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三好吉房

三好 吉房(みよし よしふさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。豊臣氏の家臣。尾張犬山城主。官途は武蔵守。通称は弥助または武蔵守。入道して一路(一路常閑)と号し、あるいは後に三位法印とも称したので、法印とも言う。また別の法名で日海も伝わる。妻は瑞龍院日秀で、豊臣秀次・秀勝・秀保らの実父である。尾張で生まれた。姓や出自などについては多くの説があり、実像ははっきりしていない。吉房自身は立身後に大和国の三輪氏の子孫であると自称していたが、これには信憑性が乏しく、その素性は名字を持たない最下層の貧民、大工・鍛冶などの技術者集団の出身などさまざまな説がある。通説では、馬貸し、馬丁だったと言い、単に弥助と名乗っていたとされ、海東郡花正村にその頃の三好吉房宅跡があったと言う。木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の姉・とも(日秀尼)を妻とし、治兵衛(豊臣秀次)・小吉(秀勝)・辰千代(秀保)をもうけた。後に織田氏に仕える義弟・秀吉の縁者として士分に取り立てられ、木下姓を与えられたか自ら称したかで、木下弥助を名乗った。ただし名乗り始めた時期や経緯などは判然としない。また後に長子・秀次が阿波三好一族の三好康長の養子となると、秀次の実父である吉房も三好姓を称した。なお、吉房の妹も、三好一族の大島親崇に嫁いでいる。天正10年(1582年)6月8日、中国大返しで姫路に帰った秀吉は、三好武蔵守と小出播磨守の二人の親族に留守居を命じ、もし一戦に敗れた場合は、秀吉の母も妻も一族尽くを処分し、家中に火を放てと指示していた。天正19年(1591年)、秀次が改易された織田信雄の旧領尾張・伊勢北部5郡を与えられて大大名となると、吉房もその下で尾張犬山城主とされた。関白となって京都に常駐した秀次の不在時は、吉房が所領統治を代行することもあったが、その能力は秀吉や叔父・秀長に及ばないといわれた子の秀次から見ても不足であったようで、「年を取り衰えたようだ」「頼りない」という内容の天正20年(1592年)の秀次書状が現存している。3人の男子に恵まれたものの、その何れにも次々と先立たれた。文禄元年9月に秀勝が巨済島で戦没し、文禄4年(1595年)4月には秀保が病死。同年7月、秀次が高野山で切腹となった際には、吉房も連座して改易され、讃岐国に流罪となった。慶長3年、秀吉死後に赦免され京都に戻った。慶長5年(1600年)に本圀寺に一音院を建立し、子供たち、孫たちの菩提を弔い、晩年は法華の行者となった。慶長17年(1612年)8月15日または8月25日、死去した。享年79。弥助は、太閤の義兄、関白の父というだけでなく、九条家に嫁いだ豊臣完子の祖父であり、大正天皇の皇后である貞明皇后はその末孫にあたる。つまり弥助は、昭和天皇、今上天皇の先祖の1人でもあり、系図を辿って示すことができる人物の中では、生まれた身分の最も低い皇室の先祖であるということができる。

出典:wikipedia

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