サウジアラビア王国(サウジアラビアおうこく、)、通称サウジアラビアは、中東・西アジアの国家。首都はリヤド。サウード家を国王に戴く絶対君主制国家で、アラビア語による国名のアル=マムラカ・アル=アラビーヤ・アッ=スウーディーヤは「サウード家によるアラビアの王国」を意味する。世界一の原油埋蔵量を持つ国であり、石油(原油)をアメリカをはじめ世界中に多く輸出している。アラビア文字による正式名称は(翻字: , アル・マムラカ・ル・アラビーヤ・ッ・スウーディーヤ)。通称(, アッ=スウーディーヤ)。公式の英語表記は Kingdom of Saudi Arabia(キングダム・オヴ・サウディ・アレイビア)。通称 Saudi Arabia(サウディ・アレイビア)。日本語の表記はサウジアラビア王国。通称サウジアラビア。まれにサウディアラビアとも表記される。サウジと略して呼ばれることも多い。リヒテンシュタインと同様に、国連加盟国でも非常に珍しい「統治王家の名前」を国名にしている国家である。この国が現在存在する地域には長い歴史があるが、サウード王家自体は1744年に中央アラビアのナジュド地方に登場している(第一次サウード王国)。この年、リヤドの近くにあるディルイーヤの支配者は宗教指導者と盟約を結び、新たな国家体制をつくった。この同盟は18世紀に形成され、今日のサウジアラビア王朝の統治の基礎となっている。続く150年間、サウード家はアラビア半島の支配を巡ってエジプトやオスマン帝国そして他のアラブ部族のジャバル・シャンマル王国と争い興亡を繰り返した(第二次サウード王国参照)。第三のそして現在のサウード国家は、1902年に僅か22歳のアブドゥルアズィーズ・イブン・サウード国王(サウジアラビア王国の初代国王)がサウード王家先祖伝来の本拠地リヤドをライバルのラシード家から奪回し、ナジュドで建国したものである(ナジュド及びハッサ王国)。アブドゥルアズィーズは征服を続けて、1913年からハサー、1921年のまでにカティーフ、ナジュドの残り(ナジュド・スルタン国)、1926年までにヒジャーズを制圧した()。1926年1月8日、アブドゥルアズィーズはヒジャーズの王(マリク)となる。1927年1月29日にはナジュド王の称号を得た(彼の以前のナジュドの称号はスルタン)。1927年5月20日に結ばれたによってイギリスはアブドゥルアズィーズの領域の独立を認め、ヒジャーズ・ナジュド王国が成立。1932年に主要地域のハサー、カティーフ、ナジュドそしてヒジャーズが統一してサウジアラビア王国が成立した。1934年、、を併合。アブドゥルアズィーズの政治的成功も経済までには及ばず、1933年にサウジアラムコが設立され1938年3月にダーラン(ザフラーン)で「ダンマン油田」が発見されるまで国は貧しい状態だった()。油田開発は第二次世界大戦のために中断したものの、1946年には開発が本格的に始まり、1949年に採油活動が全面操業した。石油はサウジアラビアに経済的繁栄をもたらしただけでなく、国際社会における大きな影響力も与えた。アブドゥルアズィーズは1953年の崩御を前に、拡大した一族ネットワークに依拠する他の地域の絶対的支配者たちと対する難しさに配慮して王位継承の規定を図っている。同年に次男サウードが父の死を受けて第2代国王に即位したものの、1960年代にサウードの経済的失政によって王国は危機に陥り、またエジプトのナーセル大統領からの地域的な難問への対応にも失敗してしまった。その結果、1964年にサウードは退位させられ、代わって異母弟のファイサルが第3代国王に即位した。1973年の第4次中東戦争に際してサウジアラビアはいわゆる石油戦略を用い、石油危機を引き起こした。この後、サウジアラビアを初めとする石油輸出国機構 (OPEC) が大きな国際的影響力を発揮するようになる。1975年に家族間抗争が一因でファイサル国王が甥の王子により暗殺された。その後、やはり異母弟のハーリドが王位を継ぎ第4代国王となった。1979年にイラン革命に影響を受けたイスラム過激主義者によるアル=ハラム・モスク占拠事件が発生。武力で鎮圧したものの、以後、イスラム過激派に配慮した政策を行うことになった。1982年にハーリドが崩御して異母弟のファハド(「スデイリー・セブン」の一人)が第5代国王に即位する。1990年にイラクが隣国クウェートを侵略して湾岸危機が起こると、国土防衛のために米軍の駐留を許可した。聖地メッカのあるサウジアラビアに異教徒の軍隊が駐留することに敬虔なイスラム教徒たちは反発し、後に同国人のウサーマ・ビン=ラーディンが反米テロを組織する原因ともなった。2005年にファハドが崩御し、彼の異母弟のアブドゥッラーが第6代国王に即位した。アブドゥッラー国王治世下では、スルターン、ナーイフ、サルマーンのスデイリー・セブンが3代続けて皇太子を務めた。2015年1月、アブドゥッラーが崩御し、異母弟のサルマーンが第7代国王に即位、異母弟のムクリンが皇太子となった。同年4月、ムクリンは皇太子を解任され、ナーイフ元皇太子の息子のムハンマド・ビン・ナーイフが皇太子となり、第3世代王族への王位継承に初めて道筋をつけた。サウード家による絶対君主制でワッハーブ主義に基づく厳格なイスラム教義を国の根幹としており、後述の時期になるまでは憲法をもたなかった政教一致。要職は王族が独占しており、ギネスブックには王族の数が世界最大と記載されている。サルマーン現国王は第2世代であるが現在は第6世代まで誕生している。建国以来、長年にわたって不文憲法を貫いていたが、ヒジュラ暦1412年シャアバーン27日(1993年3月1日)に公布された統治基本法が憲法の役割を果たすようになった。また、同時に諮問評議会法や地方行政法も発布され近代法治国家としての体裁が整えられた。政府は統治基本法が憲法であるとしているが、一方でその第1条に「憲法はクルアーンおよびスンナとする」と明記されており、実態はクルアーンこそが“憲法”である。従来は内閣も議会も存在せず、勅令が法律公布と同義となり、行政も勅令の他、クルアーンやシャリーア(イスラム法)に則って施行されてきたが、統治基本法公布によって選挙が行われ、内閣に相当する閣僚評議会や国会に相当する諮問評議会、そして地方議会も設置された。ただし首相格の閣僚評議会議長は国王の兼任である。国内は13の州に分割されている。勅任の知事(アミール)が就任するがサウード家出身者以外は認められない。税金のない国と言われることもあるが、実際には統治基本法にザカート税(喜捨の義務)が明記されており、ザカート税法の規程が存在する。徴税担当は「所得税およびザカート税省」。属人主義であるシャリーアを基準とするサウジアラビアではサウジアラビア人とそれ以外の外国人では適用される税法が異なる。税率的にはほとんど変わらないが、サウジアラビア人にはザカート税を、外国人には所得税を課す。税金がないといわれる一因には、ワッハーブ派の法理ではザカートとワクフ以外の財産徴収はシャリーアに反する搾取であると考えられているため、欧米で言うところ税金は搾取であり憲法違反であるとされているからである。これはオイルマネーで潤っているからというわけでもなく、油田発見以前の貧しい国だった時代にも初代国王が欧米式の税制を導入しようとした時にイスラムに反するとして猛反対されて実施されなかった過去がある。ザカート、ワクフは欧米の税金とは違うものであるとする主張を採用すれば税金のない国となる。サウジアラビアでは宗教が法律となりコーランに基づくイスラム法(シャリーア)により統治が行われている。しかし、実際は部族的慣習がそのまま社会的慣習となっているケースが多く、数々の矛盾を孕んでいるため、他のイスラム圏では見られない独特の環境を生み出している。この複雑な法体系の近代化が進められ、現代では大幅に制度改革が実施されている。司法は原則としてワッハーブ派に基づいて執行されることになっているが、東部州のシーア派住民は法務省の下位機関であるシーア派裁判所のシーア派の裁判官(カーディー)による裁判権が認められている。このため、一国に二種類の刑法と民法が存在するという複雑な事情があり、どちらの裁判所によって判決が出されるかによって適用される法律が異なる場合もある。ただし、シーア派に認められているのは24条の刑法と婚姻、遺産相続、ワクフのみであり、ワッハーブ派住民とシーア派住民の間で訴訟になった場合にはワッハーブ派の法が優先される差別的な状況になっている。通常の警察組織とは別に、勧善懲悪委員会と呼ばれる宗教警察が厳しい取り締まりを行っており、違反者は外国人であっても問答無用で逮捕される。原則的に女性と男性は完全に区別されている。女性による自動車の運転の禁止(イスラムでは禁じられていない)や公共の場所でのアバヤ(ベール)、ヒジャーブ(スカーフ)、ニカーブ(顔のベール)の着用は、一般にサウジアラビアの習慣について語る際にしばし用いられる特徴的なことであろう。男尊女卑が定められており、結婚、就職、旅行など全ての行為について、女性は父またはその男兄弟(即ち、伯父または叔父)、夫などの「男性保護者」の許可が必要である。20世紀初頭までのアジアでのいわゆる「三従」に似る。裁判はアラビア語のみで行われ、仮に被告がアラビア語を理解できなくても通訳なしで一方的に進められる。また、証人はイスラム教徒の男性がアラビア語で証言しなければ証拠能力を認めない。このため、アラビア語を理解できない外国人労働者には極めて不利な裁判になる。飲酒やポルノ類の持込などに対しては重刑が課せられる。イスラム思想に則り法整備をしており、麻薬、強姦、殺人、同性愛においては死刑、窃盗においては手首切断や、飲酒においては鞭打ち刑などの身体刑を行っており、また裁判についても被告人が理解できない言語で公判が進められたりと公平でない上、判決を容認しない場合は弁護士などは資格を剥奪される。これらの法令は西欧各国のメディアにより非難されている。2005年5月にはスリランカから出稼ぎに来ていたリザナ・ナシカというメイド(事件当時17歳)が赤ん坊にミルクを与えた際に気管に詰まり、メイドが救命措置を取ったが死亡してしまい、事故死ではなく殺人であるとされ死刑が宣告された。スリランカ政府は寛大な処分を求めたが、それにもかかわらず2013年1月、斬首刑が執行された。ムハンマドの慣例に従い9歳女子との結婚を認めるというイスラーム法が存在するため、10歳前後での早婚も公に認められている。一例ではあるが親の借金のかたに結婚させられる8歳の幼女までも存在し、上記のイスラーム法に定められた年齢になるまで性行為を行わないことを条件に結婚の継続が承認されている。これに関しては批判も少なくないが、サウジの大ムフティーであるアブドルアジズ・アール=アッシャイフが、イスラーム法上10歳の少女でも結婚・性行為の対象とすることができ、批判者は少女への不正義を行っていると逆に批判した。名誉殺人も存在しているとされ、認められれば罪に問われないことが多い。家族を他の宗教に改宗させようとした外国人とその家族を射殺した男は、これにより無罪判決が下った。ディーヤと呼ばれる制度があり、被害者の法定相続人が加害者を許した場合は罪に問われない。これは金銭によって示談になった場合にも適用される。前時代的といわれるサウジアラビアの司法制度であるが、近年になってからはさまざまな司法制度改革が行われ、法制度の近代化が進められている。建国以来、長年にわたって憲法がなかったが、1993年3月1日に公布された統治基本法が実質的な憲法となった。シャリーアでは特許や著作権などの欧米では一般的な権利について認めていなかったが、1989年に特許と著作権に関する法律が施行され、1990年には特許を認定する特許局が設置された、サウジアラビア人の特許が初めて認められたのは1996年のことである。特許は15年間有効とされ、さらに5年間の延長が可能である。ただし、サウジアラビアで公式の暦はヒジュラ暦であり、1年がグレゴリオ暦にくらべて11日ほど短いため、期限切れがグレゴリオ暦のそれよりも若干早く来るという特徴がある。2007年10月に出された勅令により始まり、2009年2月14日の勅令で大規模な司法制度改革が行われた。今までの最高司法委員会に代わって最高裁判所、控訴裁判所、普通裁判所が設置され日本や欧米のような三審制の裁判が行えるようになった。2009年2月14日の勅令で大規模な人事異動が実施され、初めての女性副大臣が誕生するなどリベラル派人材への大幅入れ替えが実施された。国際人権規約(自由権、社会権)を未だ批准せず、前時代的な法制度や人権侵害に対しては欧米諸国だけでなく、他のイスラム諸国からも抗議が尽きない。しかし、批判国に対する石油輸出停止などの報復がたびたび実行されているため、これらの報復を恐れて国交断絶や経済制裁などを発動する先進国は皆無となっている。特に中東有数の親米国家であることから、“自由民主主義の守護・伝道者”をもって任じるはずのアメリカ合衆国が、制裁を行なうどころかアメリカ中央軍の部隊を駐留させて中東の反米諸国ににらみを効かせるという恩恵にあずかっている。サウジアラビアにおいては、前近代的なイスラム法に基づく人権蹂躙が数多く報告されている。これはサウジアラビアでは宗教が法律と融合しイスラム教を擁護する法としてのイスラム法が規定され、それに基づいて行政が執行されているためである。当然ながら国際的な自由権規約・社会権規約とも批准していない。このため近年は、欧米諸国からのみならず他のアラブ諸国からも人権擁護を求める声が寄せられる。基本統治法は第26条で「王国はイスラム法にのっとり人間の権利を保護するものとする」と明文規定するが、ここに定める“人間の権利”とはイスラム法における権利であって、現代西洋の人権思想における「人権」とは異なる概念である。具体例として、性的自由の抑圧、人体の切断(窃盗犯は手を手首から、性犯罪者は陰茎を)や公開の斬首刑などの刑罰、老人による幼女少女との強制結婚などがある。また、雇用主による外国人就労者に対するパスポートの取り上げ(スポンサー制度)も横行しており、国際労働機関から再三にわたり改善勧告を受けている。近年、スポンサー制度を一括管理する民間機関の設置が議論されているが、本格的な実施には至っていない。2014年2月には、「社会の安全や国家の安定を損なう」全ての犯罪行為、「国家の名声や立場に背く」行為をテロリズム行為と断じ、処罰対象にする対テロ法を施行した。これにより捜査当局は“容疑者”の尾行や盗聴、家宅捜索が可能になる。ヒューマン・ライツ・ウォッチは「当局がすぐに平和的な反体制活動家に対して新法を利用するだろう」と警鐘を鳴らした。サウード家を始めとする政府中枢と支配層はスンナ派(ワッハーブ派はスンナ派に含まれる)である。皮肉にもサウジアラビアは2015年に国際連合人権理事会の議長国となっている。最初に国交を結んだ国はソビエト社会主義共和国連邦であり、事実上計画経済をとるにも関わらず () 、君主制のために独立後、冷戦時を経てアメリカ合衆国や宗主国イギリスなどの西側諸国との関係が深く、特に中東では最大の親米国家であり同盟関係を持っている。そのため、サウジアラビアの人権侵害等を西側諸国は表立っては非難しない最大の要因となっており、外交では常にサウジアラビアの姿勢・立場を擁護しており、イランやシリア等の反米国家に対する対応とは正反対となっている。一方でイスラム教国の盟主的な存在であることから、ユダヤ人国家であるイスラエルを承認していない。しかし両国ともにアメリカやイギリスとの関係が深いことから、表面的には対立を避けている。また、歴史的な関係が深く、ともに王室が存在しているスペインとは王室同士の交流が頻繁にあるなど、元来友好関係が深い。なお、イスラム国家に対する対立の歴史がない日本とも特に1960年代の高度経済成長以降日本がエネルギー外交を進めることもあり、石油の輸出入などの貿易を含め敵対的でない関係にある。しかし、サウジアラビアには人権(特に自由権)について大きな問題があるため宮内庁は日本の皇室のサウジアラビアへの接近には極めて慎重である(表向きは日本と違いすぎる気候と政情の不安を理由とする)。反面、経済的理由からサウジアラビアとのつながりを深めたい内閣等の強い要望で、皇太子徳仁親王が何度か訪問したことがあり、アブドラ国王崩御の際にも訪問されている。シーア派のイランとは敵対関係にあり、2016年1月2日にサウジアラビアがシーア派の有力指導者を処刑したことをきっかけにイランとの関係は急速に悪化。イランの首都テヘランにあるサウジアラビア大使館が襲撃されたことをきっかけにイランとの国交を断絶し、これにバーレーン、スーダンも続いてイランとの国交断絶を表明した。シーア派に近いアラウィー派のシリアのアサド政権とも強く敵対してきた。また、両国の同盟国であるロシアとの関係も良くないとされる。ウガンダのイディ・アミン、パキスタンのナワーズ・シャリーフ、チュニジアのザイン・アル=アービディーン・ベン=アリーなどの亡命を受け入れた。基本統治法33条によればサウジアラビア軍が守るべきものの優先順位は一に「イスラム教義」、二に「二聖モスク」(マスジド・ハラームと預言者のモスク)、三番目が「社会と祖国」であり、「国民」の防衛は含まれていない。少なくとも建前の上では、国民及びその権利を守ることを第一とした民主国家の軍とは基本理念が異なる。アメリカ軍と親密な関係を持ち、アメリカ中央軍第3軍の部隊駐留を認め、キング・ハリド軍事都市など国内にいくつもの米軍基地を置かせている。兵站に必要な軍事施設同士の道路交通網などもアメリカによって整備されている。装備はアメリカ式のものだけでなく世界中からさまざまな装備を採用しており、たとえば主力戦車としてアメリカのM1エイブラムスとロシアのT-90をともに300両以上保有するなど、多種多様な兵器を装備している。その背景には、武器購入を通じて緊密な友好関係を結ぶことや、軍部と軍事産業との汚職がある。特に、駐米大使を長く務めたバンダル・ビン・スルターン王子(当時国防大臣だったスルターン皇太子の息子 2012年から2014年まで総合情報庁長官)は1982年のF15の輸入に際してアメリカ議会で強力なロビー活動を展開し、またBAEシステムズとの400億ポンドにのぼる取引でも王子側に10億ポンドの賄賂が渡ったことが明らかになっている。2011年の軍事支出は485億USドルと若干の増加傾向にある。使用する兵器の大半は輸入に頼っているが、1998年にはダンマームの工場で国産のファハド装甲車を生産するなど、工業基盤の成熟に伴い兵器の国産化を始めている。湾岸戦争とイラク戦争では後方基地としての役目を担っていた。志願制であり、職業軍人により構成されている。アラビア半島の大部分を占め、紅海、ペルシア湾に面する。中東地域においては面積が最大級である。北はクウェート、イラク、ヨルダン、南はイエメン、オマーン、アラブ首長国連邦、カタールと国境を接する。かつては、イエメン、オマーン、アラブ首長国連邦との国境線は大部分が未画定であったが、2000年までにすべて画定した。アラブ首長国連邦との国境は1974年の条約によって一時画定し、これによりサウジアラビアはアル・アイン周辺の数ヶ村をアラブ首長国連邦へ譲り渡す代わりにカタールとアブダビとの間のアラビア湾に面した地域の割譲を受けて、アラブ首長国連邦とカタールとは国境を接しなくなった。しかし2006年にアラブ首長国連邦政府はふたたび割譲した地域の領有権を主張し、紛争が再燃した。国土の大部分は砂漠で、北部にネフド砂漠、南部にルブアルハリ砂漠(広さ25万平方km)があり、その間をアッダハナと呼ばれる長さ1500kmに及ぶ砂丘地帯が結ぶ。鉄分を含むため赤色を呈し、衛星画像で弓状に曲がった地形が識別できる。砂漠と紅海の間には中央山地(北のヒジャーズ地方からトワイク山地)があり、西部で標高1500m、東部で800mである。南部には最高地点である(標高約3000m)がそびえる。砂漠気候で夏は平均45°C、春と秋は29°Cで、冬はまれに零下になる。昼夜の気温差が大きい。国内には13の州があるが、知事(アミール)は、すべて王族が勅任されている。西部にはイスラム教の2大聖地であるメッカとマディーナがあり、世界各地から巡礼者が訪れる。2007年からは非ムスリムに対しても観光ビザが発行されるようになったが、団体ツアーのみ発行され個人には発行されていない。個人入国を認める査証は巡礼(巡礼ビザ、ムスリムのみ)か政府や各種団体(外交官ビザ、公用ビザ)、現地企業の招聘による仕事(商用短期訪問ビザ)、サウジアラビア在留者の家族(家族訪問ビザ)の場合のみ発行される。女性は既婚者が原則で夫または男性の近親者同伴、単独の場合は30歳以上であることが条件。国営航空会社のサウジアラビア航空が世界各国を結んでいる他、外国航空会社がリヤードやジッダなどの主要都市に乗り入れている。サウジアラビアでは交通事故の死亡者は増加傾向にあり、2000年には3500人だった死亡者は2007年には6300人と激増し、交通事故総数が435,264件である。 交通事故による負傷者も過去10年間で30万人を越え2000人以上が重大な障害を負うなど、 交通事故は死亡理由、負傷理由の上位を占めている。 2000年には200億サウジ・リアルだった経済損失も2007年には3460億サウジ・リアルにまで増大している。 2000年から点数制度が導入され、取り締まりが強化されているが、事故、死傷者とも増加傾向にある。 若者の間では「サウジドリフト」と呼ばれる暴走運転が広く行われており、暴走族が社会問題化している。サウジアラビアは世界で唯一、女性が自動車を運転することが禁止されている国である(運転免許の取得が法的に認められておらず、社会通念的にも運転は禁止されていると見なされる)。ただし、女性が財産として自動車を所有することは禁止されていない。このため、女性が自動車を利用するには運転手を雇うか、親族男性に運転してもらうしかない。2015年のGDPは約6320億ドルであり、東京都よりやや小さい経済規模である。同年の一人当たりGDPは2万138ドルである。OPECの盟主的存在であり、石油などの天然資源の採掘と輸出が主な外貨獲得源(石油が外貨収入の約90%を占めている)となっているほか、これらで獲得した外貨を世界各国で投資運用している。中央銀行は1952年に設立された通貨庁であり、政府系投資ファンドとしても知られている。しかしながら製造業などは小規模なものしか存在せず、また巡礼者や業務渡航以外の一般観光客を受け入れていないことから、観光業による外貨獲得も非常に低い。この為、近年では政府主導でITなどを中心とした経済多角化を進めているが、依然として天然資源開発関連以外の分野においては外国資本導入が進んでいない。2010年9月、英国のシンクタンクのZ/Yenグループによると、リヤドは世界第69位の金融センターと評価されており、中東ではドバイ、カタール、バーレーンと比較するとまだ出遅れている。G20の一員となっている。サウジアラビアの水資源は、古くはオアシスなどの湧水と井戸からの取水に頼ってきた。聖地メッカではザムザムの泉と呼ばれるわき水を頼りに定住生活が営まれてきた。1932年に300メートル以上の深井戸の掘削に成功すると化石水の採取により水の供給量は大幅に増加し農業生産を支えている。汲み上げられる地下水は、アラビア半島が湿潤だった1万年以上前に降った雨水が地下の帯水層に閉じこめられた化石水であり、現在ではほとんど補給されることがない。このため各地の井戸では水位の低下が深刻になってきており、現在のペースで水を使い続ければ、地下水資源は2040年までに枯渇すると予測されている。サウジアラビアは世界最大の海水淡水化プラント稼働国である。20余りの主要都市に人口の80%が集中しており、都市部ではオアシスや地下水だけではまったく足りないため、海水淡水化プラントからの供給無しには生活できない。アシュベールにある世界最大のプラントは毎日100万トンを生産しており、国全体では年間で12億2千万立方メートルの水を海水淡水化によって得ている。プラントの多くは1970~1980年代に建設されており、2000年ごろから多くのプラントが老朽化を迎え始め、メンテナンスと建て替えのために多くの事業が日本を始めとする海外へ発注されている。主要都市では下水を再処理して都市周辺の農業用水に回すための浄化施設がある。海水淡水化プラントから供給される水は1リットルあたり2リヤルのコストがかかり、さらに内陸部へ送水するのに1 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2リヤルのコストがかかるため、大変に高価な水である。しかし、水道代は10トン1リヤルほどで、一般家庭の水道代が1か月4リヤルを超えることはあまりない。送水設備とコストの関係から主要都市部以外への送水はあまり活発ではなく、地方では古来からの井戸とオアシスの水源に頼っている。リヤドなど内陸部でも毎年冬場になると数日は雨が降る。ただ、砂漠気候であるため、わずかな期間に集中して降り、数日経てば再び乾燥するため水資源としての価値はない。近年になってからは降雨量は増加傾向にあり、雨が降ると都市の低地が水没するようになっている。もともと砂漠であるため都市部には排水路などの水害対策の設備が全くなく、毎年水害によって数十人の死者が出ている。膨大な地下水のくみ上げと淡水化プラントによって総雨量を超えるほどの水が使用されていることが原因ではないかと言われており、実際にここ20年あまりでサウジアラビアの気候が穏やかになってきている。広大なアラビア半島には古来から続く無数の部族勢力が跋扈しており、サウド家による長年の中央集権化政策・部族解体政策にも関わらずサウジアラビア人という民族意識の形成は至っていない。部族社会が定住民だけでなく遊牧民から形成されていること、各地に点在する少数派宗教なども状況を難しくしている。サウード家自身、中央集権化政策が頓挫するたびに部族間・宗教間のパワーバランスを権力保持に利用している概ねサウジの住人は、サウジ国民という意識の前に「どの部族の出身か」(部族対立)、「どの地方の出身か」(地方対立)、「どの宗派を信じるか」(宗教対立)、「どの階級に属するか」(階級対立)で自らを認識しているという。統計局が発表した2010年の人口統計は27,136,977人で、サウジアラビア国籍が18,707,576人と全体の69%に過ぎず、外国人が8,429,401人となっており、総人口の31%が外国人労働者である。最も多い外国人はインド人とパキスタン人でそれぞれ130万~150万人に達する。次いで、エジプト人、イエメン人、バングラデシュ人、フィリピン人、ヨルダン人、インドネシア人、スリランカ人、スーダン人などが多くなっている。労働省によると、登録されている家庭内労働者120万人のうち、女性48万人がメイド(アラビア語:خادمة)として登録されている言語は公用語が古典アラビア語で、日常生活での共通口語は、サウジアラビアの現代口語アラビア語変種である。外国人労働者の母語として、いくつかの言語が話されている。宗教はイスラム教が国教である。このため、国民が他の宗教を信仰することは禁じられており、サウジアラビア国籍の取得の際にもイスラム教への改宗が義務付けられている。西部にイスラム教の聖地であるメッカがあるため、世界各地から巡礼者が訪れることもあってイスラム世界においての影響力は最も大きい。このため、サウジアラビア国民はイスラム教徒が100%であると公表されているが、これは他の宗派や宗教の存在を公式に認めていないという建前上の見解によるものである。実際には国内に多数のシーア派は住んでおり、財団法人中東経済研究所の調査によると、シーア派はイランと地理的に近い東部州に多く東部州の人口の42.5%を占めており、サウジ全土では6.4%になると推定されている。また、イエメンに近い南部のアブハーなどもシーア派(イスマーイール派、ザイド派)が多いとみられる。CIAによる統計ではスンニ派が85~90%、シーア派が10~15%と推計されている。多数のシーア派の居住する東部地方はアハサーと呼ばれていた土地で、サウジアラビアに征服され併合された土地である。初代国王アブドルアジーズは東部州を併合するのに際しシーア派住民による一定の自治を認めたが、時代と共に自治権を奪われ名目上は存在しないことにされてしまったという経緯がある。このため、長年にわたりシーア派の宗教機関は非合法な存在とされてきた。湾岸戦争以降は、反体制運動を行っていたシーア派を容認、和解した。湾岸戦争以降は他の宗派を容認する方向へ方針転換を行い、法律上もシーア派以外にも他宗教の存在を公式に認めている。近年では他宗教の信仰も限定的ながら解禁されてきている。しかし、これは建前上のものとされ、地方では他宗派への差別的政策が未だ執られている。また、他宗教の容認は国政の一層のイスラーム化を求めるイスラーム主義の改革運動の激化を引き起こし、サウジアラビア人によるイスラーム主義武装闘争派のテロを引き起こした。このため、各個人や集団による私的なジハードを禁止するために、国王の勅令がなければ禁止とする法令が出された。国民の4%はキリスト教徒だとも言われているが、内務省の統計では外国人居住者(数十万人のアメリカ軍関係者と外国人)もキリスト教徒に含まれている。近年では宗教指導者たちが示す宗教的見解と民衆の生活の乖離が進み、国民が宗教的な指導に従わなくなってきており、宗教指導者がハラーム(禁忌)であるとファトワー(宗教見解)を出したものの多くを民衆が利用していることが珍しくなくなった。代表的なものとしてポケモン、バレンタインデー、クリスマスなどがある。民衆が宗教指導者の言うことを聞かなくなった結果、宗教指導者が今まで以上に原理主義的で過激な発言を繰り返したり、宗教警察である勧善懲悪委員会による取り締まりを過激化させる傾向にある。これによってとんでもない理由での刑罰や死刑が科されることがある。このような過激な発言がニュースで配信されたりしてネット上で話題になることがあるが、発言と実情がかけ離れていることが多い。2008年には過激派宗教指導者二人が国王によって解任されるなど、過激派宗教指導者はサウジアラビアでも排除され始めている。実際にサウジアラビア人に「あなたの宗派はなんですか」と聞くとスンナ派と答えることが多い。ワッハーブ派という名称が原理主義者、テロリストの宗教という偏見が定着してしまったこともあり、サウジアラビア人でも宗教指導者と宗教学校出身者以外でワッハーブ派と名乗ることは少ない。元々ワッハーブ派はスンナ派の系統であり、スンナ派には他にマーリク学派、ワッハーブ派以外のハンバル学派も含まれる。イスラム教を大きく二分すればシーア派かスンナ派のどちらかに大別できるので、ワッハーブ派のムスリムが自分はスンナ派と答えても間違いではない。サウジアラビア最高の宗教権威であった最高ウラマー会議は長年にわたりワッハーブ派が独占してきたが、近年になって近い宗派であるシャーフィイー学派がわずかに参加するようになり、2009年2月14日に21名に増員されるとハナフィー学派とマーリク学派のウラマーも入った。これによってサウジアラビア最高の宗教権威であった最高ウラマー会議がワッハーブ派の独占ではなくなりスンナ派の四大法学派が全てそろったことになる。イスラム教を国教とする祭政一致国家のため宗教教育が重視されるが、自然科学や実技については不十分とされる。初等教育の段階でクルアーン(コーラン)の朗誦、講義を受ける。高等教育ではコンピューターや金融など第三次産業に関わるカリキュラムが組まれる。一方、初の工科系大学であり男女共学制の (KAUST) が、2009年9月に100億ドルの基金で設立された。また、シーア派を邪教とする教育が、シーア派を含むすべての国民に対して長らく行われてきたとされる。2008年10月29日、これまで女性が学ぶことが困難であった医学、経営学、外国語などを教えるサウジアラビア初の女性専用の総合大学を創設することが国王アブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ・アール・サウードによって決定され、リヤド郊外で起工式が行われた。女子がスポーツを行う機会は限られており、ヒューマン・ライツ・ウォッチは、「公教育で女子の体育を禁じている唯一の国」として批判している。サウジアラビア教育省は、2013年5月、一部私立校で女子の体育の授業を認めると発表した。2012年のロンドンオリンピックに、初めて女性選手を送るなど、近年、僅かながらではあるが女子のスポーツへの門戸が徐々に開かれている。近隣の中東諸国同様サッカーが盛んであり、実際に中東、アジア内の強豪の一国として知られている。アジアカップの上位争いの常連であるだけでなく、FIFAワールドカップの常連としても知られている。近年のサウジアラビアでは宗教指導者層の見解と庶民の生活感覚の乖離が大きくなってきている。1965年からテレビ放送が始まったが、宗教指導者がテレビに対して否定的見解を示しているため、現在でもアパートなどでテレビ不可を入居条件に明記している所がある。しかし、多くの市民は建物の隙間にアンテナを立てたり、近所からケーブルを引いたりしてこっそりと視聴していることが多く、表向きは否定されながらもテレビは広く民間に広まっている。娯楽番組の視聴には衛星放送が広く利用されており、同じアラビア語圏の番組が衛星放送を利用して視聴されている。近年では国営放送でも日本のアニメを放送するなど非常に軟化した態度を示すようになったが、これに反発した宗教指導者が2001年にポケモン禁止令を出した。しかし、数年後に事件が鎮火すると再び放送されており、ポケモン禁止直後にデジモンアドベンチャーが放送されるなど放送業界は柔軟な態度を示している。サウジアラビアではクリスマスやバレンタインデーなどのキリスト教など他の宗教に由来する祭日を祝うことが禁止されている。実際にバレンタインデー禁止のファトワーが出されており、バレンタインデーは非合法とされ勧善懲悪委員会による摘発も行われているが、庶民の多くはクリスマスやバレンタインデーを祝っており、クリスマスやバレンタインデーと無関係な商品だとする脱法行為に近い状態で商品販売も行われている。彼らはキリスト教を信仰しているわけではなく宗教観に無関係に祝う日本人の姿に近い。法律で酒類全てが禁止されているにもかかわらず、一般人の飲酒は珍しくない。都市部では週末の夜になると酩酊者が路上などで倒れていることが多く、警察も日常茶飯事であるため逮捕というよりも酩酊者の保護に近い扱いになっており、飲酒罪についても刑事罰の罰金というよりも酩酊者保護費用の請求のような感覚になっている。酔って暴れたなどの問題が生じた場合は鞭打ち刑になる場合があるが、重罪になることはまれである。バーレーンなどの周辺諸国からの酒類の輸入(建前上は密輸になる)や、国内にいる飲酒を違法とされない異教徒による酒の製造などが行われている。また、派手なライフスタイルで知られる米国人のパリス・ヒルトンがサウジアラビアなどの中東でのみファッションブランドを展開し、その店舗はイスラム教の聖地メッカにも進出しているという事実があり、一般の欧米人よりも派手で身体の露出の大きい衣服を売り物にしたファッションブランドが女性に人気という側面がある。インターネットの規制が厳しく、国内から海外のサイトへの接続は厳しく制限されている(ネット検閲)。国内ではアラビア語の出会い系サイトやSNSなどが運営されている。家族以外の男女は会話をすることすら禁止されているが、親族男性の代理人がメールや書き込みを行っているという設定で女性が直接書き込んでいたりして、脱法行為的にネット上での男女交際が行われることも多い。厳重な報道管制と言論統制が敷かれており、当局が許可した書籍でなければ販売することが出来ない。特に王族に関する批判的な書籍は検閲で発売を禁じられ、世界の長者番付が掲載されアブドゥッラー現国王の資産が公開されたビジネス誌『フォーブス』は国内発禁となるなど不敬規定がある。内政に関する外国マスメディアの取材も大幅に制限され、日本ではNHK『クローズアップ現代』が2006年12月にようやく許された程度である。しかし、2007年にはサウジアラビアの女性を主人公にした小説「リヤドの女たち」の発禁処分が解かれ、ベストセラーになるなど少しずつ自由化してきている。厳しい検閲が実施されているが、出版の抜け道としてメールマガジンがある。メールの送信は出版とはみなされていないため、紙に印刷されないメールマガジンによる発行は合法とされている。リヤドの女たちも元はメールマガジンで発行されていた小説だった。出版物に関する著作権は著作権審議委員会によって管理されており、カーディ裁判は著作権問題による訴えを扱わないため、著作権侵害があった場合は民事訴訟などではなく委員会に申し立てることになっている。ただし、申し立てが出来るのは検閲による許可を受けている出版物のみで、日本や欧米のように無条件に著作物に著作権があるわけではない。
出典:wikipedia
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