沖縄・読谷村「平和の像」破壊事件(おきなわ・よみたんそん「へいわのぞう」はかいじけん)とは右翼による報復事件(暴力行為等処罰違反事件)である。その犯行動機には沖縄県がかかえる複雑な戦争や国家に対する感情への反発があったともいえる。第二次世界大戦(太平洋戦争)末期の沖縄戦でアメリカ軍が最初に上陸した読谷村では、1945年4月2日に同村チビチリガマ(壕)に避難していた地元住民139人のうち84名が集団自決した。戦後長きにわたり地元では語ることもタブーとされていた。集団自決から42年後の1987年4月2日に地元住民らの集団製作により犠牲者に対する鎮魂碑「平和の像」が除幕されたが、同年11月8日に原形をとどめないまで破壊されていた。現場には「国旗燃ヤス村ニ平和ワ早スギル天誅ヲ下ス」との犯行文が残されていた。これは1987年10月6日に地元で開催された沖縄国体のソフトボール会場で球場に掲揚されていた日章旗(国旗と規定されたのは1999年施行の「国旗及び国歌に関する法律」から)を知花昌一(当時39歳)が焼き捨てた示威行為(日の丸焼き捨て事件)に対する右翼による報復行為であった。沖縄県の本土復帰までは日章旗は米軍による占領支配からの解放の象徴であったが、復帰後も米軍基地が相変わらず存在する現状に変わりなく、米軍に加え日本政府に対する反発が根強くあり、そのことが日章旗焼き捨ての示威行為に走らせた背景があった。知花昌一は器物損壊罪(刑法261条 なお、刑法92条で規定される国旗損壊罪の対象は外国の国旗であり日本の国旗は対象にならない)で起訴され、1995年に執行猶予付きの有罪判決が那覇地裁から下された。判決文は、沖縄県における日章旗に対する強い拒否反応とそれを強制しようとする国家権力に対する反発は理解できるとしても、それに対するこのような示威行為は社会的に是認されるものとはいえず、正当化できるものではないと指摘した。しかしながら、この男性に対する右翼側の報復はひどく男性が経営していた商店は放火され、今度は「平和の像」が破壊されたのであった。このような鎮魂のために建立されたものが破壊されたことに対し、遺族会が「犠牲者は2度殺された」と嘆いた。1987年12月19日に右翼団体のメンバー2人が暴力行為等処罰法違反で逮捕され、のちに実刑の有罪判決を受けた。「平和の像」が再建されたのは7年後の1995年3月のことであった。また現在でも遺品や遺骨が散乱しているチビチリガマの内部に入ることは、遺族会の意思により禁止されているという。
出典:wikipedia
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