和服(わふく)とは、日本在来の衣服のこと。近年では日本における民族服ともされる。着物(きもの)ともいう。和服は、文字通り「和」の「服」、すなわち日本の衣服という意味である。この言葉は明治時代に、西洋の衣服すなわち「洋服」に対して「従来の日本の衣服」を表す語として生まれたレトロニムである。服飾史学者の小池三枝によれば、着物は元来「着る物」という意味であり、単に「衣服」を意味する語であった。しかし幕末に洋服が移入して以降、「西洋服」・「洋服」と区別して、「従来の日本の衣服」を「日本服」・「和服」と呼ぶようになり、さらに「着物」の語にも置き換えられるようになった。時代が進み、日常生活で頻繁に洋服が用いられるようになると、「着物」から「着る物」という本来の意味は薄れていき、「和服」の意味が濃くなっていった。現代での「着物」という語は専ら「和服」を意味し、狭義には一定の形式の和服(着物と羽織という場合の着物、すなわち長着)を指す言葉に移りつつある。日本で和服という言葉が生まれる明治時代よりもずっと前の16世紀の時点で、日本人が衣服のことを指して呼んだ着物 (kimono) が、現在で言う和服を表す語としてヨーロッパ人に知られるようになり、現在ではヨーロッパに限らず世界の多くの言語で日本で和服と呼んでいる物を kimono と呼んでいる。kimono は、日本の和服だけではなく、東アジア圏全般で見られる前合わせ式の服全般を指すこともある。衣類を大きく分類すると、ヨーロッパの衣服のように身体を緊密に包む窄衣(さくい)型と、身体に布をかけて着る懸衣(かけぎぬ)型の2つに分けられる。和服は後者であり、長着を身体にかけ、帯を結ぶことによって着つける。洋服は曲線で裁たれたパーツを組み合わせ、立体的な身体に沿わそうと造形されるのに対し、和服は反物から直線で切り取ったパーツを縫い合わせた平面構成により造形される。縄文時代の身体装飾については石製や貝製の装身具などの出土事例があるが、衣服に関しては植物繊維などの有機質が考古遺物として残存しにくいため実態は不明である。ただし、編布の断片やひも付きの袋などの出土事例があり、カラムシ(苧麻)・アサ(麻)などの植物繊維から糸を紡ぐ技術や、できた糸から布地を作る技術はあったことがわかる。この編布から衣服が作られて着られていたと推測されている。縄文時代には人形を模した土偶の存在があるが、土偶の造形は実際の身体装飾を表現したとは見なしがたい抽象文様で、実際の衣服の実態をどの程度反映しているかはっきりしない。弥生時代の衣服についても、出土事例は少なく、『魏書』東夷伝の一部の「魏志倭人伝」によって推測されているのみである。魏志倭人伝の記述によると、倭人の着物は幅広い布を結び合わせている、男性は髪を結って髷にしているとある。古墳時代の豪族たちの墳墓から発掘される埴輪は、当時の服装を知る貴重な資料である。この時代の服は男女ともに上下2部式であり、男性は上衣とゆったりしたズボン状の袴で、ひざ下をひもで結んでいる。女性は上衣と喪(裾の長いロングスカート)の姿である。襟は男女ともに左前の盤領(あげくび)という詰衿形式が多い。これらの服装は貴族階級のものと推測される。『日本書紀』によると、603年に、聖徳太子が、優れた人を評価する冠位十二階を定めて、役人の位階によって冠の色を定めている。これより上層階級は、隋の衣服令に従って大陸の服装を模倣することになる。7世紀末ごろに、国号が日本と決められた。7世紀末から8世紀初めに作られた高松塚古墳の壁画が1972年から研究された。飛鳥時代の人々の姿が描かれたもので現在も残っているのは、高松塚古墳の壁画だけである。その壁画の一部に描かれていた男子と女子の絵と、『日本書紀』の記述が、飛鳥時代の衣服の考古学上の資料である。現在の研究者達の報告によると、高松塚古墳の壁画の人物像では、男女ともに全ての衿の合わせ方が左衽(さじん)、つまり左前だったという。その壁画では、上半身を覆う服の裾が、下半身を覆う服と体の間に入っていないで、外に出て垂れ下がっているという。その壁画に描かれた服の帯は革でなく織物ではないかと推測されている。奈良時代の服飾は、中国大陸の唐の漢服の影響を受けているとされ、意匠的に似ている部分が多く、前合わせで帯を締める構成が基本となっているなど、基本的な構成にも似た部分がある。唐の礼制は日本の有職故実の一つの要素であった。701年に日本で制定された『大宝律令』と、『大宝律令』を改めて718年に制定された『養老律令』には、衣服令が含まれていた。『大宝律令』と『養老律令』は現存していないが、『令義解』、『令集義解』から『養老律令』の内容が推定されている。衣服令では朝廷で着る服として、礼服(らいふく)、朝服(ちょうふく)、制服が定められている。礼服は、重要な祭祀、大嘗祭(おおなめのまつり,だいじょうさい)、元旦のときに着る服である。朝服は、毎月1回、当時朝庭と呼ばれた場所で朝会と呼ばれるまつりごと。をするときと、当時公事と呼ばれたことを行うときに着る服である。制服は、特別な地位にない官人が朝廷の公事を行うときに着る服である。礼服・朝服・制服の形式・色彩は、それぞれの地位や役職によって違いがある。武官の礼服と朝服の規定に、位襖(いおう)が含まれており、研究者達により、位襖は、地位によって違う色を使った襖(おう)であることが分かっている。『古記』によると、襖とは、襴(らん)がなく、腋線を縫わない服で、後の時代の闕腋の袍(けってきのほう)と呼ばれる服と共通点がある。武官の朝服には、ウエストを固定するための革のベルトがあったと考えられている。また、文官の礼服を構成する物の中に、襴が付いた服があったと推定されている。これは後の時代の縫腋の袍(ほうえきのほう)と呼ばれる服の原形といわれている。衣服令は、朝廷と関わりのない庶民の衣服については定めていない。『続日本紀』(しょくにほんぎ)によると、719年に行った政策の記述の中に「初令天下百姓右襟」という一文がある。全ての人々は衿の合わせ方を右前(右衽)にしなさい、という意味である。これはその当時手本としていた中国において右前に着ることが定められたのでそれに倣ったものと言われている。この時代の日本の皇族・貴族の服飾については平安装束を参照。現在、平安前期・中期の庶民の衣服についてはよく分かっていないが、後期に成立されたとされる伴大納言絵詞には庶民の姿が描かれている。男性の多くは水干姿で、袴は膝下までの丈である。女性は広袖や小袖の着流しで、腰布を巻いた姿も見られる。庶民が着ていた水干が基になって直垂(ひたたれ)ができた。鎌倉時代、直垂は武家の礼服になった。室町時代へ入ると直垂は武家の第一正装となった。大紋(だいもん)、素襖(すおう)が出現した。女性用の衣服も簡易化の一途をたどり、裳(も)は徐々に短くなり袴へと転化し、やがて無くなった。この後は小袖の上に腰巻き、湯巻きをまとう形になった。小袖の上に丈の長い小袖を引っ掛けて着る打掛ができた。江戸時代になると一層簡略化され、肩衣(かたぎぬ)と袴(はかま)とを組み合わせた裃(かみしも)が用いられた。庶民の文化として小袖が大流行した。歌舞伎などの芝居が流行し、錦絵や浮世絵で役者の服飾が紹介されると、庶民の装いは更に絢爛豪華なものとなった。これに対して幕府は、儒教的価値観から倹約令にて度々規制しようとしたが、庶民の服飾への情熱は収まらず、茶の湯の影響もあって、見た目は地味だが実は金の掛かっているものを好むようになった。帯結びや組みひもが発達し、帯を後ろで結ぶようになった。鎖国政策により、国外から絹を輸入しなくなったため、日本で使用される絹のほとんどは国産のものとなった。江戸時代に絹でありながら比較的安価な縮緬を着用する庶民もいたが、1783年から1788年頃にかけて天明の大飢饉が発生したため、幕府は1785年に庶民が絹製品を着用することを禁止した。庶民は木綿製もしくは麻などの衣服を着用した。下町には端切屋の行商がたびたび訪れ、庶民は買い求めた端切れの布で補修しながら大切に衣装を使用した。女子服飾は長い袂(たもと)の流行から婚礼衣装の振袖ができた。1864年には、禁門の変を理由に長州征伐の兵を挙げた幕府が、その時の軍服を西洋式にすることを決め、小伝馬町の商人である守田治兵衛が2000人分の軍服の製作を引き受け、試行錯誤しながらも作り上げた。日本においての洋服の大量生産は、記録に残る限りこれが最初だといわれる。明治時代になると、政府の産業育成の動きも手伝って、近代的な絹の製糸工場が建設され、絹の生産量が一層高まった。日本は開国したため国外との貿易が発展し、絹糸(生糸)と絹製品の輸出額は全輸出額の内大きな割合を占め、世界的に日本は絹の生産地と見なされるようになった。絹糸の大量生産に伴って、絹は他の商品と比べてそれほど高価ではなくなり、女性の和服に様々な種類の生地が用いられるようになった。それに伴い絹織物も、縮緬・綸子・御召・銘仙など種類が増えた。出来上がった生地は染色技術の発達により二次加工され、今までにない友禅文様が可能になった。絹の小紋染めの流行は、江戸時代から引き続き、伝統的な晴着として大いに人気を集めたが、あらかじめ先染めの糸で文様を織り出した縞や絣も好まれた。明治時代以降、華族や西洋人と接する機会の多かった人々の間では比較的早く洋服が定着した。政府の要人の場合は、洋服を着ることにより、日本が西欧の進んだ科学技術を学び近代化を目指す意欲を西洋の外国人にアピールし、交渉などを有利に進める目的があったといわれている。庶民は、洋服がまだ高価だったことや、伝統への美意識やこだわりなどから江戸時代以来の生活の様式を保持し続けた。西洋からの服飾の輸入がなされ、間もなく日本国内でも洋服が作られるようになった。以前は日本在来の衣服を「着物」と呼んでいたが、元々着物には服という意味しかない。そこで洋服と区別するために、以前「着物」と呼んでいた服を「和服」と呼ぶようになった。洋服が登場し始めた頃は、貸衣装屋から洋服を借りて着用するのが普通だった。明治時代には洋服は主に男性の外出着や礼服であり、日常はほとんど和服が使われた。小規模ながらも各地に洋服の貸し出し店や洋服販売店ができるようになった。1871年に陸軍や官僚の制服を西洋風に改めることを定めた天皇の勅諭(太政官布告399号「爾今禮服ニハ洋服ヲ採用ス」)が発せられた以後、警官・鉄道員・教員などが順次服装を西洋化していった。男性は、軍隊では軍服の着用が義務付けられたが、このときの軍服は洋服である。また陸軍の軍服を規範に作られた詰め襟の洋服である学生服が男子学生の制服として採用された。明治・大正時代には、女学生の間に行灯袴などの袴姿が流行した。これが日本文化として定着し、現在でも、入学式・卒業式などで、袴を正装の一部として好んで着用されている。女性は華族や女子教育にあたる教員など一部を除きもっぱら和服であったが、大正時代後期から、女学校の制服にそれまでの袴に代えて洋服であるセーラー服が採用される例が増える。この頃、日本の女性の衣服を洋服に変えていこうと主張・運動する女性達がいた。1922年5月4日から11日までに開かれた生活改善講習会において、塚本はま子は「衣服の改善」という題の講習の中で、「現代社会に適合した美的且つ便利、経済的な改善を斬新的に行っていくこと。方向としては洋服のみの生活を示唆している」と述べ、また嘉悦孝子は『經濟改善 是からの裁縫』(けいざいかいぜん これからのさいほう)(日本服装改善会出版部、1922年)の序文で「私は日本服装改善の到達点は、洋服か洋服に近いものであらうと存じます」と書いている。1923年の関東大震災では、身体の動作を妨げる構造である和服を着用していた女性の被害が多かったことから、翌1924年に「東京婦人子供服組合」が発足し、女性の服装にも西洋化が進むことになる。1881年から1945年頃まで、日本の小学校では、女性の生徒は、和服などの服飾を作るための裁縫を授業を受けた。この裁縫の教育の目的は、女性が家庭で自身や家族の衣服の裁縫ができるように、女性に和裁としての裁縫の基本的な技術を教えることであり、強く奨励された。当時は一般にミシンはなく、手縫いであった。1935年にアメリカ合衆国のデュポン社は、ナイロンという化学繊維を合成することに成功し、1939年頃からナイロンが工場で大量生産されるようになった。ナイロンは絹の代替品として使われたため、対外的な日本の絹糸・絹製品の輸出は減っていった。1938年、『婦人公論』の誌上で、非常時女子服のコンテストが行われた。1939年11月14日から1939年12月10日まで、日本政府は男性用の国民服の様式の案を広く一般から懸賞を付けて募集した。応募された案の審査が行われ、意見交換や様式の変更がなされた後、1940年7月6日、奢侈品等製造販売制限規則が公布され、同年7月7日に施行される(通称「七・七禁令」)。絵羽模様のもの、刺繍、金銀糸を使用したもの、紬でも高価なもの等が贅沢品とされ、禁止される。これにより、白い半衿が流行する。1940年11月2日に日本政府は、国民服令という勅令(法律の一種)を施行した。その国民服令の中で、男性用の正装の衣服として、国民服を定義した。国民服は洋服である。国民服は、正装かつ礼服であり、背広を着るような場面で着る服だと決められた。それ以外のときは、国民服を着る義務はなかった。結婚式の新郎が正装するときや葬式に出席するときは、男性は国民服で礼装した。国民服は民間業者により大量生産され、国民服配給会社により配給された。裕福な男性の中には個々の体型に合わせて採寸して国民服が仕立てられたこともあった。大日本国民服協会は、国民服の日本国民への普及を目的とし、『国民服』という定期刊行物を出版、配布した。1945年の終戦までの間、生産される男性用の衣服は国民服ばかりになっていた上、本土決戦の機運が高まり、強制されなくても国民服を着ざるをえない男性が増えていった。また、1942年に厚生省は、女性用の新しい様式の服を婦人標準服と名付けて発表した。この目的の1つは、材料の布の節約である。婦人標準服に関する公的な文書として残されているのは、婦人標準服を定める前に書かれた次官会議諒解事項「婦人標準服制定に関する件」だけである。これは、どのようなデザインの婦人標準服が望ましいのかが書かれている文書であり、具体的なデザインを決めた文書ではない。6番目の項目には、「婦人標準服の制作が各家庭で行われることを前提にして、婦人標準服のデザインを決めるべきである」という旨の記述がある。婦人標準服には、洋服の特徴を持つ「甲型」というタイプと、和服の特徴を持つ「乙型」というタイプがあり、それぞれに、いくつかの様式の服の形が決められた。甲型には、上半身を覆う服とスカートに分かれている様式と、裾がスカート状のワンピース型の様式があった。乙型の様式の1つに、和服を上半身と下半身に分けて、袖丈を短くしたものがあった。これは、上下に分かれたツーピース型の和服である。「活動衣」と呼ばれる実用性を最優先させた様式もあり、甲型の下半身はスラックス型で、乙型の下半身は、もんぺである。もんぺは袴の一種で、1930年代頃までは、北海道・東北地方で、防寒用、農作業、または普段着として使われたていた。もんぺの腰の部分にゴム紐がないのは戦争のせいでゴムが足りなくなったからだという説があるが、元々もんぺはゴム紐ではなく布の紐で腰を結ぶ服だった。婦人標準服は、国民服のように大量生産されることも、大量に配給されることもなく、各家庭で余剰布や古着を原料として、自家裁縫で婦人標準服に作り替え、自身や家族の服として着るという形だった。着用や制作が強制されることはなく、各家庭の判断に委ねられていた。そのため、婦人標準服とは少し違う個性的なデザインの服も作る人もいた。婦人雑誌などの付録では「有事特別付録」と称して標準服の型紙が付いた号も出版されている。婦人標準服はほとんど普及しなかったが、1940年頃から、女性が家の外で作業するときに、もんぺが政府から推奨される機会は徐々に増えていった。防空演習への参加時には、女性はもんぺなどの活動的な衣服の着用が推奨されたため、多くの女性が参加時にもんぺを着用した。米軍が日本本土の上空から、民間人をも攻撃対象にして空襲を行う頻度が多くなり、1945年の終戦前頃は、地域によってはほぼ毎日、空襲による被害を受けるようになっていった。民間人が空襲の被害を受けることが多くなるにつれて、多くの女性がもんぺまたはスラックスを履くようになった。中山千代が、『日本婦人洋装史』で次のように書いている。「筆者の戦時生活体験にも、婦人標準服は甲型も乙型も着用しなかった。周囲の女性たちも同様であって、標準服両方の着用は、ほとんど行なわれていない。政府の意図した婦人標準服による日本精神の具現は、成功しなかった。しかし、空襲が始まると、すべての女性はズボンまたはモンペを着用した。これらは婦人標準服の『活動衣』に指定されていたが、婦人標準服として着用されたのではなかった。決戦服と呼ばれたように、絶体絶命的に着用しなければならない服装であった。」1943年6月4日に、戦時衣生活簡素化実施要綱が日本の政府で閣議決定された。本要綱の目的は、日本の国民の衣服を簡素化することと、繊維製品の使用の無駄を省き節約することだった。本要綱そのものは、法的な強制力がない努力義務のガイドラインのようなものであるが、後に戦時衣生活簡素化実施要綱を推進するための法律が制定される。本要綱では、男性用の衣服を新しく制作するときは、色は自由とし、形は、国民服の乙号のタイプか、これに似たものに限定することとした。男性の小学生以外の学生・生徒の制服を新しく制作するときは、国民服の乙号を作ることとした。男性の小学生の制服は規制しないこととした。専門学校以上の女性の学生・生徒の制服を、なるべく婦人標準服に変えてもらうよう働きかけることとした。華美を追求しないものの、女性の美しさを失わない婦人標準服が、大人の女性達の間で普及するように、政府が努力することとした。既に所有している服の着用の禁止や、婦人標準服やもんぺの着用の強制、衣料切符の献納の推奨する記述はない。しかし、大日本婦人会が定めた「婦人の戦時衣生活実践要綱」は、新調見合せ・婦人標準服着用・衣料切符の節約などの内容が盛り込まれている。戦争が長引くにつれ、衣料切符で新品の衣類を入手することは、極めて困難になっていった。1943年6月16日に日本の政府は、1940年11月2日の国民服令を緩和する国民服制式特例という勅令を施行した。国民服制式特例の第1条により、礼装しない場合の国民服の上衣の色の指定はなくなり、礼装する場合の国民服の上衣と外套の色は、茶褐色、黒色、濃紺色、または白色のいずれかでよいとされた。ただし、上衣と外套の白色を選べるのは暑い地方や暑い夏の時期に限られた。第二次世界大戦が終わった1945年以降の女性達は、空襲がなくなったので、所持していたが着られなかった和服を着るようになった。終戦直後にはもんぺを着る女性も多くいたが、貧しさと戦争を思い出させるもんぺはすぐに廃れていった。しかし、和服が高価であり着付けが煩わしいことなどが原因となってか、安価で実用的な洋服の流行には敵わず、徐々に和服を普段着とする人の割合は少なくなっていった。ただし、1965年から1975年頃までは、和服を普段着として着る女性を見かけることが多かった。その頃に和服の人気を押し上げ、流行させたのはウールで仕立てられたウール着物である。ウール着物は色彩が美しく、カジュアルで気軽に着られる普段着の和服として日本中の女性の間で流行となった。しかし、その後も和服ではなく洋服を着る人の割合が増え、呉服業界(呉服業界とは、和服・反物の生産・販売の産業のこと)は不振に追い込まれた。呉服業界が、販売促進の目的で、種々の場面で必要とされる和服の条件というような約束事を作って宣伝した。このため、庶民は「和服は難しい」というイメージをより強く持つようになった。この結果、呉服業界はさらに不振になり、反物など織物生産を担う業界の倒産が相次いだ。1960年代までは自宅での日常着として和服を着る男性も多くいたが(1970年代までの漫画での描写からも伺える)、次第に姿を消していった。1960年代の欧米の文化人やミュージシャンの間では、東洋的な思想や宗教が流行したことがあり、中には着物(あるいは着物に似せてデザインした服)を着る者も見られた。ロックギタリストのジミ・ヘンドリックスなどが代表例。日常的に和服を着る女性を見かける機会は少なくなったが、冠婚葬祭(七五三・成人式・卒業式・結婚式といったイベント)においては、着用が一般的になっている。また、浴衣については、花火大会・夏祭りといった夏のイベントの衣装として浸透しており、柄・素材とも多彩になっている。平成の浴衣は、かつての湯上がり着の延長だった時代とは見違えるほど鮮やかでファッション性も高く、「ギャル浴衣」なども登場している。デパートなどは開放的な水着ファッションと、隠して魅せる浴衣という二本柱で夏の商戦を仕掛けている。女児用の浴衣として浴衣の上着に膝丈スカートを合わせた浴衣ドレスというものが出てきた。ファッションとしての浴衣は男性にもある程度着られているが、女性ほど一般的ではない。また、日常的に和服を着る男性は、女性と比べて少なく、作務衣・甚平が宗教関係者・職人など少数の男性に好んで着られているほかは、ほとんど見かけなくなっている。一方で、男性の和服着用を推進する運動も、インターネットなどを中心に一部で起こっている。1990年代後期からアンティーク着物(昭和初期以前のもの)やリサイクル着物(昭和中期以降)の店が激増し、雑誌を火付け役として女性の間で徐々に着物ブームが起こっている。これまでと異なるのは、従来の約束事にこだわらず洋服感覚で着る人が増えたことである。洋服地で着物や帯を作ったり、洋服と重ね着したり、足下にパンプスやブーツを履いたり、帯揚げにレースを使うなど新鮮な着こなしが楽しまれている。現在の和服には、大人の女性用・大人の男性用・子供用がある。男性用と女性用の和服のそれぞれに、正装・普段着・その間の服がある。基本的に男女両用の和服はないが、本来男性用とされていた和服を女性も着るようになるという現象は歴史上しばしばある。羽織などは明治期以降一般化しているし、現代では法被や甚兵衛なども女性用がある。正装用の着物は、原則的に結婚式・叙勲などの儀式・茶会など格の高い席やおめでたい儀式で着用される。戦後、マスメディアの発達に伴い、正装のルールが全国規模で統一され始め、合理化もされた。例えば留袖や訪問着などの格の高い礼装は本来は丸帯であったが、現在丸帯は花嫁衣裳と芸者の着物に残るくらいで一般にはあまり用いられなくなり、戦後は主に袋帯が用いられている。現代の格の高い正装用の着物には、絵羽模様(えばもよう)によって柄付けがなされている。絵羽模様とは、反物を着物の形に仮縫いした上に柄を置くように染めた模様で、脇や衽と前身頃の縫い目、背縫いなどの縫い目の所で模様が繋がるような模様に染めたものである。おめでたい場所に着る礼装用の着物の模様には、縁起の良いもの、七宝・橘・鳳凰・鶴・亀などの「吉祥模様」や、昔の貴族のような豪華で華やかな模様、檜扇・宝舟・貝桶・御殿・薬玉などを表した「古典模様」が使われていることが多い。あまり趣味性の強い柄は改まった席には向かないとされる。女性用の普段着には小紋・紬・浴衣などがある。男性用の正装の和服には、五つ紋付、黒の羽二重地、アンサンブル、縦縞の仙台平などがある。紋が付いた服(紋付)を着用する場合、足袋の色は白にする。草履を履くときは畳表のものを履く。履物の鼻緒の色は、慶事のときは白、弔事のときは黒にする。小物の色も同様に、慶事のときは白、弔事のときは黒にする。正装の度合いについては羽二重、お召、無地紬の順で格が下がる。羽織を着るべき場面か、着なくてもいい場面かの判断は、洋服の背広やジャケットの場合に類似する。なお、茶会では羽織は着用しない。また、紋の数や種類によっても挌が決まるので正式な黒紋付として黒羽二重に紋を付けるときは、日向紋を5つ付ける。無地お召や紬などにも紋を付けるが、この地で五つ紋をつけて正装として着ることはしないので、現在ではこの地の場合は染め抜きではなく陰紋として刺繍などで付けることが多く、その数も三つ紋か一つ紋になることが多い。現在の男性用の正装の和服を特徴づけるのは、長着、羽織、および袴である。アンサンブルは、和服の正式な用語としては「お対(おつい)」と言い、同じ布地で縫製した長着と羽織のセットを指す言葉である。しかし、長着と羽織に違う布地を使って、男性用の正装の和服として長着と羽織をコーディネイトした服をセットで「アンサンブル」と称して販売されていることは多い。正式な場所での男性の正装の着用には必ず袴を着用する。男性の袴は「馬乗り袴」と言って洋服のズボンのように左右に脚が分かれているものが正式であるが、女性の袴と同じように分かれていないスカート状の「行燈袴」もある。厳密には袴にも夏用と冬用の区別はあるが、着物の袷のように裏を全体に付けることはないので地の薄さと密度によって区別されている。現在ではあまりこの別を意識することはなくなっている。正装として黒羽二重五つ紋付を着る場合、本来であれば長着の下に女性の留袖と同じく「白の重ね」を着るのであるが、現在ではこの風習はあまり見られず花婿の衣装に「伊達衿」として白の衿をつけることに残っているのみである。男性用の普段着の和服には色無地・浴衣・作務衣・甚平・丹前・法被(はっぴ)などが含まれる。男性用の普段着の和服では、羽織は着なくてもよい。戦後ウールの着物の流行により、くだけた普段のくつろぎ着としてウールのアンサンブルが用いられるようになり、気軽な訪問には用いられるが本来であれば自宅用として着用するのが望ましいものである。和服を着用させること、または和服を着用することを、着付けという。着付けには履物を履くことも含まれる。現在では美容院で着付けをすることが多いため髪結いと着付けはセットで行われるが、髪結いは着付けの意味には含まれない。髪結いは着付けより前に行うことも、後に行うこともある。着付けには、自分一人だけで行う方法と、他者に手伝ってもらいながら行う方法がある。和服を着ることを、和装ともいう。着付けをする人を、着付師と呼ぶ。女性の和服の着付けは難しくはないが、手順があるので慣れが必要である。そのため着付けの本があり、着付けを教えるための学校が全国に多数存在する。着付けの学校では、女性用の和服の着付けを一般人に教える授業料と、着付けを手伝う手数料が、学校にとっての大きな収入源になっている。世界の中で、自国の民族服の着用の仕方を教えるための学校が全国に多数存在し、かつ着付けを教える人に資格を与えるという国は日本だけである。ただし、これらの着付け教室や着付け学校が生まれたのは戦後のことである。和服を着る際、手を袖に通した後、右の衽(おくみ)を体に付けてから左の衽をそれに重ねる。このことを右衽(うじん)という。また、左よりも右を時間的に前に体に付ける、あるいは右の衽が手前に来ることから右前とも呼ぶ。男女共に右前なのは、洋服と異なる点である(なお、世界的に見れば洋服のように男女で打ち合わせが異なる方が特殊である)。日本で和服をなぜ右前にするのか、またいつから右前にするようになったのかについては、諸説がある。時期については、『続日本紀』(しょくにほんぎ)によると、719年に、全ての人が右前に着るという命令が発せられた。これはその当時手本としていた中国において右前に着ることが定められたのでそれに倣ったものと言われている。中国で左前にすることが嫌われたのは「蛮族の風習であるため」とされたが、この蛮族というのは北方に住む遊牧民達のことで、彼らは狩猟を主な生活として行う上で弓を射やすいという理由で左前に着ていた。農耕民である漢民族とは全く違う暮らしをし、しばしば農耕民に対する略奪を行っていた遊牧民達は、中国の古代王朝にとっては野蛮で恐るべき存在であり、これと一線を画することを決定したという説がある。それまでは中国でも日本でも左前に着ていた時期が存在する。また一説によると、一般的に右利きが多く、闘いなどの際右手で刀を抜きやすいように腰の左側に刀を差すことが多いため、刀を鞘から抜こうとするときもし和服を左前(右前の逆)に着ていた場合抜こうとした刀が自分の右から流れている衿に引っ掛かってしまうことがないように、和服を自分の左から右に流れている右前に着るようになったのだという。また死者に死に装束を着せる場合通常と反対に左前に着せるが、これは「死後の世界はこの世とは反対になる」という思想があるためであると言われている。洋服は体型を立体的に強調するようなデザインであるが、和服は体型を隠蔽するデザインである。女性の場合、晒(さらし)を巻いたり、和装ブラジャーを装着することにより胸のふくらみを抑えたり、帯の下になるウエストにタオルを巻くことにより、よりいっそう直線的な体型に着つけることもある。タオルを巻くのは、着用した和服が着崩れないようにするためでもあるが、このことは体の輪郭線を隠す結果になる。なお、体型を隠すように直線的に和服を着るべしとされたのは昭和30年代後半に入ってからのことである。和装ブラジャー、タオル等による補正もその頃に生まれた風習である。ちなみに、昭和30年代前半は、洋服の下着を身に付け、あえて体の線を強調して曲線的に着るのが良しとされ(例えば昭和32年の『主婦の友』4月号には、「体の美しい線を出す新しい装い方」という記事が掲載されている。)、それ以前は、それぞれの体形なりに着付けるのが良しとされていた。縮緬類は半紙を四つ折りにして三つ襟の中に挟み、針で留める。重ね着の場合は下着の襟だけを入れ、上下の背縫いを合せて1針留め、襟先も重ねて襟の付け根を1針留める。長襦袢には半衿をつけておく。場合により半衿の中にプラスチックなどの芯を入れることもある。腰帯、下締類はモスリン並幅三つ割を芯無にくけたものが解けず最もよい。肌着の上に長襦袢を着て衣紋を抜き、下締を2回巻いて結ばずに前で潜らせておく。手を通して両手で襟先を持ち、上前襟先が右腰骨の上にくるまで前を合せ、座礼(茶の湯など)の場合、襟先が後に回るくらい深く合せる。下帯は腰骨の上の辺に締め、右横で結び、手を入れて「おはしょり」を伸ばし、衣紋を作り、襟はあまり広げずばち襟ほどにして、下締を締める。身八ツ口から手を入れておはしょりを整えて伊達巻を巻く。帯のかけの長さは前に回して左腰骨に来るくらいがよい。丸帯は縫目が外になるように二つ折りすれば模様が前に来る。帯揚は盛装では大きめがよく、羽織下では低い方がよい。若い人があまり低い帯揚はよくない。襦袢は襦袢で合わせて胴着を合わせて上下着を重ねて着る。袴を履くならば角帯がよい。7、8歳以上の盛装は腰揚をせず、難しいがおはしょりをして腰揚のように見せる。付紐を上着と下着と一所につけておくと楽である。現在の正装の和服には、男性用・女性用ともに、紋(もん)を描く。紋は通常自家の家紋や裏紋(定紋や替紋)を用いる。なお芸事や花柳界で使う着物の紋は本人の紋ではなく、所属する流派の紋や家元の定紋、また芸妓置屋の定紋を衣裳に染め抜いて用いることが一般的である。和服の紋の大きさは、直径が2cmから4cmの円に収まるほどである。紋を入れる所は「石持ち」(こくもち)といい、あらかじめ白く染め抜かれており、そこに後から地色で柄を染め付ける。紋入れを専門とする職人が存在し、販売店などを通じて紋入れを依頼する。紋には、「染め抜き紋」、「縫い紋」、「加賀友禅紋」、「加賀縫い紋」があり、それぞれ「日向紋」、「陰紋」がある。「陰紋」の方が略式である。「染め抜き日向紋」は紋を白く染め抜いたもの、「染め抜き陰紋」は紋を白い輪郭で描いたものである。「染め抜き日向紋」が正式で、正装に用いられる。「縫い紋」は、紋を刺繍したものである。四季の花を刺繍や友禅染めで花丸にしたり、動物や器物などを刺繍した「洒落紋」は装飾であり、紋としての格はない。和服の紋の数は1つ,3つ,5つがあり、それぞれ「一つ紋(ひとつもん)」、「三つ紋(みつもん)」、「五つ紋(いつつもん)」と呼ばれ、着物の種類や目的によって使い分けられる。紋の数が多いほど格が高いとされ、染め抜きの日向紋の五つ紋が最も格が高い正式なものとなる。紋が描かれる場所は、紋の数によって決まっている。和裁とは、和服裁縫の略語であり、和服を制作することやその技術のことである。「和服の仕立て」ともいう。詳しくは、和裁を参照。「本だたみ」と言われる畳み方が一般的に普及しており、着付け方を紹介した本などにも多く取り上げられている。その他礼装用などで本畳みにすると刺繍など折り目が付いてしまうことを避けるために行う「夜着畳み」という畳み方もある。仮仕立てと呼ばれる仮縫いの状態や仮絵羽になっている着物を畳む畳み方(絵羽畳みなどと呼ばれる)もある。また仮に衣桁などに架ける場合や一時的に畳んでおく肩畳みなどと呼ばれる背中心から折り込み、衿が肩方を向く畳み方があり、これは洋服を畳む時に似ていると言え、本だたみのような技術は要しない。(なお、この畳み方を本だたみであるとする専門家もいる)また、襦袢や羽織などは本畳みにせずそれぞれの畳み方によって畳む。一般家庭には、礼装の和服を洗濯する技術がない。一般的には、和服のクリーニングを専門に扱うクリーニング店に洗濯を依頼することが多い。縮緬や綸子など高価な正絹で作られている礼装の和服の洗濯の料金は高いので、正装の和服を洗濯する頻度は少ない。一方木綿や麻などの普段着の和服は、一般家庭で容易に洗濯できるものが多い。家庭での洗濯にも耐えるように「水通し」をしてあらかじめ生地を収縮させて仕立てる方法と、洗濯による生地の収縮を見込んだ仕立てを行う方法がある。古代においても持統天皇の御製『春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香具山』に見える通りである。正式には、洗濯の際に和服の糸をほどいて分解して洗濯し、染み抜きを行い、洗濯が終わったら大きな板に生地を張り付け上から薄く糊を引いて乾かした後に縫い直すことを行う。この洗濯方法を、洗い張り、または洗張(あらいはり)と呼ぶ。縫い直すときに、服の寸法を直すことや弱くなった所の補修や弱った所を目立たない所に置き換える「繰り回し」などを行うこともある。これらの作業をする分、「洗張」の料金は高価になるのが一般的である。現在ではより安価なドライクリーニングの手法も多用されるようになっている。和服の特徴を表す言葉を中心に、衣服の様式を表す言葉をここに集めた。個人の好みで着用するのではなく、職業・役割により現在も和服の着用が強く求められる場合がある。次に挙げる場合は、職業・宗教により、正装または普段着として和服を着用することが主流となっている。次に挙げるスポーツでは、選手はそれぞれのスポーツの専用の和服や道着を着る。道着も前を合わせて帯を締めるという構造上、また種目によっては(剣道・弓道など)袴を着用することから、和服の一種であるといえる。これらの衣服は、女性用の正装の和服を売っているような店では販売されていない(剣道・弓道具店、スポーツ用品店で発売)。19世紀以前の日本では、現在の和服の言葉では使われない言葉が多数使われた。19世紀以前の日本の衣服について説明している、現代に書かれた文章において、次の2つの場合があるので、注意する必要がある。古い服飾の研究は、有職故実の一部である。
出典:wikipedia
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