レオ・シラード(Leo Szilard, ハンガリー名: , 1898年2月11日 – 1964年5月30日)は、原子爆弾開発などに関わったハンガリー生まれのアメリカのユダヤ系物理学者・分子生物学者。カナ表記ではジラードとも。シラードはアインシュタインを通じたルーズベルト大統領への進言によって原子爆弾開発のきっかけを作った人物として知られる。原爆開発の開始に大きな役割を演じたにも関わらず、第二次世界大戦末期には日本への無警告の原爆投下を阻止しようとして活動した点をもって、「良識派」と見なされることが多い反面、科学史研究家の中には、こうした見方を否定する研究家もおり、科学史上の評価は割れている。戦後は、核軍備管理問題に関して積極的な活動を続けた。一つのことを突きつめ業績を積み上げるよりも、知的放浪者として広い分野で創造的なアイデアを生み出すことを楽しみ、熱力学や核物理学から分子生物学に至る科学的研究に止まらず、社会的活動や政治的活動にも積極的に関わった。1939年、アインシュタインにルーズベルト大統領へ核開発を促す有名な書簡(アインシュタイン=シラードの手紙)を送ることを依頼したのをはじめ、シラードは他の科学者や有力者との接触によっていくつかの活動を影で支援した。シラードの興味の対象は幅広く、また彼の波乱に富んだ生涯と切り離せない。熱統計力学、原子核物理学、分子生物学の科学的研究のみならず、先進の物理的アイデアに基づいた多くの特許や、社会活動団体の設立、さらには小説の執筆にまで及ぶ。一方、その根底にある、独立した個人の創造性への信念と人道主義的な世界救済の思想は生涯変わることがなかった。論文よりも特許を申請することを好み、原子炉や粒子加速器など多くの先進的なアイデアが特許として残されている。科学のみならず世界情勢に関しても人より先を見通すことに長けており、そうした自己の信念やアイデアを絶対視して周囲をまとめようとしたため、しばしば同僚研究者を苛立たせた一方で、その洞察力には一目置かれた。亡命後はわずかなスーツケースを携えてホテル暮らしをし、しばしば朝から何時間も湯舟に浸かって思索するのを好んだ。シラードの科学的研究対象は熱統計力学に始まり分子生物学に終わった。1922年の博士論文と、その半年後に書かれた論文はエントロピー増大則(熱力学第二法則)に関するものであり、特に後者はこの法則と矛盾するように見えるために長らく熱力学を悩ませていた難題であるマクスウェルの悪魔を扱っていた。この論文でシラードはシラードのエンジンと呼ばれる理論モデルを用いて、熱力学の概念であったエントロピーが観測によって得る情報の概念と直接に繋がっていることを示し、観測行為が一定の平均エントロピー生成と本質的に結びついているとしてエントロピー増大則は守られると主張した。現在ではこのシラードの解釈は修正を受けているものの、エントロピーと情報との関係を示すこの先駆的な指摘は、1940年代後半にシャノンが情報理論にエントロピーの概念をより明確に導入し、確率論の上で定義された情報が研究対象となるまで長らく忘れられていたものであった。シラードは、このマクスウェルの悪魔の議論に、より一般に生命それ自体への理解へと繋がるものを見ていた。それが得られるような物理学と生物学を繋ぐ一般的理論では、統計力学がいう平衡状態が混沌ではなく、むしろ力学を越えて高次の秩序へ向かうものを意味するものとなるだろうと考えた。シラードの論文集に序文を寄せた分子生物学者ジャック・モノーは、シラードが「心の中ではいつでも生物学者であった」とし、シラードの生物学への転向をこうした「マクスウェルの悪魔の熱力学についての初期の研究への回帰」であったのではないかとしている。こうした生物物理学への志向にもかからわず、時代的制約によって壮年期のシラードの研究はほぼ原子核物理学へと向けられた。1933年、ドイツを逃れてほどなく、中性子による核連鎖反応の可能性に思い至り、以降核物理学の研究に没頭する。しかし、このシラードのひらめきは核分裂の発見に6年先立つものであったため、その前半は不安定な身分の中での孤独な研究に身を投じることとなった。1934年、浴槽で思索に耽っていたとき、中性子捕獲した後の核反応生成物を分離する方法を思いつき、シラード=チャルマーズ効果 (Szilard-Chalmers effect) を発見している。 1939年にウラン原子核の核分裂が発見され、シラードの懸念が一転して物理学の中心的話題となると、エンリコ・フェルミらやフレデリック・ジョリオ=キュリーらと平行して核分裂実験で二次中性子の放出を確認した。第二次世界大戦中、研究は極秘の原子爆弾開発計画であるマンハッタン計画として政治の世界へと飲み込まれることとなった。マンハッタン計画初期には、フェルミらに協力して世界初の原子炉シカゴ・パイル1号を実現に導いたが、計画を指導した陸軍との確執が深まるとともに政治的な活動に深く関わっていった。戦後、核開発競争の時代となってからも、こうした核管理問題に関する政治的活動に積極的に携わった。シラードは、立場や環境に束縛されない独立した個人でいることによって、人の創造性が最大限に発揮できるものと考えていた。幼少期から多くの新奇なアイデアの創出や発明に熱中したが、学位を得るとともに、固定した学問的地位を得るよりも、多くの同僚研究者の間を「知的放浪者」として忙しなく巡り様々な忠告を行うのを習慣とした。こうした行いからベルリン時代には「最高指導者」 () とあだ名され、厚かましいものと煙たがられた一方で、思いもよらない有用なアイデアを与えることもあった。一方、多様な研究者との会話から生まれてきたアイデアは、数多くの特許という形で残された。博士号を得た直後の1923年、カイザー・ヴィルヘルム研究所でX線回折の研究を行っていたハーマン・マーク ()を尋ねた後、シラードはX線センサー素子に関して初の特許を申請している。ルスカがそれを実際に製作したのと同じ1931年に単純な形式の電子顕微鏡の特許を申請しているが、デニス・ガボールによればそのアイデアをシラードから初めて聞いたのはその4年前だったという。これより前に、線形加速器さらにはサイクロトロン、ベータトロンに関する特許を相次いで出願している。サイクロトロンの特許出願はローレンスがそれを思いついた時期に数か月先立ち、やはりその実現の4年前であった。これらベルリン時代の発明の中で最も実現に近づいたものは冷蔵庫用の可動部のないポンプに関する一連の特許であった。この頃の冷蔵庫は冷媒として有毒なガスを用いており、ポンプの可動部の隙間からガスが漏れ出して死亡する事故が度々起きていた。アインシュタインと親しい付き合いをしていたシラードは、こうした事件を受け、液体金属を外部から電磁誘導によって流動させるなど3種類の冷却装置の設計を共に行って連名で特許を取得した。アインシュタインとシラードの冷蔵庫も参照。その一部はゼネラル・エレクトリック社のドイツ法人 () で試作されたものの、騒音の低減ができなかったことや経営状況の悪化のために実用化されることは無かった。その後イギリスでは初期の核連鎖反応のアイデアを特許とし、アメリカではエンリコ・フェルミとの黒鉛型原子炉に関する特許を残している。さらに使用済み核燃料に多くの新たな燃料を含む原子炉である増殖炉、微生物の連続培養装置であるケモスタット () などを発案した。シラードはこうした新たなアイデアを出すことには熱心だったものの、その後は興味を失うことが多く、こうした特許のうちで実現を試みたものは少なかった。またシラードの特許への嗜好を利己的で科学者らしくないと考える同僚も多かったが、シラードは彼が理想とした組織から独立した個人としているために必要なものだと考えていた。しかし結果としてこうした発明の多くはシラードに利益をもたらしていない。1933年の経済学者ベヴァリッジらによる亡命学者受け入れのための学術支援評議会 (, AAC) の設立や、1963年の生物学者ジョナス・ソークによるソーク研究所の設立には、こうしたシラードの早期の働きかけがあった。また、パグウォッシュ会議での儀礼的なやり取りに飽き足らず、新たなアイデアの創出と実効的な議論を求め両陣営の科学者や実務者による小規模で非公式な会議を度々企画したが、やはり実現に至ることはなかった。シラードはH・G・ウェルズと同様に世界政府 () の実現や世界法の制定による戦争の廃絶を理想とした。シラードにとって冷戦期の問題は、全面核戦争を起こすことなく戦争を廃絶させる国家の上位組織を作り上げる道を見出せるかどうかということだったが、晩年までその見通しは暗いものと考えていた。シラードはその原因をナショナリズムと信頼の欠如とに見ていた。こうした理想の一方で、戦後の核開発競争に抗してなされたその時々の主張はプラグマティックで、またしばしば奇抜なものであった。シラードのアメリカ政治に対する分析は多元主義的なものであり、ニューレフトの急進主義や、理想主義的な平和主義、また政府のシンクタンクとも距離をとり、その信は飽くまで科学者コミュニティーの合理主義に置かれた。しかし、戦後の他の軍縮活動と同じく、いずれの活動も冷戦の大きな政治的力の前で決定的な役割を果たすものとはならなかった。1898年、当時のオーストリア=ハンガリー帝国、ブダペストで土木技師の父ルイ・シュピッツ (Louis Spitz 名-姓)と母テクラ (Tekla) の間の3人兄弟の第一子として生まれた。レオが2歳のとき政府による改名圧力のため家族は姓をハンガリー風のシラード () へと改めた。母方の叔父ヴィドル・エミル ( 姓-名) は後に有名となった建築家であり、レオはヴィドルの最初の作品である大邸宅で母の両親・姉妹家族とともに少年期を過した。家庭での教育を経て1908年、8年制の技術系高等学校へと入学した。この頃、ハンガリーで広く教えられていたマダーチ・イムレ ( 姓-名) による古典的劇詩『人間の悲劇』(")から大きな影響を受けた。この話では、アダムがルシファーに導かれ天地創造から未来の氷河期までの人類の歴史を旅し、人類は破滅を運命づけられており、人生とは無意味なものであることを説く内容であった。1914年7月、16歳のときに第一次世界大戦が始まると、すぐさまこの戦争がオーストリア=ハンガリーとドイツの同盟国側、および連合国の一翼のロシアの敗北によって終わらねばならないと周囲に公言していた。また、兵士を満載した輸送列車を見て素直に「熱狂はあまり見えないけど、酔っ払いなら大勢見える」と指摘したことで、無神経な物言いであるとたしなめられた。後年、シラードは「判断の明晰さはいかに感情に捕らわれないでいられるかの問題であり、このとき以来、不誠実であるよりは無神経であることを選択しようと決心した」と回想している。卒業後、ハンガリーで行われていた「エトヴェシュ物理学コンペティション」で全国2位を獲得している。王立ヨージェフ工科大学 () に入学した翌年の1917年9月に当時の制度に従い士官候補生として徴兵された。一年間の士官学校生活を経て、オーストリア山岳地帯に訓練のため配属されている間に重い流感に罹り、休暇を願い出て故郷で療養することとなった。ほどなく前線に送られた所属部隊が全員行方不明となったという報せを聞き、あやうく難を逃れたのだと知った。その数日後、第一次世界大戦は終戦を迎えた。シラードは、このときの自分がオーストリア=ハンガリー軍でスペイン風邪として報告された最初の患者でなかったかとしている。敗戦後、ハンガリーの政情と経済は混乱し、激しいインフレによって邸宅を残して一族の資産はほとんど失われた。復帰した大学では政治運動が活発となり、レオ・シラードは弟ベーラ ()とともにその流れに加わった。兄弟は、一見すると論理的にも奇妙にも見えたという新たな社会主義的税制を提唱してビラを作製し、学生団体を組織して集会を呼びかけた。その一度限りの集会には数十人の学生が集まったが、ビラに記した議論を読んで理解してきた者はほとんどいなかったという。1919年3月、ハンガリーは外国の侵入を受ける中、クンのソビエト政権が権力を掌握した。この年、兄弟はメーデーのパレードに参加したものの、赤色テロ () の横行や経済に対する政権の硬直的な考えによって幻滅を抱くことになった。6月になるとホルティに率いられた国民軍が蜂起するとともにルーマニア軍がブダペストを占拠して、クン政権はわずか4カ月で終焉を迎えた。ホルティが権力を握ると国内では前政権への反動として共産主義者やユダヤ人に対する白色テロ () が始まることとなった。レオらは直前にプロテスタントに改宗していたが、ユダヤ人に敵意を燃やす学生達によってお構いなく暴力的に大学から締め出された。ブダペストを離れベルリンで学問を続けようとしたものの、すでに新政権は前政権のシンパではないかとして兄弟を調査対象としており、出国査証を得るには大学の教員や友人、そして役人への賄賂の力が必要だった。レオは1919年のクリスマスの日に追われるようにハンガリーを後にした。1920年1月、つてを頼ってベルリンに落ち着くと、ホルティ政権からの疑いが晴れて合流したベーラとともに、ベルリン工科大学へ入学した。当時、ベルリンはアルベルト・アインシュタインやマックス・フォン・ラウエ、マックス・プランク、リヒャルト・フォン・ミーゼス、ジェームズ・フランクなど一流の学者が活躍する物理学にとってのメッカであった。もはや工学の講義に飽き足らなくなったシラードは、その年の秋にはフリードリヒ・ヴィルヘルム大学(ベルリン大学)で物理学を学ぶことになった。 活気ある学問の場に参加して、プランクやラウエ、ミーゼスなどの講義だけでなく、他学科の哲学や倫理学なども貪欲に受講した。さらには自らの率直さを生かしてアインシュタインに頼み込み統計力学のセミナーを受け持ってもらった。このアインシュタインのセミナーの参加者にはシラードの他、ユージン・ウィグナーやデニス・ガボール、さらに一時はジョン・フォン・ノイマンなど、後に有名となった他のハンガリー出身の学生も含まれていた。翌1921年冬学期にはラウエに博士論文の指導を引き受けてもらったが、与えられた相対論の問題には何か月も実りがなかった。クリスマスに課題から離れて思い浮かぶままのアイデアを考えながら散策していたとき、ひらめきが訪れ、一つの論文を書き上げた。これは課題と異なるものであったため、シラードはまずアインシュタインへと相談した。アイデアは独創的なもので「それは不可能だ」と始めは驚いたアインシュタインも説明の後にはそれを気に入り、自信を得たシラードは論文をラウエへと提出した。ラウエはいぶかしくこれを受け取ったものの、シラードは翌朝それが博士号審査論文として受理されたことを知らされた。1922年シラードはこれにより系の変数のゆらぎへの熱力学第二法則の拡張に関する論文で博士号を取得した。第一次世界大戦後の巨額の賠償によりこの時期のドイツの経済状態は壊滅的な状況にあったが、シラードは博士号取得後もベルリンのあちこち研究室やカフェで議論を楽しんだ。1925年にラウエの助手として採用され、1927年には大学の私講師となった。この頃、イギリスやアメリカを含め各地を飛び回るとともに、粒子加速器などの多くの特許を提出している。現代数学に対する自己の能力不足を認識したシラードは、理論物理をあきらめ、リーゼ・マイトナーとの実験核物理学の研究や、生物学への転向、さらにはインドでの教授職など新たな進路を模索したが、見通しは芳しいものではなかった。またシラードは、SF 作家 H・G・ウェルズの大ファンとして知られ、1920年代のベルリン在住時には彼の小説をドイツ語圏に紹介することに尽力した。特にこの時期に発表されたウェルズの小冊子『開かれた策略』(
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