三遊亭 小圓遊(さんゆうてい こえんゆう)は、落語家(江戸落語)の名跡。小圓遊は明治時代の初代から数えて4代を数えたが、2代目を除く3名がいずれも若くして旅先で急逝を遂げていることでも知られる。そのこともあってか、1980年に4代目が急逝したのを最後に、この名跡は使われることもないまま空き名跡になっている。なお初代三遊亭圓遊(ステテコの圓遊)の息子(本名:竹内孝太郎)が清遊と名乗って落語家として活動しており、一時期小圓遊を名乗っていたが、技芸未熟のため取り上げられたという説がある。清遊はその後日本舞踊若柳流を興した若柳寿童の弟子となり2世宗家家元 若柳吉蔵と名乗った。初代三遊亭 小圓遊(明治3年(1870年、逆算) - 明治35年(1902年)8月29日)は、東京出身の落語家。本名は鳥羽 長助(とば ちょうすけ)。通称「鳥羽長の小圓遊」。実家は東京芝の「鳥長(とりちょう)」という料理屋。幼少期から芸事に熱中し1884年、14歳で初代三遊亭圓遊に入門。最初は遊林といい少年落語家として評判を得た。1895年3月に25歳で真打となり小圓遊と改名。得意ネタは師匠仕込みの『成田小僧』であった。その人気は絶大なものであり、圓遊の後継者と目されていたが、1902年に巡業先の尾道の旅館で夭折。32歳没。師匠圓遊はあまりにも早すぎる死を惜しんだ。年上の弟弟子であった三遊亭左圓遊(後に2代目小圓遊を経て、2代目圓遊を襲名)は、小圓遊の急死を聞いて「シメタッ」と手を叩いて喜んだという噂が流れた。真偽は不明だが、それだけ小圓遊の人気・実力が凄まじいものであったということであろう。3代目三遊亭圓遊が弟子であり、小伝遊と名乗っていたが、師匠の死後は初代三遊亭遊三門下に移った。その他の弟子には三遊亭金遊斎(山本菊次郎)がいる。元は三遊亭左圓遊。後の2代目三遊亭圓遊。本名は吉田 由之助(よしだ ゆのすけ)3代目三遊亭 小圓遊(1895年(明治28年)? - 1926年(大正15年)2月16日)は、群馬県高崎市出身の落語家。本名は斎藤 文太郎(さいとう ぶんたろう)。2代目蜃気楼龍玉の一人息子。1915年、6年ころに2代目三遊亭圓遊門下で、圓平から1921年に小圓遊に改名し睦会に所属。(圓平時代は父の弟子だったという説もある)北海道巡業中の函館で腸チフスに罹患し急逝。没年齢は30とも31ともいわれる。4代目三遊亭 小圓遊(1937年(昭和12年)8月3日 - 1980年(昭和55年)10月5日)は、群馬県前橋市出身で東京育ちの昭和40年代から50年代にかけて活躍した落語家。本名は関根 尚雄(せきね ひさお)。東京都立文京高等学校中退。生前は落語芸術協会所属。血液型はA型。出囃子は『二上がり鞨鼓(にあがりかっこ)』。『笑点』の大喜利コーナーのレギュラー解答者を務め、キザなキャラクターで人気を博す。一方で高座では「へっつい長屋」「浮世床」「蛇含草」などの古典落語を得意とした。過度の飲酒による病のため、43歳の若さで亡くなっている(後述)。1955年(昭和30年)、都立文京高校を中退し、4代目三遊亭圓遊に入門。前座名「金遊」。高校在学中は演劇部に在籍し、もっぱら人を笑わせ、落語家の素質を見せていたという。1958年(昭和33年)、二つ目昇進。1964年(昭和39年)7月13日 より、 JRN系列で月曜日から土曜日の13時から18時に放送していた昼ワイドラジオ番組『オーナー』の「落語天気図」コーナーにて、レギュラー出演し「お天気や金ちゃん」として人気を得る(〜1966年(昭和41年)10月1日まで)。『笑点』レギュラー出演中の1968年(昭和43年)9月に 真打昇進。4代目小圓遊を襲名。以降、終生この名跡を名乗った。声優・俳優の井上真樹夫とは同じ高校の先輩・後輩という関係から、親交があった。1966年(昭和41年)5月15日から放送された『笑点』(日本テレビ)に第1回から参加。1969年(昭和44年)4月6日、初代司会であった7代目立川談志とレギュラーメンバーとの対立があり『笑点』降板(その期間、自身主演の時代劇や、同じく『笑点』を降板した5代目三遊亭圓楽主演のドラマなどに出演している)。小圓遊不在の間は、弟弟子である三遊亭笑遊(現:5代目三遊亭圓遊)が座布団運びとして加わっているが8か月で降板している。小圓遊が降板してから7か月後の同年11月9日、談志の降板により、司会者が前田武彦へ交代したことで、大喜利でのライバルであった桂歌丸と共に大喜利メンバーへ復帰。以来1980年(昭和55年)10月5日に急逝するまで大喜利メンバーとして参加し続けた。『笑点』では、歌丸との罵倒合戦が名物となった。1972年(昭和47年)8月27日放送で特別企画として司会の三波伸介と5代目圓楽の仲介による「手打ち式」が行われるも、すぐに仲違いした。二人の罵倒合戦は『笑点』の高視聴率を打ち出す原動力の一つとなった。また、大喜利での座布団10枚獲得の賞品として、1972年10月に『マドモアゼル』(クラウンレコード)のタイトルでレコードをリリースしている。『笑点』では「ボクちゃん〜」で始まるセリフの「キザなキャラクター」を演じていた小圓遊であったが、実際は古典落語を得意とする落語家であり、そのキャラクターとのギャップに苦しんでいたとされる。小圓遊がギャップを埋めようと、プライベートでの服装を和装から洋装へ変えたりするなど試みていたがうまくいかず、次第に酒量が増えていった。元々酒は好きではなかったが、共演していた林家木久扇の証言では、「一緒に飲むと、酒量を気にする奥さんの眼を盗んで、まず相手のコップの酒を一気に飲み、自分はまだ飲んでいないと奥さんを安心させてから、自分のコップの酒を一気に飲む」という飲み方をしていたとされる。小圓遊は亡くなる10年以上前から糖尿病を患っており、長期入院も経験。さらに、1975年(昭和50年)には、栃木県宇都宮市で交通事故に遭い、足を負傷するなど災難が続いた。小圓遊が亡くなる約1か月前に亡くなった初代林家三平は、「小圓遊さん、最近痩せちゃって。医者にみせているのかねえ」と病床で小圓遊の健康状態を心配していたという。小圓遊最後の『笑点』出演は1980年(昭和55年)9月20日に収録し、小圓遊が亡くなった7日後の10月12日に放送された15周年記念ハワイ公演(2回目)だった。出演し続けた『笑点』でも、酒浸りになっていたせいか呂律が回らなくなっており、収録時には一日中酒の匂いが消えなかったこともあった。そのため、段々と答えが悪くなっており、台本や編集、当時の司会者だった三波のフォローで何とか遣り過ごすことも多くなってい>。三波や当時のプロデューサーからは「酒を取るか、笑点を取るか」と迫られており、スタッフや共演者の真意を理解した小圓遊は収録前夜に酒を控えるなど、酒量が少なくなっていった矢先の急逝であった。1980年(昭和55年)10月4日 、 山形県村山市民公民館で行われた山形放送主催の「秋まつり爆笑大会」において、昼の主任として「蛇含草」を演じようとした際に気分が悪くなり、5分ほど予定を短縮して高座を務め上げて退席するも、その後戻った楽屋で吐血し、東根温泉近くの北村山公立病院へ緊急搬送される。食道静脈瘤破裂により、翌5日午後7時44分、死去。満43歳没(享年44)。なお死去した当日は山口百恵の引退コンサートが行われた日である。山形での公演には林家木久蔵(現:木久扇)とバラクーダも出演しており、木久蔵は小圓遊の最期を看取っている。危険な状態だったため、家族を呼んだが待っている間は注射で眠らされるのを拒み、看護師達を相手に笑わせていた。小圓遊は意識不明の直前「着物を貸してくれ」と話しており、それが最期の言葉となった。墓所は寛永寺第二霊園。戒名は「欣笑院圓覚尚道居士」。翌朝の新聞や同局の「ズームイン!!朝!」でも「小圓遊死去」の訃報を取り上げていた。10月19日の番組内で「小圓遊追悼大喜利」が行われた。小圓遊の定位置には座布団が置かれ、小圓遊以外のメンバー5人(桂歌丸・林家こん平・林家木久蔵(現:林家木久扇)・林家九蔵(現:三遊亭好楽)・三遊亭楽太郎(現:6代目三遊亭円楽))で大喜利を行っている。三波や歌丸も終始、目を潤ませながら大喜利を進行していた。三波が独り言のように、『馬鹿が一人で逝きやがって、私は寂しいですよ』と言ったという。小圓遊の後任には『笑点』の若手大喜利出身の古今亭朝次(現:7代目桂才賀)が加入したが、朝次が着用した色紋付は桃色(「人気者の小圓遊の後任」という重圧を避ける意味合いがあった)。これに伴って、それまで桃色を着用していた林家九蔵(好楽)が生前の小圓遊が着用していた水色を着用することとなった。現在は好楽が桃色の色紋付を着用しており、水色の色紋付は三遊亭小遊三が着用している。
出典:wikipedia
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