一〇〇式重爆撃機(ひゃくしきじゅうばくげきき)は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の重爆撃機。キ番号(試作名称)はキ49。愛称は呑龍(どんりゅう)。略称・呼称は一〇〇式重爆、百式重爆など。連合軍のコードネームはHelen(ヘレン)。開発・製造は中島飛行機。1944年4月にはキングレコードから呑龍をテーマにした「鐘馗呑龍新司偵(時雨音羽作詞、細川潤一作曲、鬼俊英歌)」が作られている。開発年は皇紀2600年の1940年で、陸軍に制式採用されたのは1941年である。原則的には制式採用年に因み、一式重爆撃機と命名するのが慣例だが、1940年はめでたい年で全国的に祝賀ムードだったこともあり、皇紀2600年の数字を冠して一〇〇式重爆撃と命名された。ニックネームは「龍を呑む」という勇ましい名称だが、実際には江戸時代に貧乏人の子弟を養育した心優しい浄土宗の僧「呑龍」の名前からとったものである。これは製造会社の中島飛行機の工場があった群馬県太田市に「子育て呑龍」と呼ばれた大光院があったことから名づけられたという。九七式重爆撃機の後継にあたる本機は、戦闘機の護衛を必要としない高速性能と重武装を併せ持った重爆撃機として設計された。対ソ戦において、敵飛行場を攻撃する航空撃滅戦に用いる構想であった。しかし、結果として同時期に出現した敵戦闘機に比較して高速と言える程の性能を持つには至らず、実戦においては常に味方戦闘機の護衛を必要とした。1938年(昭和13年)に帝国陸軍は、中島飛行機に対して新型重爆撃機キ49の開発を命じた。同時に三菱重工業に対しても、重爆撃機キ50の試作を命じたが、こちらは計画だけで中止となった。陸軍からの指示は、で、いずれも九七式重爆を上回る性能を要求されることとなった。中島ではこの過酷な要求に各種の工夫をもって取り組み、1939年(昭和14年)8月に試作第1号機を完成させた。翌月から審査が開始されたが、その後エンジンの強化を含む各種の改修を施した試作機2機と増加試作機7機が完成した。そして、1941年(昭和16年)3月に一〇〇式重爆撃機(一型:キ49-I)として制式採用された。双発機であり、レシプロエンジン(空冷二重星形)を左右両主翼に搭載している。燃料タンクは防弾式であり、機銃も6門搭載している。胴体後上部に20 mm 機銃を装備し、他に機銃座は、機首、胴体左右、胴体後下部、尾部にあった。防御力に加え、最大速度もI型で470 km/h と優速であり、同時期の一式陸上攻撃機より優れている部分があった。爆弾搭載量は750 kg から1,000 kg。陣地爆撃を主目的として太平洋戦争(大東亜戦争)中の中国戦線及び南方方面で活躍した。また輸送機としても使用された。本機は、性能的に見て武装が強化されたこと以外は九七式重爆とあまり差が無く、またエンジンであるハ41は信頼性に乏しかったことから、それならば以前から配備されていた九七式重爆の方が信頼性があると言われ、実戦部隊での評判はあまり良く無かった。九七式重爆と比べ性能に大差ないことは、試作審査の段階で陸軍も把握していたが、既に性能的な限界にある九七式重爆に比べて、重武装である事や将来的な発展性を期待され制式採用された。しかし、その後行われた改良後も全ての面において飛躍的な性能向上はなく、換装したハ109もまた決して信頼性が良くなかったため、九七式重爆と比べると目立つ活躍することも無いまま終わった。これは本機の性能以外に、多くの機体が対ソ連戦を見越して満州や中国北部に配備されたため実戦参加の機会が少なかったことも理由であった。元来陸軍の重爆は対ソ戦専用に適応させた機種であったこともあり、またエンジンに信頼が置けない本機は比較的長距離の侵攻や洋上飛行を伴いがちな南方戦線では特に使いどころに乏しかった。生産数も2000機を越えた九七式重爆と比べると、各型あわせて813機(832機説もあり)と伸びなかった。重武装することにより敵戦闘機の攻撃を撃退するという戦術思想は、爆撃機の防御火力の有効性を過大に評価したことから生まれた(これは「屠龍」等の複座戦闘機の後部旋回機銃に対する過大評価と同根である)。当時の爆撃機の防御火力は、本機も含めて全て人力操作・照準であり、高速で軽快に動き回る単座戦闘機に対して命中率はきわめて低かった。結局のところ、当時の技術では、戦闘機の護衛なしで活動できる爆撃機は実現不可能で、机上の空論に過ぎなかったと思われる。圧倒的な高性能を誇り、動力銃座をも装備し日本の戦闘機を寄せ付けないとまで言われたB-29戦略爆撃機ですら、護衛戦闘機を付けていない時期には少なくない数が撃墜されている。1943年(昭和18年)6月20日のポートダーウィン爆撃では一式戦闘機「隼」の護衛があったとはいえ、出撃した18機中16機が46機のスピットファイア隊の攻撃を耐え切って帰還している。そのため、戦闘機との連携が良い状況では、一〇〇式重爆の防御火力と防弾装備の有効性は高く評価されることもある。しかし実際は帰還した機体の多くが大破しており修理不能として現地で廃棄され、一〇〇式重爆のポートダーウィン空襲はこの一回きりしか行われなかった。最初の量産型で、エンジンはハ41を装備した。1941年8月から1942年(昭和17年)年8月までに129機生産。エンジンをハ109に換装した性能向上型で、プロペラ、ラジエーター、機首の形状等が改修された。さらに、武装の違いによって甲、乙、丙(武装を全廃した哨戒機型)があった。687機生産。ハ107、またはハ117にエンジンを換装した型で、主翼や尾翼も改修されていた。テスト中に最大時速590km/hを記録したが、試作、増加試作機6機の生産で終わってしまった。二型の爆撃装備を廃止し武装を強化した編隊擁護機で、1941年までに3機試作。武装を強化した指揮官機で、1941年に2機試作。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。