内田 樹(うちだ たつる、1950年9月30日 - )は、日本の哲学研究者、コラムニスト、思想家、倫理学者、武道家、翻訳家、神戸女学院大学名誉教授。京都精華大学人文学部客員教授。合気道凱風館館長。東京大学文学部卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程修了。学位は修士(東京都立大学・1980年)。合気道七段、居合道三段、杖道三段。専門はフランス現代思想だが、取り上げるテーマはユダヤ人問題から映画論、武道論まで幅広い。東京都大田区下丸子に生まれ育つ(父親は19歳で家を出て満鉄に入社。戦後、日中友好協会の会員になった)。1963年に大田区立東調布第三小学校を卒業、1966年に大田区立矢口中学校を卒業。1966年、東京都立日比谷高等学校に入学。高校2年で成績が学年最下位になり、のち品行不良を理由に退学処分を受けた。家出してジャズ喫茶でアルバイトをするが、生活できなくなり、数ヶ月後に親に謝罪し家に戻った。1968年10月、大学入学資格検定に合格。1969年、東京大学入試中止の年に京都大学法学部を受験し不合格。駿台予備校を経て、1970年4月、東京大学教養学部文科III類に入学。1975年3月、同大学文学部仏文科を卒業。指導教官は菅野昭正。1975年12月、合気道自由が丘道場に入門し多田宏に師事する。1977年1月、平川克美を社長とし翻訳会社「アーバン・トランスレーション」を設立。1977年4月、東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程(フランス文学専攻)に入学。入学後も会社経営を続けた。修士論文はモーリス・ブランショ、指導教官は足立和浩。1980年4月、東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程に進学。ブランショと影響関係のある哲学者として、エマニュエル・レヴィナスの名を初めて知る。たまたま手にとった『困難な自由』の最初のテクスト「倫理と精神」を読んで衝撃を受け、「この人についてゆこう」と決心する。1982年4月、東京都立大学人文科学研究科博士課程を中退。東京都立大学人文学部助手(フランス文学専攻)となる。1985年9月、レヴィナスの訳書『困難な自由』を国文社から刊行。1987年9月、レヴィナスに面会。1989年に離婚、娘の内田るんと父子家庭になる。1990年、神戸女学院大学文学部総合文化学科助教授となる。1997年2月、観世流の下川宜長に入門、仕舞と謡を習い始める。2001年3月、初めての単著となる『ためらいの倫理学』(冬弓舎)を刊行。2009年、再婚。同年11月、『日本辺境論』(新潮新書)を刊行。2010年7月から平松邦夫大阪市長のもとで市長特別顧問を務める。2011年3月、神戸女学院大学教授を退職。同大学名誉教授。同大学の合気道部顧問を継続して務める。同年4月、第3回伊丹十三賞を受賞。同年11月、神戸市東灘区住吉本町に道場兼能舞台の「凱風館」が完成、館長を務める。2015年4月、京都精華大学人文学部客員教授に就任。自由民主党と公明党による連立政権である安倍内閣に対して、独裁という強い表現を使って反対の立場を表明している。『しんぶん赤旗』のインタビューで、「共産党に期待することは、マルクスの教えのもっとも本質的なところ、すなわち『ものごとを根底的にとらえる』という意味でラディカルな政党であってほしいということです」と述べている。憲法9条の改訂には反対であるが、自身の憲法観と自衛隊についての考え方は「いわゆる『護憲派』のそれとはだいぶ違っている」という。憲法九条と自衛隊を「双子的制度」と呼び、この2つは「アメリカのイニシアティヴのもとに戦後日本社会が狡知をこらして作り上げた『歴史上もっとも巧妙な政治的妥協』の一つである」、「憲法九条と自衛隊が『リアル』に拮抗している限り、日本は世界でも例外的に『安全な』国でいられると私は信じている」と述べている。共著に『9条どうでしょう』(毎日新聞社)がある。『すばる』2007年1月号で高橋源一郎、矢作俊彦と対談した際、矢作の「有事に現自衛隊法では自衛隊員は銃を撃つこともできない、こういった「あいまいさ」は関東軍と同様で危険だ」という意見に対し、「日本人は原理原則が行動原理ではないので、憲法もあいまいなままでよい」と主張した。教育行政については、政治や政治家は教育に関わるべきではないとする立場をとっている。学校教育という制度が、非常に惰性の強い制度であって、急激な変更はなじまないと考えている。つまり、政治家が替わるごとに教育に急激な変化が起こるのは、決して良いものではないという考えである。たとえば、大阪市長特別顧問に就任した際の記者会見において、平松市長に対してこう述べている。「私が市長にお願いしたいことが一つあります。一つだけです。それは地方自治体の首長は教育行政に関与して欲しくないということです」。この“政治が教育行政に関わりすぎるべきではない”という点において、大阪維新の会の教育政策には批判的である。公立中学校での武道の必修化については反対の立場である。なぜなら、その目的が礼節や愛国心を身につけるためという功利的なものだからである。礼儀正しく振る舞うのは、手段であり目的ではない。したがって、武道の必修化では手段と目的が逆転しており、武道に対する敬意を欠いている、と主張する。内田は、国民国家は擬制であり本質的に恣意的な構築物であると考えているが、国民国家がきちんと機能するためには、「それがあたかも自然物であるかのように、天来のもの、神授のものであるかのように、ふるまってみせる必要」があり、それができることが市民的成熟の1つの条件であると思っているという。国旗や国歌に対しても「適切にふるまう」ことができるのが成熟した国民国家成員の条件であるとしている。「国民国家とは何か」について各人が自己責任において思量することこそが国民国家成員にとっては不可避の義務であり、それは自分の代わりに他人に考えてもらうことではないし、他人に命令されることでもないと内田は考えているという。そして、「国民国家は擬制であり、私事である」ということをわきまえた上で、なおかつ国民国家以外の選択肢がないときに、「これをどのように気分のよいものにすべきか、とまずは手元足元の工夫から始める人」のことを内田は「成熟した市民」と呼んでおり、内田によればそれが「標準的な『市民的成熟』の階梯」であるという。「この健全な市民への成熟の行程」への妨げになるがゆえに、内田は国旗国歌に対する業務命令や法的強制に原則的につねに反対してきたのだという。格差社会論を一貫して批判し続けている。格差社会は裏返せば拝金主義であり、金のことなど気にしなければ良い、と主張している。特に内田が問題視するのは朝日新聞の「ロスト・ジェネレーション」論を始めとする、「ロスト・ジェネレーション」と「団塊の世代」の世代間格差を問題視する論であり、内田は格差社会論は全てこのような「資源の不当な収奪への異議申し立て」であると定義し、こうした議論については徹底的な批判を加えている。その論法は教育論におけるそれと同様、「ロスト・ジェネレーション」の内面が「ロスト・ジェネレーション」の問題を創り出しているというものである。同学齢集団内の競争というシステムが、「他人のパフォーマンスを下げる」という相対優位の戦略を取らせると主張している。学力低下問題では、大学の入学定員の多さが学力低下の一因であるという指摘を認めず、逆に「大学教育によって高校までの教育の不完全さを補っているのだ」との論陣を張った。「勉強すれば、金になる」という利益誘導のロジックが学校教育を覆い尽くし、親・教師・メディア・政治家もそのロジックを主張したせいで、日本の子どもたちが学習意欲を失ったと主張している。温暖化と二酸化炭素の間の因果関係はまだ科学的には証明されていない、と2007年に述べている。氷期と間氷期を交互に経験する地球は現在は「間氷期」にあり、いずれは氷期が訪れて動植物が激減すると内田は考えているため、「温暖化には類的な立場からはそれほど怯えることもないのではないか」と考えているという。1976年3月に野沢温泉スキー場で「楽しい夜更かし」を聴いたのが、大瀧詠一の音楽を最初に経験した機会であったという。以後37年間、内田は忠実な「ナイアガラー」として過ごしたと2013年に述べている。内田は「ナイアガラー」の語義を次のように説明している。「『ナイアガラー』というのは、大瀧詠一さんが実践してきた音楽活動(には限定されないもろもろの活動)をフォローすることを人生の一大欣快事とする人々の総称です。」「ナイアガラーは『日本のフリーメーソン』であるから、どこで知り合っても『私、ナイアガラーなんです』とカミングアウトすればたちまち百年来の知己となることができる。これは他のミュージシャンにはあまりないことである。」2005年8月19日に大瀧と初めて会う。2007年から2013年までの間、「ラジオデイズ」のオーディオ・コンテンツとして大瀧との座談会を平川克美らと共に計6回行った。「内田樹の研究室」というブログを運営している。『ためらいの倫理学』は、冬弓舎の内浦亨が内田のサイトのテキストを発見したことから刊行された。「書くことの目的が生計を立てるではなく、一人でも多くの人に自分の考えや感じ方を共有してもらうこと」との考えから、ネット上で公開した自身のテクストについては「著作権放棄」の考えを示しており、他人が剽窃によって収入を得ることも容認すると2009年に述べている。一方、講演については謝礼が必要(ノーギャラは仕事のクオリティを認めていない)としている。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。