手倉森 誠(てぐらもり まこと、1967年11月14日 - )は、青森県五戸町出身の元サッカー選手、サッカー指導者(S級指導者ライセンス所持)サッカー日本代表コーチ。サッカー指導者の手倉森浩は双子の弟にあたる。青森県立五戸高等学校3年時、第64回全国高等学校サッカー選手権大会に出場しベスト8に進出。卒業後、日本サッカーリーグ2部の住友金属に入団。1986年にユース日本代表に選出され、第25回アジアユース選手権大会1次予選に出場した。なお、住友金属(1992年にプロ化して鹿島アントラーズ)には1992年まで在籍した。住友金属時代はパチンコなどギャンブルに明け暮れていたといい、酷い時にはパチンコ店に手倉森を探しに来たジーコの目から逃れるため、パチンコ台の下に隠れたこともある。鹿島から戦力外通告を受けた1992年暮れには、やけになって中山競馬場に足を運び、全財産を2日で使いきってしまった(金額については600万円とも1200万円ともされている)。結果として無一文となったが、翌1993年にNEC山形サッカー部(現:モンテディオ山形)から声がかかり移籍。手倉森はこのことを教訓に、以後ギャンブルはきっぱり止めた。1995年に引退。当時、山形の監督だった石崎信弘に勧められ同年指導者となり、モンテディオ山形や大分トリニータのコーチを歴任した。2004年からベガルタ仙台のコーチとなる。2007年よりヘッドコーチを歴任。また同年より手倉森浩が仙台のスタッフに加わった。2008年、望月達也の監督辞任を受け監督に就任する。監督就任当初から、AFCチャンピオンズリーグ(ACL)の出場を目標に掲げた。この年のJ2で3位の成績を残しJ1・J2入れ替え戦に進出したがジュビロ磐田に1分1敗と負け越し、Jリーグ ディビジョン1 (J1) 昇格はならなかった。2009年、Jリーグ ディビジョン2で優勝、第89回天皇杯全日本サッカー選手権大会でベスト4の成績を収めた。2010年よりJ1へ昇格。14戦連続無勝利(5分9敗)を喫したが、14位でJ1に残留した。2011年は東日本大震災に伴う約1ヵ月半の中断期間があったが開幕から12戦連続不敗(6勝6分)を記録、震災後初戦となった4月23日の川崎フロンターレ戦で逆転勝ちした際、試合後のインタビューで感極まり涙を流した。最終的に4位の成績でシーズンを終えた。2012年シーズンは前年を上回る2位の成績を収め、チーム初のACL出場権獲得を果たした。2013年10月10日、翌2014年より2016年夏季オリンピックリオデジャネイロ大会(以下「リオ五輪」)出場を目指すU-21(21歳以下)日本代表監督就任を発表した。これに伴い、2013年シーズン終了を以って仙台監督を退任した。2014年1月2日、U-21日本代表監督就任(契約期間は2016年8月31日まで)。就任早々、AFC U-22アジアカップ2013に臨んだが、ベスト8で敗退した。また、6月8日のJ3第15節FC琉球戦から11月23日の第33節ブラウブリッツ秋田戦まで、Jリーグ・アンダー22選抜のコーチとして登録された。同年8月から2015年2月までは、日本代表コーチを兼任した。2016年、リオ五輪最終予選を兼ねたAFC U-23選手権2016では4-4-2をベースに戦った。ベストメンバーを作らずに毎試合違うメンバーで挑み、グループリーグから5戦全勝で決勝に進出(この時点でリオ五輪出場権を獲得)。決勝の韓国戦では0-2とリードされていたが、浅野拓磨の投入が当たり3-2で逆転勝ちし、優勝を飾った。8月のリオ五輪ではグループリーグ初戦のナイジェリア戦では堅守構築に至らず、第2戦のコロンビア戦では勝負どころの見極めに失敗。第3戦のスウェーデン戦には勝利したものの、1勝1分1敗(勝ち点4)の3位で決勝トーナメント進出は果たせなかった。同五輪終了を以って、チーム解散。それに伴い、監督を退任。!colspan="4"|日本!!colspan="2"|リーグ戦!!colspan="2"|!!colspan="2"|天皇杯!!colspan="2"|期間通算colspan="2"|-||0||0||0||0||0||015||0||||||||||||
出典:wikipedia
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