吉田城(よしだじょう)は、三河国渥美郡今橋(現在の愛知県豊橋市今橋町、豊橋公園内)にあった日本の城。戦国時代の16世紀初頭にその前身が築城され、16世紀末に大改築が行われた。戦国時代には三河支配の重要拠点の1つとして機能し、江戸時代には吉田藩の政庁としての役割を果たした。別の城名としては、築城当初に今橋城と呼ばれ、明治維新後には、吉田から豊橋の改名に伴い豊橋城とも呼ばれた。永正2年(1505年)に宝飯郡の長山一色城主・牧野古白が今川氏親の命により、渥美郡馬見塚村(豊橋市今橋町。現在の同市馬見塚町とは位置が異なる。)の入道ヶ淵に臨む岡に築城したとされる。築城目的は、西三河で勢力を広げつつあった安祥城の松平長親による東三河進出に備えるため、もしくは、その松平氏の縁戚としての友好関係を保持しながら渥美郡全域で勢いをつけていた戸田宗光を警戒するためのもの、と考えられている。翌永正3年(1506年)松平氏と今川氏の戦いの後、牧野古白・野瀬丹波が討死。今橋城から近い東方の二連木城(豊橋市仁連木町)や半島の田原城に拠点を持つ戸田氏と、牧野氏が争奪戦を繰り返すため城主が次々と入れ替わった。享禄2年(1529年)、西三河から松平清康(長親の孫)が進出し吉田城を攻略。戸田氏まで屈服させて、三河支配権を、ほぼ確立させた。しかし、天文4年(1535年)には清康が横死して松平氏の直臣の城番が撤退、かわって非直臣の城番の一人牧野成敏がそのまま城主となるが、天文6年(1537年)には牧野氏を追った戸田宣成が城主となった。天文15年(1546年)、牛窪城主(長山一色城主)の牧野保成の要請を請けて今川氏が戸田宣成を攻めて吉田城を陥落させ、これを管理下に置いた。今川氏が直接支配に乗り出したことで東三河における最重要戦略拠点となった。今川義元は駿河から城代に伊藤左近・後に小原鎮実を派遣。支配力を強化する為、東三河の国衆にも城代を補佐させて統治協力を強いた。その後、松平氏の弱体化によって新たに今川氏の統治下に組み込まれた岡崎城を後方から支える責務も負った。だが、永禄3年(1560年)5月、今川義元が桶狭間の戦いで討たれると支配力を低下、次第に歯止めが利かなくなる。永禄8年(1565年)には、今川氏を離反した松平家康によって攻略され、小原鎮実は退避。今川氏は三河支配権を喪失する。豊川を後背地とする背水の陣となるのを嫌ったのか、家康は本城として用いずに信任の厚い重臣の酒井忠次を城代に任命。並びに、南方の田原城の城代に本多広孝を配置。吉田城を中心とし戸田氏や牧野氏、西郷氏などの東三河4郡の諸豪族を統率させた。永禄11年(1568年)末からの遠江侵攻では、掛川城を攻囲するまでの東三河衆は酒井忠次の指揮の下、家康本隊とは別行動であった。遠江を併呑した当初、まだ本格的ではなかった武田氏との対戦が想定され、城の北方では設楽郡の長篠城・野田城が、東方では遠州の浜松城・二俣城・高天神城などが牙城となった。その武田氏とは、元亀2年(1572年)より天正10年(1582年)に至るまで攻防戦を三・遠の両国で繰り広げるが、天正3年(1575年)の長篠の戦いまでは徳川氏が劣勢であった。特に元亀2年の春には設楽郡の防衛網を容易に突破した武田軍が南進。吉田城下にまで押し寄せられるが、頑強に守り抜いた。その後も城代・酒井忠次を旗頭とする東三河国衆が武田氏による東三河・西遠江への侵略対応に心血を注いだ。天正18年(1590年)、豊臣秀吉により家康が関東に移封されると、池田照政が東三河4郡を統べる15万2千石の城主となった。照政は吉田城および城下町の大改築や吉田大橋(豊橋)の架け替えを行った。整備は11年間にわたって行われたが、関ヶ原の戦いの翌年慶長6年(1601年)に照政は播州・姫路に移封された。現存する城跡は近世城郭ではあるが、照政の統治下では完成しなかった。幕藩体制の下で吉田城に三河吉田藩の藩庁が置かれた。ただし、東海道の重要な防衛拠点の1つに挙げられていたため、江戸幕府の老中・大坂城代・京都所司代格など有能な譜代大名が城主に選ばれ出世城などと呼ばれていた。竹谷松平家をはじめ、深溝松平家や水野氏、小笠原氏など3万から8万石の譜代大名のみに託されるが、国替えは頻繁であった。そのため、ほとんどの藩主は菩提寺を吉田に造らず、唯一の藩主の菩提寺は小笠原家四代の廟の有る臨済寺{通称、殿様寺(とのさまでら)。豊橋市東田町}のみである。最後に入ったのは、大河内松平家である。明治維新後、松平信古(後の子爵大河内信古)が明治2年(1869年)に版籍奉還したため、明治政府下の豊橋城(豊橋藩)となり、明治4年(1871年)、敷地は兵部省の管轄となった。明治6年(1873年)、失火により多くの建物が焼失した。また、城趾内に名古屋鎮台の豊橋分営所が設置され、明治8年(1875年)には大日本帝国陸軍歩兵第18連隊が置かれた。太平洋戦争後、三の丸内側は一部を除き豊橋公園として整備され、本丸には1954年(昭和29年)に隅櫓(鉄櫓)が模擬再建された。隅櫓(鉄櫓)の中は簡易的な資料館となっている。また美術館やスポーツ施設、文化会館などが整備されている。また、豊橋市役所(豊橋市今橋町1番地)も三の丸に立地している。以前は、豊橋まつり開催時のみ無料で隅櫓(鉄櫓)へ入館出来たが、2012年現在は毎週日曜日にも開館されている。築城当初のこの城の命名について、「牛窪記」には吉田城とあり、後の成立である「牛窪密談記」・「宮嶋伝記」には今橋城となっており、また「今橋物語」には峯野城や歯雑城(おかさわじょう)と古名を紹介していて、今橋城の城名には諸説がある。大永2年(1522年)、城主であった牧野信成(古白の子)によって吉田城と改められたというが、『宗長手記』では、大永4年(1524年)に「十日に今橋牧野田三一宿」、大永6年(1526年)、「三河国今橋牧野田三」とある。また、明治42年(1909年)発行の『豊橋志要』(豊橋市参事会)には、天文年中に、今川義元が、今橋から吉田に改称したとしている。この吉田城は豊川と朝倉川合流地点に立地。現在に至るまで23度にわたって発掘調査が行われている。その成果によると、戦国期の吉田城は土盛と素掘りの堀による簡素な構造だったと考えられる。池田輝政による改築以降、北側に川を背にして本丸があり、それを囲むように二の丸、三の丸、侍屋敷が囲むという半円郭式の平城であった。ただし、掘割や土塁は戦国期の吉田城と平行線状に並んでおり、縄張りは戦国期のものをある程度踏襲されていることが知れる。本丸は北側の川に面し、切り立った石垣が組まれていた。南側は囲むように石垣と隅櫓で構築され、その外側には空堀が掘られていた。天守は無く、隅櫓の一つである鉄櫓が天守の代わりをしていたと考えられている。本丸御殿が江戸時代の深溝松平氏が納めた当時に建設されたが、宝永4年(1707年)の宝永地震で崩壊し、以後再建されなかった。再建鉄櫓を支える石垣は池田輝政当時のものといわれる。その他の部分の石垣については、慶長期の名古屋城築城の際に余った石垣を転用している部分が見受けられ、石垣の中には天下普請(多くの大名が築城に動員されたこと)であったことを示す各大名家の家紋などが刻まれているものがある。二の丸は土塁で囲まれており、二の丸御殿や弾薬庫があった。また二の丸の北、本丸の東側には細長い形状の金柑丸があった。牧野古白による築城当時の本丸はこのあたりにあったといわれている。三の丸も土塁で囲まれ、米蔵や土蔵、長屋などがあり、その外側は侍屋敷が広がっていた。場外とは総堀で囲われており、当初空堀であったが、承応3年(1654年)、譜代の小笠原忠知によって向山大池(豊橋市向山町)が築かれ、水を引いた。大手門は札木町(豊橋市札木町)付近にあった。なお、城全体の敷地は名古屋城よりも広い。公園化された本丸から三の丸には石垣、土塁、堀が残る。本丸石垣は2005年の修復の際に池田輝政時代の石垣であることが判明した。静岡県湖西市鷲津の本興寺の奥書院(静岡県指定文化財)と山門(湖西市指定文化財)は、久世氏によって寄進移築された吉田城の御殿と大手門であると伝えられている。1954年(昭和29年)、本丸北西の鉄(くろがね)櫓址に櫓が模擬再建されている。2013年9月21日に豊橋青年会議所により、吉田城前の広場で10万4,840個(語呂で、とよはし)のアルミの空き缶で吉田城櫓のモニュメントが作られ、「アルミ缶でできた最大の像」部門のギネス世界記録に認定された。完成した城は、底辺の幅6.6m、奥行き5.5m、高さ5m、重量は缶だけで約3tもあり、製作途中の同月16日に豊橋を直撃した台風18号にも耐え抜いた。
出典:wikipedia
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