久米島守備隊住民虐殺事件(くめじましゅびたいじゅうみんぎゃくさつじけん)は、太平洋戦争(大東亜戦争)時における沖縄戦の最中から終戦後に発生した、日本海軍守備隊による同島民の虐殺事件。久米島事件とも呼ばれる。日本海軍の久米島守備隊が、アメリカ軍に拉致され渡された「投降勧告状」を持って部隊を訪れた住民を「敵に寝返ったスパイ」として処刑したことに始まる事件である。この非戦闘員の処刑は現在の価値観に照らし合わせて人道上の問題があるだけでなく、当時の国内法や軍法、軍規からも逸脱する行為であった。まず海軍刑法・陸軍刑法をはじめ、国内法にスパイ容疑で裁判を経ずに処刑する法規が存在していない。たとえ明らかなスパイを犯罪者として現場で処罰する場合であっても、将校らによる軍法会議が最低限必要である。一介の准士官が主観的な判断のみで処刑を実行することはできず、超法規的措置ないし違法行為の疑いがある。当時の責任者だった日本海軍通信隊の守備隊のトップであった鹿山正海軍兵曹長(事件当時32歳)は、戦後の1972年にサンデー毎日のインタビューに応じ、処刑の事実を認める一方で、日本軍人として正当な行為であったと自らの正当性を主張した。沖縄戦も終盤にさしかかった1945年6月に、アメリカ軍がそれまで放置していた久米島を攻略するため、上陸作戦の2週間前に工作部隊が上陸し情報収集のため住民の16歳の少年も含む男性2名(資料によっては3名とされており、途中で1名は自殺したとされる)を拉致した。この男性らの情報から、島にはわずか27名の日本海軍が久米島に設置した電探(レーダ)を管理運営する通信兵などの守備隊しか駐留していないことを知ったアメリカ合衆国海兵隊は、上陸部隊の兵員を966人に減らしたという。久米島守備隊は武器弾薬に乏しく実戦部隊でなかったため、ほとんど組織的抵抗もできないまま山中に撤退し、久米島は占領された。久米島派遣軍を率いるE・L・ウッド・ウイルソン少佐はただちに、占領業務のため久米島米軍政府を設置し、住民から島の村長と区長をあらたに指名するなど軍政府長官として久米島の行政を掌握した。また6月22日には、沖縄戦を指揮していた日本側の沖縄守備軍司令官であった牛島満中将と、参謀長の長勇中将が摩文仁司令部で自決した。これによって沖縄守備軍の指揮系統は完全に消滅し、6月25日には大本営が沖縄における組織的な戦闘の終了を発表した。現在では6月23日を「沖縄慰霊の日」として沖縄戦における戦没者の慰霊の日とされている。しかし、牛島中将の最後の命令が「最後の一兵まで戦え」として降伏を許さないものであった事に加え、沖縄戦に参加していた日本軍の指揮系統が崩壊していたため、組織的戦闘が終結した事実や、既に内地の大本営からも事実上見放されたことが正確に伝わらず、この後も残存兵力による散発的な戦闘が沖縄本島各地で続いていた。沖縄本島と同様に久米島に残された少数の守備隊も疑心暗鬼のなか勝算なきゲリラ活動を続け、そのなかで住民虐殺が発生した。拉致された住民は6月26日、アメリカ軍の上陸時に一緒に解放されたが、守備隊の鹿山兵曹長は拉致被害者に対し、アメリカに寝返ったのではないかという疑問を抱き、まず6月27日のアメリカ軍上陸時に、自宅から避難壕へ逃げる際に拉致され、山中の兵曹長の分遣隊へ降伏勧告状をもっていくように命令され、部隊にやってきた久米島郵便局の電信保守係(郵便局長という説もあり)であった安里を銃殺刑に処し、6月29日には工作部隊によって拉致(治安悪化を理由にしたとも)されていた区長の小橋川と区警防団長の糸数盛保の2家族9人を処刑し、その遺体を家屋ごと焼いた。また兵曹長による刑罰はその後も続き、アメリカの上陸部隊によって部下の兵士と義勇兵を「斬込隊」としてアメリカ軍に特攻させて、生きて帰ってきた部下を「処刑」した。ほか、アメリカ軍からの投降を呼びかけるビラを持っていたり、投降しようとした者についてもスパイもしくは利敵行為(戦前の刑法では罪となった)であるとして処刑を行った。兵曹長は守備隊の最高司令官として徹底抗戦の構えをみせ、山にこもって戦うように住民に指示し、従わないものは処刑すると警告した。また8月20日の処刑には地区の住民も命令に従い協力したという。住民の中には鹿山と共に山に立てこもった者も少なくなかったが、戦況はアメリカ軍有利であることが明白であり、またアメリカ軍は「(山から出て)帰宅しないと山を掃討する」と伝達されていたうえ、実際に久米島の実務はアメリカ軍政府が掌握しており、住民の多くはその命令に従わなかったという。なお、当時の島には3000戸の住宅と7073名の労働人口があったという。守備隊は8月18日には一家4名を処刑したほか、さらには兵曹長が若い女性を連れて(人質にしたという説もある)行軍していた一方で、物資を奪う目的で具志川村字上江洲に住むくず鉄集めで生計を立てていた朝鮮人谷川昇一家(朝鮮名は不明)を住民と部下に命令して8月20日に子供も含めて惨殺したという証言もあり、現在ではその事実を示す慰霊碑があるという。この行為は日本が降伏した8月15日以降の出来事であった。そのため、海軍刑法が禁ずる停戦命令後の私的戦闘の疑いもある。9月になるころには、昭和天皇による玉音放送で『終戦詔書』が伝達されている事実をしらされたこともあり、守備隊も最後は全面的に降伏した。最終的に守備隊が処刑した5件で住民は22人(一説では29人)であり、そのため住民は侵攻してくるアメリカ軍だけでなく日本軍によって生命を奪われたわけである。また守備隊の中にも命令に服従しなかったとして3人が処刑された。そのなかには前述のように突撃命令で特攻し、生還した兵士もいた。守備隊は山にこもって玉砕することなく、9月4日に沖縄本島から来た旧日本海軍の上官の説得に応じアメリカ軍に投降し、沖縄本島からの脱出者なども含め41人が沖縄本島に移送された。連合国側住民に対する虐殺ではなかったため、連合国軍は鹿山兵曹長の行為を「戦争犯罪」としては扱わず、そのまま他の軍人とともに復員させている。地元でも事件の遺族や当時を知る住民は「もう思い出したくない」と沈黙していた。一部の住民が告訴したが、鹿山の消息が不明であり、戦後沖縄がアメリカ軍の統治下に入ったこともあり責任追及が行われることはなかった。1969年6月22日の沖縄タイムスによると、谷川一家は釜山出身の朝鮮人で遺骨の引き取る親族を探している記事もある。復員した鹿山は事件から27年後の59歳当時は徳島県に在住していたが、沖縄本土復帰を控えた1972年4月2日号の『サンデー毎日』に掲載されたインタビュー記事の中で事件について概ね事実であったと認めたが、動機についてはとして、処刑は住民ではなく部隊を守る行動であったとして正当な業務行為であったことを主張した。また8月18日には仲村渠一家4名虐殺については「アメリカ軍から食料品を受け取った」として、谷川一家(釜山出身)7名虐殺についても同様であったが「『朝鮮系』で家族は二人だったか、三人だったか。命令して部下にやらせたのです」と事実であると認めた。また事件を振り返って、と堂々と自己の正当性を訴えた。なお大島幸夫著の『沖縄の日本軍』(新泉社刊)によれば、谷川一家を子供も含めて殺害した理由について鹿山は、朝鮮人一般の反日的傾向から「こやつも将来日本を売ることになる」と危惧し、その旨を住民に説明したという。いずれにしても朝鮮人および久米島島民に対して深い疑心暗鬼の感情を現在も抱いている一連の発言に対して、当時の久米島にあった2つの村議会は鹿山個人に対する弾劾決議を採択したという。また虐殺された島民の遺族からも強い不快感が示された。海軍刑法(明治四十一年法律第四十八号)の第1条は「本法ハ海軍軍人ニシテ罪ヲ犯シタル者ニ之ヲ適用ス」としており、一般日本人には適用されないと明記されている。また処刑するにしても軍法会議を経たうえで第16条は「海軍ニ於テ死刑ヲ執行スルトキハ海軍法衙ヲ管轄スル長官ノ定ムル場所ニ於テ銃殺ス」としており、一定の法的手続きを要求している。また日本国内でスパイとして処刑されたリヒャルト・ゾルゲは治安維持法等違反で処刑されたが、一般の刑事裁判で裁かれており、外地の戦場における占領地住民と同じように、内地であった沖縄県で部隊長の判断で処刑する権限があったのか疑問を呈する者もいる。元兵曹長は軍法会議で処刑を決めず「住民からの情報」から判断して処刑したことについて、「われわれの部隊は少人数で大部隊のように軍法会議を開いてそういう細ごまとした配慮をするヒマはなかった」と語っている。実際に、軍法会議は大戦末期には戦場で孤立化した部隊が続出したことから法務官不在でも開廷できたほか、少尉以上の士官が3人集まれば軍法会議をすぐ開催することができたうえに、戦時においては民間人にも特定の犯罪に関しては処断できるとされていた。そのため一般人にも適用された可能性もある。また、海軍刑法22条の3で「軍事上ノ機密ヲ敵国ニ漏泄スルコト」(スパイ)と22条4では「敵国ノ為ニ嚮導ヲ為シ又ハ地理ヲ指示スルコト」は「罪」と規定されており、それに対する刑罰は20条で「首魁(首謀者)ハ死刑」と規定されているほか、そのほか謀議に入ったものも「死刑、無期若ハ五年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処シ」とするなど重罰が規定されていた。そのため大部隊のように少尉以上の士官が3人(それよりも少なくても即決で処刑が決められた場合も否定はできないが)集まれば軍法会議をすぐ開催することができたため、住民に対するスパイ容疑での処刑があった可能性がある。しかし久米島においては守備隊長の最高位が兵曹長であり尉官より下の「准士官」であった。そのため久米島では軍法会議の開催は事実上不可能であったといえるため、兵曹長に住民を処刑する権限はなかった可能性もある。そのため、守備隊が住民を「合法的」に処刑することは、人道上の問題だけでなく、軍規にすら違反する行為であった疑いが高いとの指摘もある。一方で、当時の日本がおかれていた絶対的不利の状況から国体を守らなければいけないため、このような過酷な命令も「必要悪」だったという意見もある。また時代的背景として部隊そのものが精神的極限状態に陥っており、一種の心神耗弱状態に陥っていて正常な判断(兵曹長が戦闘指揮官としての教育を受けていなかった可能性もある)ができなかった事情も考慮すべきかもしれない。実際に鹿山が朝日新聞に語ったインタビューにこの時の心情が垣間見える。また7月までには陸軍がくるはずと認識していることが伺えるため、彼はすでに6月23日に沖縄戦が終結したことを知らなかった可能性もある。なお、これら一連の虐殺事件は、終戦直後の混乱と日本政府からの管轄権分離という非常事態もあり、一切の刑事訴追を受けていない。そのため、事実上のクーデター未遂事件である宮城事件と同様に誰も罰せられることはなかった。
出典:wikipedia
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