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境勝太郎

境 勝太郎(さかい かつたろう、1920年3月6日 - 2009年4月12日)は、日本の競馬騎手、調教師。1937年に札幌競馬倶楽部(後に日本競馬会→国営競馬→日本中央競馬会)所属で騎手デビュー。第二次世界大戦をはさみ、1966年までに八大競走3勝を含む540勝を挙げた。騎手引退後は調教師に転身。1970年代後半より、俗に「サクラ軍団」と呼ばれた全演植(さくらコマース)所有馬の主戦厩舎として、1988年度東京優駿(日本ダービー)優勝馬サクラチヨノオーや、ともにGI競走優勝馬で種牡馬としても活躍したサクラユタカオー、サクラバクシンオー親子、1996年度JRA年度代表馬のサクラローレルなど数々の活躍馬を手がけた。1997年2月末をもって定年引退し、以後は競馬評論家として活動した。日本中央競馬会所属の調教師境征勝は長男、調教助手の小島良太、小島勝三、騎手の小島太一は孫。1920年、北海道岩内郡小沢村(共和町)に鉄道員の三男として生まれる。小学生の頃から近隣の牧場で牛追いを手伝い、隣町の倶知安競馬場で見た競走馬の姿にも魅せられ騎手を志した。1935年に札幌競馬倶楽部の清水茂次厩舎に入門。全国の競馬倶楽部が統一され日本競馬会が発足した翌1936年に騎手免許を取得し、同年7月7日に札幌で初騎乗、1937年4月の小倉開催で初勝利を挙げた(騎乗馬ホンラク)。清水は弟子に積極的に機会を与える調教師であり、境も当時の新人騎手としては騎乗馬に恵まれながら過ごした。一方で騎乗内容には非常に厳しい面もあり、勝ったにも関わらず殴られることがあったという。1940年には牝馬のニパトアで特殊競走(重賞競走)の札幌農林省賞典四歳呼馬に勝利。なお、ニパトアは1942年秋に当時の古馬最高格競走・帝室御賞典を制したが、このとき清水が「間違えて」弟弟子の新屋幸吉を騎乗させ、非常な不満を抱いた境は、酒に酔った勢いで包丁を手に清水の自宅に押しかけようとしたという。1944年には清水厩舎のクリヤマトで農商務省賞典(後の皐月賞)を制し、クラシック競走初制覇を果たした。同年結婚したが、太平洋戦争の最中であり、直後に徴兵を受ける。激戦地であるガダルカナル島への要員であったが、入隊前日に同島の日本軍が壊滅し(ガダルカナル島の戦い)、戦地行きを免れる。3カ月後、改めて旭川の部隊に配属され無線係を務めたが、その4カ月後に終戦を迎えた。なお、山口進著『名馬名騎手名勝負』では、徴兵歴について1943年に応召のあといったん帰還し、1944年9月より再応召とされている。戦後は騎手として復帰。「条件のいい」厩舎を転々としながら騎手生活を続けた。1950年にはトサミツルで桜花賞に優勝し、クラシック2勝目を挙げる。同馬は当時所属していた星川泉士厩舎で境が厩務員も兼ねた「持ち乗り」であった。同馬は桜花賞を前に強い調教をかけられて飼料を食べなくなってしまったが、境の手からは僅かずつ食べることを見て取り、夜通し食べさせ続けたといい、騎手時代の一番の思い出としてこの桜花賞を挙げている。また、1953年にはクインナルビーで牝馬として史上4頭目の天皇賞(秋)制覇を果たした。走破タイム3分23秒0は当時のレコードタイムであった。境は同馬について「体のやわらかさが非凡で、終いの非常に切れる馬だった。よく乗り役が、『ベンツとトラックの違い』というのだが、体がやわらかく、乗り味のいい馬は大変走るものだ。クインナルビーはまさにベンツの乗り味だった。先行タイプの騎手だった僕も、この馬に乗るときだけは後方待機の直線強襲と決めていた」述懐している。1957年には腎臓を患い1年の入院を経験。翌1958年、中山競馬場の久保田金造厩舎から日本ダービー優勝馬ダイゴホマレの騎乗を頼まれ、以後拠点を関東に移す。1964年7月25日、史上13人目の通算500勝を達成したのち、1965年をもって騎手を引退した。騎手通算成績は3070戦540勝。うち八大競走3勝を含む重賞8勝。1966年、調教師免許を取得し、中山競馬場白井分場で厩舎を開業。1973年、管理馬キョウエイグリーンがスプリンターズステークスを制し、調教師としての重賞初勝利を挙げる。当時は「キョウエイ」や「インター」の冠名を用いた大馬主・松岡正雄が厩舎を支え、1979年には松岡、芦部照仁、西川幸男の共同所有馬スリージャイアンツが天皇賞(秋)を制し、八大競走制覇も果たした。またこれに先立ち、開業当初からの付き合いだった馬主の角隆の繋がりで、さくらコマース会長・全演植と知り合い、その所有馬を任せられるようになる。以後「サクラ」の馬で毎年のように重賞を制し、1986年にはサクラユタカオーで天皇賞(秋)に優勝した。また、1988年には境、全と密な付き合いを続けていた谷岡牧場の生産馬サクラチヨノオーが日本ダービーに優勝し、境は開業23年目・競馬界入りして53年目にしてダービートレーナーの称号を得た。この競走の最後の直線でサクラチヨノオーはメジロアルダンと競り合い、いったん交わされたことから境は「2着でいい!2着!」と叫んだが、ゴール寸前で再び差し返しての勝利であった。勝利を知った境は、腰が抜けて立てなくなっていたという。同年12月にはチヨノオーの弟のサクラホクトオーが朝日杯3歳ステークスを制し、前年に勝っていたチヨノオーと兄弟での連覇を達成した。1993年12月、全演植が死去。その9日後に行われたスプリンターズステークスではサクラユタカオーの子・サクラバクシンオーが優勝を果たした。以後馬主業は息子の全尚烈が引き継ぎ、サクラバクシンオーは翌1994年のスプリンターズステークスも連覇した。さらに1995年にはサクラチトセオー、サクラキャンドル兄妹がそれぞれ天皇賞(秋)とエリザベス女王杯に優勝。調教師生活最晩年の1996年には、境が自身が手がけた最強馬と評するサクラローレルが本格化を迎え、天皇賞(春)と年末のグランプリ競走・有馬記念に優勝して年度代表馬に選出された。有馬記念は境が「死ぬまでに何とかして一度有馬に勝ちたい」と念願していた競走であり、ラストチャンスでの勝利となった。同年境も東京競馬記者クラブ賞を受賞した。1997年2月28日をもって定年により調教師を引退。調教師としての通算成績は5202戦656勝、うち重賞は八大競走・GI競走11勝を含む53勝であった。引退後は競馬評論家として活動。スポーツニッポン紙上では「水戸黄門」をもじった「美浦黄門」の愛称で呼ばれ、自身の経験を交えた分かりやすい予想解説で人気を博した。1998年には皐月賞と桜花賞を連続的中させ、スポーツニッポンから感謝状を贈られている。また、騎手時代からの親しい付き合いで、同紙大阪本社と契約していた浅見国一とは「東西予想マッチ」という形で仕事を共にした。紙上での活動のみならず、全国各地のイベントにも足を運んだ。2009年4月12日4時54分(JST)、合併症のため逝去。。開業当時厩舎を置いていた中山競馬場白井分場は、僻地であった上に馬場が小さく路面も劣悪で、当時主流だった長距離を走らせる調教ができなかった。境は苦肉の策として5ハロン(1000メートル)程度の距離で済ませる調教を試みたが、思いのほかに成績を挙げることができたことから、1978年に厩舎が美浦トレーニングセンターに移ってからも同様の方針をとり続けた。短い距離で済ませる調教は時代が下ってから主流になるもので、境は馬場の狭さからいち早くこれを取り入れることができた。また、「"(故障馬の)"8割から9割は蹄鉄で壊す」という自論を持ち、装蹄師には「鉄は必ず僕の見ている前で、僕の言う通りに打ってくれ。馬を勝手に引っ張り出して打ったりしたら金は払わん」と言っていたという。著書の中では「人間が合わない靴を履いていれば靴擦れを起こすように、馬はフィットしない蹄鉄を履かされてガラスの脚を傷める」「種牡馬の質、育成のノウハウ、馬場の高速化などで、レースが速くなっている。馬の脚への負担も計り知れないわけである。紙一枚の削り方にもこだわって、少しでも負担を軽減してやらなければならない」と述べている。サクラローレルは境の定年後に行ったフランス遠征で、屈腱不全断裂という重度の怪我を負い引退に追い込まれたが、境はこれも現地の装蹄師に原因があったとしており、「"(脚に)"爆弾を抱えていたユタカオーがあそこまで走れたのも、鉄のおかげです。ローレルは鉄でだめになった」と述べている。調教師時代は、自身の管理馬の状態やレースに向けての意気込みで強気な発言を繰り返したことから「境ラッパ」と呼ばれた。発言に結果が伴わないこともしばしばであり、「境師の吹いた馬は消し(レースに勝たないという意)」とも言われていた。競馬評論家の大川慶次郎は「新聞記者には、調教師の言うことを100%信じている人が多いから、境厩舎の馬はいつも人気になって、ファンの期待を裏切ることが多い。とくにGIの前に新聞やラジオのコメントを聞くと、いつも『デビュー以来最高のデキです』としか言わないんですよ。境さんは本当にそう思ってるのかもしれないけど(笑)、そういうマスコミ泣かせの発言をするところが、僕は嫌いで」と述べている。一方で、ライターの石田敏徳は「現場で取材していると境が口にする強気なコメントは、"こう喋れば記事を書きやすいだろう"という、いわばサービス精神の発露として感じられることがあった」と述べている。境自身は著書の中で、1996年の有馬記念を前に「今のサクラローレルを負かせる馬は、日本におらんでしょう」と発言し、新聞に「境ラッパ、鳴り響く」と書かれた出来事を引き合いに出し、「僕のことを〈ラッパ〉だなんていうヤツがいる。"(中略)"何がラッパなものか。せっかく正直な気持ちをはっきりと言ったのではないか。腹が立って、『君たち、もう僕のところに話を聞きにくるんじゃないぞ』と文句を言ったことがあった」と不快感を示していた。最大の後援者であった全演植との関係について、境は「会長あってこその境だった。もし会長と巡り会わなければ、今頃私はどうなっていたか分からない。網走の刑務所に入っていたかもしれない」と述べている。サクラバクシンオーなどを生産した社台ファームとの付き合いも全の提言から始めたもので、社台ファームの所有種牡馬ノーザンテーストの子が活躍を始めた頃、北海道に赴く飛行機の中で「これからは社台の時代がくる。ノーザンテーストの時代がくる。だから今日はまず社台に寄って、何頭か買っていこう」と諭すように言われたといい、境はこれについても「大変な先見の明」と述べている。一方で、自身の弟子を差し置いて、全が実子のように可愛がっていた小島太を乗せ続けなければならなかったことについては、「東信二はじめ僕の厩舎の所属騎手たちにはずいぶんかわいそうなことをした。乗せてやりたくても、何しろうちの管理馬の7割まではサクラさんの馬で、太が乗るものと決まっていたのである。たとえばうちの東が、太と比べて明らかに腕が劣るならまだしも、はっきり言って、太の騎乗はおよそ僕を満足させるものではなかった」と不本意だったことを明かしている。ただし、境は小島の騎乗フォームについては「日本一」と評しており、また、「サクラユタカオーの天皇賞とサクラチヨノオーのダービーは、小島の腕で勝ったようなもの」とも語っている。※括弧内は境騎乗時の優勝重賞競走八大競走優勝馬その他重賞勝利馬※括弧内は境管理下の優勝重賞競走。安田記念・スプリンターズステークスはGIに格付けられた1984年・1990年以降のみGI級として扱う。八大競走・GI級競走優勝馬その他重賞勝利馬※太字は門下生。括弧内は厩舎所属期間と所属中の職分。

出典:wikipedia

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