ子会社となり、その過程で九州から全面撤退したため、計画は不透明な情勢となった。
出典:wikipedia
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