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西口文也

西口 文也(にしぐち ふみや、1972年9月26日 - )は、和歌山県和歌山市出身の元プロ野球選手(投手)。現役時代21年間全て西武に所属したフランチャイズ・プレイヤー。愛称は「オツ」で、「(体型が)ジョセフ・オツオリに似ている」と現役時代に先輩に言われた事から。市立西和佐小学校から市立高積中学校までは遊撃手、外野手としてプレーしていたが、和歌山県立和歌山商業高等学校から投手を兼任し、立正大学入学後は投手に専念して活躍。1992年春季の東都2部リーグで最優秀投手賞を受賞している。以降準エース格の働きを見せ、1993年の秋季リーグで立正大学が2部優勝し、東京農業大学との入れ替え戦を制して東都1部に昇格している。のドラフト会議において、西武ライオンズに3巡目に指名され入団。背番号は13。にアメリカの独立リーグ「ノーザンリーグ」のスーシティ・エクスプローラーズに野球留学し、後の決め球となるチェンジアップを習得。後半戦で初完投・初完封勝利を記録。にはリーグ2位の16勝・173奪三振と最多完投を記録。オールスターにも監督推薦で初選出された。は初の開幕投手を務める。9月には連投から中4日で登板するなど大車輪の活躍を見せ、最多勝・最多奪三振・最高勝率・ベストナイン・ゴールデングラブ賞・沢村賞・MVPを受賞した。しかし、日本シリーズでは好投するも2敗を喫した。も開幕投手を務めるが不調に陥り、前半は中継ぎ・抑えも経験する。しかし後半戦から復調し、最終的に2年連続の最多勝・最多奪三振・ベストナイン・ゴールデングラブ賞を獲得。は3年連続で開幕投手を務める。チーム最多勝は新人の松坂大輔に奪われたが、2年連続で最多完封勝利を記録した。は右足内転筋を痛めて離脱、これが後に持病となってしまった。は91与四死球と制球難に苦しみ、防御率が初の4点台に悪化した。2002年はリーグ2位となる15勝を挙げてリーグ優勝に貢献。3度目のゴールデングラブ賞を受賞した。読売ジャイアンツとの日本シリーズでは第4戦に先発し、5回を2安打2失点に抑えるも6回に松坂が勝ち越され、そのまま敗れ日本一を逃した。は右足のケガの悪化に不調も重なり、規定投球回数に届かない6勝・防御率6.84と不本意な成績に終わり、連続2桁勝利・連続防御率10傑入りが共に7年で途切れた。から禁煙・食事制限など節制に努めて復活を期し、3度右足内転筋を痛めて離脱したが10勝を挙げる。この年FA権を取得するが「これから西武で何勝できるかやってみたい」と発言し残留を決めた。怪我の影響でプレーオフは登板はなかったが、チームはリーグ優勝した。自身は中日ドラゴンズとの日本シリーズ第5戦に先発し、6回2/3を投げて3失点と好投を見せたが打線の援護がなく敗戦投手となり中日の日本一に王手をかけられたが、チームはそこから2連勝し日本一を達成した。は開幕から絶好調でセ・パ交流戦では6勝を挙げて交流戦の初代最多勝投手に輝く。レギュラーシーズンでも抜群の安定感で、杉内俊哉と最多勝を争う。直接対決で敗れたため1勝及ばずタイトルを逃すが、自己最多の17勝を挙げた。毎年多めな被本塁打も13本に抑えたほか、防御率も初の2点台を記録した。は自身4度目となる開幕投手を務めたが、序盤は調子が上がらず負けが先行し、中盤以降に復調して9勝を挙げるが2桁勝利には届かなかった。に松坂がボストン・レッドソックスへ移籍し、層が薄くなった投手陣の中でリーダーとして期待され、5度目の開幕投手を務めて1999年以来の白星を記録。3・4月の月間MVPを初めて獲得した他、8月17日の対オリックス・バファローズ戦(グッドウィルドーム)に先発して、史上46人目の通算150勝を達成。9月18日の対オリックス戦では史上83人目の2000投球回を達成した。しかし6月以降の失速が響いて勝ち星は前年と同じ9勝(11敗)となり、プロ入り以来初めて負け越したシーズンとなった。は試合前半に打ち込まれる姿が目立ち、7月までは防御率6.35と苦しんだ。しかし後半は持ち直し、7月27日の対日本ハム戦で好投して以降は4勝1敗・防御率2.74と活躍、終盤のケガもあって前年より勝ち星は減ったが、レギュラーシーズンを勝ち越して終えた。巨人との日本シリーズでは第7戦に先発するものの、初回に1死満塁のピンチで先制点を与え、2回には坂本勇人にソロ本塁打を打たれ2回2失点で降板した。も前年同様前半戦はローテーションに入ったものの、打ち込まれる試合が続いたほか、チーム事情もあって中継ぎに回される。しかし中継ぎでも打たれる場面が多く、防御率は2年連続の5点台、勝ち星も4勝に終わった。不調を払拭するためにウエイトトレーニングに取り組んだ結果、翌年には球速が145km/hまで回復し、終盤には好投も見せたが3年連続の防御率5点台・3勝に終わった。は開幕当初6人目の先発要員となり、試合数の少ない週はしばしば登板機会を飛ばされた。前半戦は不安定な投球で負け越していたが8月以降は7勝1敗防御率2.00と不調の先発陣を牽引し、終盤には最終戦まで中5日での登板が続けられるように優先して先発ローテーションが組まれるほどになった。8月28日には2006年以来となる完投勝利を2005年以来の完封で飾り、自身の先発登板連続無完投記録(102試合で当時の日本記録)に終止符を打った。この試合により、ジョージア魂賞も受賞。10月12日には2005年以来、実に6年ぶりの2桁勝利を挙げ、迎えた10月18日の最終戦に先発、8回2失点140球の熱投で勝利しチームを最下位からのクライマックスシリーズ進出へと導いた。最終的に規定投球回には4イニング足らず僅かに届かなかったもののチームトップの11勝を挙げ、防御率も2.57と数年の不調から復活したシーズンとなった。日本ハムとのクライマックスシリーズ1stステージ第2戦では7回0/3を1失点に抑える快投を見せ、ポストシーズン通算10試合目にして念願の初勝利を挙げると共に、チームの2ndステージ進出を決めた。は援護には恵まれるものの短いイニングでマウンドを降りるケースが目立ち、前半戦において不安定だったリリーフ陣に勝ちを消されることが多かった。シーズン中盤には右肩痛に悩まされるようになり、投球内容が悪化して2軍落ちした。シーズン最後まで再調整を行うものの1軍昇格は見送られた。8月8日の日本ハム戦で先発し、高橋直樹が持っていた最年長先発投手の球団記録を更新した。だが、この年は1勝も挙げることができず、プロ入り初の未勝利でシーズンを終えた。は中継ぎで8試合投げただけで終わった。2年連続で未勝利に終わり、プロ入り初の先発登板なしのシーズンとなった。2015年は開幕二軍スタートとなったが、5月28日の巨人戦で一軍初登板を果たし、2年ぶりに先発したが4回4失点でKOされた。結局この1試合で二軍落ちとなった。9月23日に現役引退を表明した。フランチャイズ・プレイヤー歴21年は伊東勤の22年に次ぐ記録。11月5日に日本野球機構(NPB)より任意引退公示された。2015年10月、球団本部編成部に所属することが決まる。2016年1月、2016年3月から4月の間、台湾の統一ライオンズ臨時コーチ就任が発表される。その前の同年2月、韓国プロ野球のハンファ・イーグルスで臨時コーチを務める。2016年10月、翌年からの二軍投手コーチ就任が発表される。キレの良いスライダーを代名詞とする。変化の大きいものから小さいもの、横変化の強いものや縦変化の強いものと様々な種類のスライダーを投げ分け、特に2ストライクに打者を追い込んでからは、時にフォークボールと見間違えられる程に鋭く縦に変化し、打者にスライダーを空振りしたのではなく、フォークを空振りしたかのようなスイングをさせることがある。好調時には高い確率で打者の空振りを誘い、早いカウントの時は小さな変化でストライクを稼ぐというように使い分けている。速球はかつて150km/h以上(最速152km/h)を計測することもあったが、近年は平均球速約138km/hに収まっている。毎年20本前後の本塁打を打たれ、先発投手としては良い被安打率を誇る割には防御率が良くない。2015年現在、20年のプロ生活で10回の2桁勝利を達成している(9勝のシーズンも2回)が、規定投球回投げている年で防御率が3点未満になったのは1度だけである(2005年)。尻上がりに調子を上げていく傾向があり、西口曰く「僕はどうしても点差が開くと気が抜けて、投球が雑になってしまうタイプ」「投手戦の方が、気が張っていい結果が出る」という。2006年6月4日の対読売ジャイアンツ6回戦(東京ドーム)で8回2/3を2失点完投して(この試合は9回サヨナラ負け)以降、2011年8月28日の北海道日本ハムファイターズ17回戦(西武ドーム)で後述する「幻の完全試合」となった2005年8月27日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦以来の完封勝利を挙げるまで、先発での登板時に102試合連続で完投がなかった。この数字は、従来ケビン・ホッジスが持っていた81を大幅に更新する日本記録(当時)であった。後日、この記録について西口は「おそらく、この記録は抜かれることはないと思いますから。どんなことでも記録として名前が残るのは、うれしいことです」と振り返っていたが、翌2012年には藤井秀悟が先発登板時に103試合連続完投なしとなり、西口の記録は1年あまりで更新された(藤井は2013年4月27日に完投勝利を挙げ、現在の日本記録は107試合である)。ゴールデングラブ賞を3度受賞している。松坂と共に、1997~2006年までの10年間パ・リーグゴールデングラブ賞投手部門を西武勢で独占した。1996年の近鉄戦に8者連続三振、2006年には通算1500奪三振を記録し、要した投球回数1729イニングは史上48人の達成者の中で石井一久、江夏豊、川口和久に次ぐ4番目のスピード記録であり、右投げでは歴代1位である。1997年4月12日の対千葉ロッテマリーンズ戦(千葉マリンスタジアム)の2回裏に、史上4人目の1イニング4奪三振を記録している。2006年6月18日の対横浜ベイスターズ戦では12個の三振を奪い、1996年から11年連続で2桁奪三振試合を達成するというパ・リーグ新記録を樹立した。本塁打が出やすいと言われている東京ドームでは、1996年8月3日の対日本ハムファイターズ戦から2007年6月24日の読売ジャイアンツ戦(交流戦)まで11年間勝ち星から遠ざかっていた。その後2012年6月8日の巨人戦でも5回1/3を1失点で勝利投手となってたが、この試合が東京ドームでの現役最後の勝利となった。逆に大阪ドームでは1997年の開場以来、先発登板した試合では2003年5月20日まで敗戦投手にはなっていなかった。西口は、「完全試合またはノーヒットノーラン達成まであと一歩」のところで安打を打たれて完封・完投どまりになった事が3度ある。1996年9月23日の対近鉄バファローズ戦(西武球場)で、初回に水口栄二に安打を打たれたものの後続を全て抑え、途中8連続奪三振の活躍(日本記録は梶本隆夫、土橋正幸の9連続)で1安打、6-0の完封勝ちをあげた。このとき一度目の「準」完全試合を達成していた。2015年9月23日に行った自身の引退会見でも、日本シリーズ未勝利と共にノーヒットノーランを達成できなかったことが心残りであると述べた。

出典:wikipedia

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