2003年のF1世界選手権は、FIAフォーミュラ1世界選手権の第54回大会である。2003年3月9日にオーストラリアで開幕し、10月12日に日本で開催される最終戦まで、全16戦で争われた。前年オーストリアのレースでのチームオーダー事件に関連して、チームオーダーが禁止された。レースウィークの金曜日(モナコでは木曜日)朝に特別テストが行われた。これは年間テストの日数を制限することを受け入れたチームは、金曜日の朝にレースカーとサードカーを使用してテストをおこなうことができる、というものであった。資金的に苦しいミナルディとジョーダン・グランプリ、ジャガー、そしてルノーF1チームが参加した。ミナルディはマッテオ・ボッビや、ジャンマリア・ブルーニを起用した。ジョーダンはゾルト・バウムガルトナーやビヨン・ビルドハイムを起用した。これらの資金的に苦しいチームは若手の育成やスポンサー資金の獲得にこのせいをど利用していたのに対し、ルノーは主にデータとりのためにこの制度を利用、ドライバーはフランスグランプリを除きアラン・マクニッシュを起用した。予選方式も大幅に変更された。従来の12周以内のアタックで最速タイムを結果とする方式から、金曜日と土曜日に1回アタックを行うように変更された。このうち金曜日の予選は土曜日の出走順を決定させ、土曜日にも1回アタックを行いグリッドを決定する。出走順は金曜日が前戦までのドライバーズランキング上位から、土曜日が予選1回目の下位からおこなう。予選後マシンはパルクフェルメに保管され、給油が禁止される。開幕戦でミナルディが予選アタックを行わず、パルクフェルメへのマシン保管を免れるという裏ワザを使った。さらに1991年以来、久しぶりにポイントシステムの改定が行われた。また、1960年以来となる入賞順位の拡大も行われた。予選は1アタック制になり、デイビッド・クルサードなどのように、このようなやり方が苦手なドライバーには難しい予選になった。また予選中に降雨などがあった場合、予選順位がマシンやドライバーの実力を反映した序列にならないことも多かった。日本グランプリでは土曜日予選の終盤に雨が強くなり、ミハエル・シューマッハが予選14位に終わり、ラルフ・シューマッハがアタック中にスピンし、タイム計測を行わなかった。ヤルノ・トゥルーリはアタックを行わなかった。予選ではジャガーのマーク・ウェバーが好結果を残すことが多かったが、シーズン序盤を除きトップ4以外のチームが上位に来ることはあまり多くはなかった。ポイント制度の変更はミナルディやジョーダンのような小規模チームには有利になると思われたが、結局そうはならなかった。上位チームは信頼性を上げたためにこれらの2チームには入賞のチャンスはほとんど来なかった。ジョーダンはジャンカルロ・フィジケラがブラジルグランプリで10ポイント獲得し、他2戦で7位と8位を各1回獲得、計13ポイントを獲得し、ランキング9位となった。しかし昨年のポイント制度であれば、ジョーダンはブラジル・グランプリの10ポイントだけになるが、チャンピオンシップのランキングで5位になっていたことになる。ミナルディは最高位がカナダグランプリの9位であり、入賞はならなかった。ミハエル・シューマッハとフェラーリは1位と2位の差が2ポイントしかなく、優勝してもチャンピオン争いをリードしているキミ・ライコネンとの差がなかなか縮められなかった。序盤の出遅れが響き、シューマッハがドライバーズチャンピオンシップの首位に立ったのは6月のカナダグランプリが今シーズン初めてであった。開幕戦ではミハエル・シューマッハがポールポジションを獲得しもう1台のフェラーリ、ルーベンス・バリチェロがフロントローにつけるなど、2002年と大きく変わらないように見えた。しかしながらレースでは波乱が相次ぎ、予選11番グリッドからスタートしたデビッド・クルサードがトップでチェッカーを受けた。結局これがクルサードのF1での最後の優勝となった。キミ・ライコネンはレース中盤にドライブスルーのペナルティを受けた。シューマッハは終盤まで首位を走ったが整流板がはがれ緊急ピットインを強いられた。第2戦では開幕戦の優勝者であったクルサードが序盤にリタイヤ。ライコネンが優勝し、ドライバーズ首位にたった。第3戦ではフィジケラが優勝し、ライコネンが2位。第4戦ではフェラーリのシューマッハが優勝し、レース当日亡くなった母に捧げる優勝を獲得。開幕戦で4人の優勝者が現れる事態になったが、これは1985年以来となった。その後スペイングランプリではフェラーリが新車「F2003-GA」を投入し、このレースと、オーストリアグランプリでシューマッハが優勝した。スペインでは2位にルノーのフェルナンド・アロンソがつけ、この年からルノーがチャンピオンシップ争いに加わるようになった。モナコグランプリ以降はウィリアムズが優勢になった。カナダとイギリスグランプリを除き、ウィリアムズが圧倒的な速さで優勝した。カナダグランプリでは、シューマッハが優勝しドライバーズ選手権でトップになった。イギリスグランプリでは、神父ニール・ホーランがレース中シルバーストンに侵入するという展開になり、「侵入者が出たレースでは優勝する可能性が高い」ルーベンス・バリチェロがシーズン7人目の優勝者になった。ハンガリーグランプリではマシンの特性上このコースに有利なルノーのアロンソが優勝し、シーズン8人目の優勝者となった。8人の優勝者が出るのは、これも1985年以来のこととなる。またアロンソの優勝はそれまでの最年少F1ウィナー、トロイ・ラットマンの記録を更新する最年少優勝者(当時)となった。マクラーレンは開幕2レース以降優勝はないが、多くのレースで表彰台に入りチャンピオンシップ争いを続けた。ウィリアムズはハンガリーグランプリの後、コンストラクターズ選手権でトップに立った。しかしイタリアグランプリではラルフ・シューマッハがテスト中の事故で欠場、マルク・ジェネが代役参戦しラルフのドライバーズ選手権制覇の望みが絶たれた。レースはシューマッハが多くのティフォシの前で優勝。アメリカグランプリではライコネンがPPを獲得、シューマッハは7位に沈みさらにチャンピオン争いが分からなくなるかと思われたが、レース中の降雨によりシューマッハがミシュランタイヤを履く他3チームに対し圧倒的なパフォーマンスを発揮。ライコネンはギリギリ2位で踏みとどまったが、モントーヤはレース序盤バリチェロと接触、ペナルティをうけるなどして後退。ザウバー勢にもラップダウンをゆるし結局6位でドライバーズ選手権争いから脱落。コンストラクターズ選手権もフェラーリが再び首位に立った。最終戦・日本グランプリはシューマッハとライコネンが9ポイント差で争うという展開となった。ライコネンが優勝し、シューマッハが9位以下でフィニッシュしなければ、シューマッハのチャンピオンが決まることになった。レースはシューマッハのチームメイト、バリチェロが優勝、シューマッハも自力で8位に入り、シューマッハは、ファン・マヌエル・ファンジオの記録(世界チャンピオン5回)の記録を更新する、6度目のチャンピオンを獲得した。コンストラクターズ選手権は、ウィリアムズが無得点、フェラーリが11ポイントを積み重ねるという形で、こちらも5年連続、チャンピオンの座を守った。この年はシーズン中盤から最終戦まで激しいトップ5争いが行われた。ザウバー、ジョーダン、ジャガー、BAR、トヨタの5チームが僅差で争った。ジョーダンは第3戦ブラジルグランプリで優勝したが、それ以外は入賞2回と低迷した。ジョーダン・EJ13はフォードコスワースのエンジンを搭載していたが、エンジントラブルが多発し、シーズン半ばには格安エンジン供給を行うといわれたメルセデス・エンジン獲得に奔走したが、結局2004年もフォード・コスワース・エンジンを使用することになった。その他にも、ラルフ・ファーマンのマシンからサスペンションが突然脱落するなど、危険なトラブルもあった。ザウバーはシーズン序盤は好調であったがシーズン半ばのヨーロッパグランプリ以降はポイントを獲得できず、シーズン半ばにはコンストラクターズ・チャンピオンシップでは9位にまで落ちてしまった。しかしレース中降雨のあったアメリカグランプリでは、ハインツ・ハラルド・フレンツェンが自身3年ぶり表彰台を獲得。3年前も同じインディアナポリスでの表彰台であった。「ザウバー」にとってはこの次の表彰台は2012年マレーシアグランプリとなる。フレンツェンはこのシーズンを最後に引退したため、これが最後の表彰台、入賞および完走となった。ジャガーはマーク・ウェバーが予選で上位につけることが多かったが、レースでは最高位6位に終わった。ジャガーは2003年18ポイントを獲得したが、そのうちウェバーが17ポイントを獲得した。当初チームメイトであった、アントニオ・ピッツォニアはイギリスグランプリを最後に実質的に解雇され、代わりにミナルディで走っていたジャスティン・ウィルソンを起用。パフォーマンスは高かったがトラブルやアクシデントなどにより、完走2回。入賞はアメリカグランプリの1度にとどまった。BARはジャック・ビルヌーブとジェンソン・バトンの対立が深まっていった。ビルヌーブは2004年のシートをえられず、最終戦を欠場した。代役に2004年、バトンのチームメイトになることがすでに発表されていた佐藤琢磨が1レース速く起用され、初戦の地元レース・日本グランプリで6位3ポイント獲得、チームメイトのバトンも4位を獲得し、チャンピオンシップ5位を獲得したが、表彰台はかなわなかった。ミナルディはシーズン序盤はジャスティン・ウィルソンとヨス・フェルスタッペンを起用。ウィルソンのジャガー移籍後はデンマーク人ニコラス・キエーサが起用された。シーズン最上位はフェルスタッペンの9位で、2年ぶりの無得点、コンストラクターズ選手権も最下位に終わった。ミナルディは下位チーム救済のための所謂「ファイティング・ファンド」をめぐる問題で、カナダグランプリの記者会見でウィリアムズやマクラーレンといったビッグチームを猛烈に批判した。結局バーニー・エクレストンがチームをバックアップすることになり解決策が図られた。トヨタはオリビエ・パニスが予選で上位をキープすることが多かったがレースは予選順位から下がって戦うことが多くなった。新人のクリスチアーノ・ダ・マッタはチームの方針のため新人としては唯一金曜日朝のテスト走行を行うことができずやや難があったが、スペイングランプリでポイントを獲得した。イギリスグランプリでは侵入者排除に伴うセーフティーカー出動時に首位に立った。なおこの年はミナルディを除くすべてのチームの車両がトップ走行を果たした。とくにアメリカグランプリでは、ブリヂストン・タイヤを履くBAR、ザウバーの2チームとマーク・ウェバーのジャガーが首位を走ったが、いずれのチームも首位を走行するのは初めてであった。トヨタはイギリスグランプリで首位を走った。ミナルディも過去1周だけ、首位を走ったことがある。ミシュラン・ユーザーチームは2001年4勝(ウィリアムズ4勝)、2002年2勝(マクラーレン・ウィリアムズ、各1勝)、であったが今シーズンはブリヂストン・ユーザー9勝(フェラーリ8勝、ジョーダングランプリ1勝)、ミシュラン・ユーザー7勝(ウィリアムズ4勝、マクラーレン2勝、ルノー1勝)とほぼ互角の内容であった。イタリアグランプリ前に、ミシュラン・ユーザーのタイヤについてトレッド幅が違反しているのではないか、という疑惑がもたれるなどした。このシーズンはオーストラリア、ドイツ、ハンガリーの各グランプリでミシュラン勢が表彰台を独占した。ブリヂストンは2002年以降フェラーリ以外の優勝者は出ていなかったが、ブラジルグランプリではフィジケラが優勝し、2001年のアメリカグランプリ、ミカ・ハッキネン以来となるフェラーリ以外のBSユーザーの優勝となった。ハインツ・ハラルド・フレンツェンはアメリカグランプリで表彰台に上がったが、結局ジョーダンとの契約がまとまらず、F1を去りドイツツーリングカー選手権に転向した。またフレンツェンと同じく1994年デビューのヨス・フェルスタッペンもやはりジョーダンとの契約はならず、2004年は休養となった。結局、この2003年を最後にF1を去った。ジャック・ビルヌーブは最終戦を前にBARを離脱。ジャガーおよびジョーダンとの契約はならずF1浪人生となった。結局2004年シーズン途中にルノーへ移籍した。ラルフ・ファーマン、ニコラス・キエーサ、ジャスティン・ウィルソンの3人はデビューイヤーであったが、実戦は今シーズンのみであった。一方ジャガーを解雇されたアントニオ・ピッツォニアは2004年にウィリアムズでラルフ・シューマッハの代役として復帰する。ベルギーグランプリがたばこ広告の問題で2003年のカレンダーから姿を消した。オーストリアグランプリも「A1リンク」としては今回が最後。2014年に復活する。イモラのサンマリノグランプリも危ないという報道があった。※ 3rdドライバーの出走 リタイアしたがレース距離の90%以上を走行していたため完走扱い
出典:wikipedia
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