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閑院宮春仁王

閑院宮春仁王(かんいんのみや はるひとおう、1902年(明治35年)8月3日 - 1988年(昭和63年)6月18日)は、日本の皇族、陸軍軍人で、階級は陸軍少将に昇る。栄典は大勲位・功四級。閑院宮載仁親王の第2王子。兄宮の篤仁王が生後すぐに薨去したため、実質長男として育ち、父載仁親王薨去にともない閑院宮を継承した。なお、父の代まで親王であったため、誤って「閑院宮春仁親王」として言及されることがしばしばある。戦後は皇籍を離脱し、姓を閑院とし閑院春仁と名乗った。のちに純仁(すみひと)と改名した。学習院初等科を健康上の理由で長期休学し、その後神奈川県立小田原中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)を経て、1924年(大正13年)7月陸軍士官学校(36期)を卒業し、同年10月には陸軍騎兵少尉に任命、近衛騎兵連隊に配属される。北支那方面軍参謀(自著『私の自叙伝』では「戦場というには、あまりに泰平至極の日々であった」。この従軍に対し功四級金鵄勲章が与えられている)、陸軍大学校教官を経て1941年(昭和16年)4月新設の総力戦研究所の聴講生となる。1942年(昭和17年)戦車第5連隊長に補職。将校(下士官も含む)の進級は犯罪、非行・風紀紊乱などの不祥事による事故ある場合を除き、階級ごとに定められた実役停年(ある階級において現役で勤務した期間。待命など役職の発令されない非職期間は含むが、休職、停職、禁固以上の懲罰を受けた期間は除く。陸軍では少尉1年、中尉2年、大尉4年、少佐~大佐各2年など。実役のカウントは兵に対しても適用されるので、ちなみにたとえば徴兵された兵士が兵役中の犯罪によって陸軍刑務所に投獄された場合、その懲役期間は徴兵の服役の年数には含まれない)の年数を満たすことによって次の階級に進むという規定によって行われるので、一般将校は通例規定年数以上の年月をかけて進級していくが、皇族は規定年数通りの最小期間で進級する。そのため、春仁王は1945年(昭和20年)6月に同期将校の中で歿後進級の例を除きただ一人普通進級で少将まで進んだ(歿後進級では陸軍大学校卒3名と非卒1名の例がある)。なお単純に考えると少尉任官なら少将までは13年で進級可能であるが、将校団序列を無視できる皇太子の場合と違い、陸士・海兵を卒業した皇族将校は将校名簿に序列を記載され、陸海軍省の人事管理のもとにあるので、「同期現役将校の階級差は2階級以内」(例えば、同期生で現役に残っているものがすべて中佐――おおむね、少尉任官したもののうち3分の2程度、残りは少佐進級までに整理されるという――以上に進級しないと、少将には進級できない)という内規の適用によって、完全に最短年数の進級とはなっていない。同年8月には戦車第4師団の師団長心得。この師団は九十九里浜を重点に千葉県内に配備されており、3個連隊約6,000名の大所帯であった。実際の指揮は隷下戦車連隊長の島田一雄大佐がとったとされるが、敵軍の上陸に備え九十九里浜・鹿島灘・相模灘等で準備中に終戦を迎える。終戦にあたり、大詔渙発の聖旨並びに停戦大命の徹底を期し、天皇の名代として南方(サイゴン)に派遣される。1945年(昭和20年)5月20日、父宮載仁親王の薨去に伴い閑院宮家を継承し、第七代閑院宮となる。1945年(昭和20年)11月11日、東久邇宮稔彦王は敗戦の責任を取るため、皇族の身分を離れる意向であることを表明した。賀陽宮恒憲王もこれに同調し、また、当時朝日新聞は皇族の範囲を狭めることによって『累の上御一人に及ぶことを全力を挙げて未然に避けん』とする等、世論も歓迎する方向であったが、春仁王が「皇族の使命を軽んじ自ら卑下して時勢におもねるもの」と発言する等、このような動きに反発する皇族も多く、時の宮内大臣石渡荘太郎も臣籍降下の勅許は得られないであろうとの見解を示した。この問題は宮相発言によりいったん決着を見たかのようであったが、翌月には梨本宮守正王が戦犯に指名される等、天皇・皇族も戦争責任も免れないことが明示された。さらに、1946年(昭和21年)5月23日、GHQより『皇族の財産上その他の特権廃止に関する指令』が発せられ、財政上、従前の規模の皇室を維持することは困難となった。日本国憲法施行後から5か月後、皇室会議の議を経て、正式に11宮家51名の臣籍降下が決定された。1947年(昭和22年)10月14日に皇籍離脱、閑院春仁と名乗る。永田町の本邸跡地を売却した後、東京を離れ、かつての小田原別邸に移住する。1958年(昭和33年)7月31日、閑院純仁(かんいん すみひと)に改名。のち、直子夫人と離婚する。その後、直子がマスコミに純仁は同性愛者(男色家)であったと語り、一時スキャンダルに見舞われた。上級将校には世話係として従兵がつく。純仁も同様であった。官舎はせまく寝室は一部屋だったため直子の隣のベッドで純仁はその従兵と同衾した。戦後は、純仁は当然のように三人で生活を送り、夫妻が喧嘩になるとその元従兵が直子を殴ったという。その後、春日興業を設立して社長に就任し、1963年には東海道本線田町駅前に春日ビル(現NEC春日ビル)を建設するなど、旧皇族の中では比較的経済的に成功したひとりであったが、1969年には「飼い犬に手を咬まれた結果」急に経営が行き詰まったといわれる。晩年はヨガに傾倒し、また地方の農業の改革を訴える活動を行っていた農民運動家に協力するなどしていたが、概ね静かな余生を送った。1988年(昭和63年)6月に死去する。これにより、宝永7年(1710年)以来278年続いた閑院宮家は絶家となった。閑院宮載仁親王の第2王子で母は公爵三条実美の娘智恵子。陸軍中将侯爵四条隆謌の孫で明治神宮宮司・海軍大佐・公爵一条実輝の四女、直子を妃とするが、後、離婚。また、直子の姉朝子は伏見宮博義王に嫁いでいる。東山天皇皇子典仁親王を初代とし享保3年(1718年)から続く閑院宮第7代となるが、子は無く閑院宮家は断絶した。

出典:wikipedia

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