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バアス党

バアス党(バアスとう、, Hizbul-Ba'ath ヒズブ・ル=バアス)は、シリア・イラクなどのアラブ諸国で活動する汎アラブ主義政党。公式名称はアラブ社会主義復興党()。日本では慣用としてバース党とも表記するが、実際のアラビア語の発音では「バアス」と発音・表記する。「バアス」()とはアラビア語で「復興」「使命」を意味し、党名への採用にあたり「かつて東は中国から西はスペインに及ぶ広大な領土を勢力下に置き、化学や医学など様々な学術・技術で世界をリードしていたアラブの栄光を取り戻す」という意を込めている。更に、アラブ社会主義・汎アラブ主義(アラブ民族主義)を併せ持つ政治的主張を有している。(かつてエジプトでガマール・アブドゥル=ナーセルらが目指した様に)アラブ近代化もイデオロギー上で大前提としている為、イスラム原理主義(イスラーム主義)とは対立している。「単一のアラブ民族、永遠の使命を担う」()をスローガンとし、「統一」()、「自由」()、「社会主義」()の実現をめざす。一連の思想を「バアス主義」と言う。バアス党の結党当初の目標は、西洋によって線引きされた既存の国家群を解体し、統一したアラブ民族による国家を建国することが目的であり(バアス党のシンボルにも表されている)、その領土は西は北アフリカのモーリタニアから、東はイランのフーゼスターン州、南は東アフリカのソマリアまで含まれる。バアス党の創設者の一人であるミシェル・アフラクがフランス共産党の植民地政策容認に失望するまでは共産党の活動家だったようにマルクス主義の影響はあるものの(サラーフッディーン・アル=ビータールもマルクス主義者であった)、イラクのバアス党はアブド・アル=カリーム・カーシム首相がアラブ連合共和国への参加を拒むとイラク支部長のは閣僚を辞任して1956年からのカーシムの属する国民民主党やイラク共産党との同盟を解消してカーシム暗殺未遂事件を起こし、ラマダーン革命の際はカーシムを支持した共産党を弾圧している(1963年11月イラククーデターでバアス党はナセル主義者に追放され、7月17日革命で樹立したアフマド・ハサン・アル=バクル政権は共産党とを結成し、共産党員を2名入閣させるも後に弾圧し、小さなセクトのみ容認した)。シリアのバアス党は1950年代から共産党との共闘路線を続けており、現在のバッシャール・アル=アサド政権下でもでシリア共産党と連立して入閣させ続けているなど容共である。バアス党の源流は20世紀の初頭にさかのぼることが出来、シリア人の思想家ミシェル・アフラク(1910年-1989年)らによって基本的な政治信条が形成されていった。第1回の公式の党大会は1947年4月7日にダマスカスで開催、最初は軍の少壮将校や知識人など限られた層で成り立っていたが、次第に影響力を強め1954年 - 1958年にシリアを本拠にイラク・レバノン・ヨルダン・イエメンに党地域指導部を置いた(カタールとチュニジアにも存在したが、両国政府により非合法化される)。しかし、イラク・バアス党がシリア・バアス党の影響下に入ることを嫌い、自主独立路線を掲げてシリアの指導下から離脱。その他諸国のバアス党もレバノンを除いてイラクの路線に従った。2011年のアラブの春の発端ともなるジャスミン革命以後チュニジアでバアス党が公認された。正式名称はアラブ社会主義バアス党シリア地域指導部。現在のバアス党政権は、その他の社会主義、共産主義、民族主義政党と連立して、翼賛組織「進歩国民戦線」(PNF)を結成している。1940年12月にニーチェ、マルクス、ヘーゲル、フィヒテ、ベルグソンの思想に影響を受けたアラウィー派アラブ民族主義者ザキー・アル=アルスーズィーとその弟子たちがダマスカスで秘密結社「アラブ・バアス党」として結成。1947年、ダマスカスでアッ=タリーア(、al-Tali`a、前衛)の編集者でアラブ復活運動(Harakat al-Ihya al-'Arabi)を率いたミシェル・アフラクとサラーフッディーン・アル=ビータールらが中心となり結党大会を開き、政党(アラブ・バアス党)として正式に発足。1953年、アクラム・アル=ホーラーニーが率いるアラブ社会党と合併し、アラブ社会主義バアス党に改称。1963年3月8日のクーデター(バアス革命)で政権党となった。1967年の第三次中東戦争にてシリアが敗北すると、対イスラエル慎重派のハーフィズ・アル=アサドが1970年のクーデターで政権を握る。シリアとイラクの同党は、同じバアス党を名乗り、同じ年に政権を握ったものの、両国の主導権争いや、アル=アルスーズィーを担いだハーフィズ・アル=アサドたちに権力闘争で敗れたアフラクをイラクが保護したことのしこりなどもあり、対立関係にあった。シリアに厳しい態度を取っていたブッシュ米政権下において、レバノン問題やパレスチナ紛争で対立するシリアを孤立化させるため、バアス党をテロ組織に指定すべきだとアメリカ議会の対シリア強硬派議員、保守派の評論家が提案したことがあるが、実現には至っていない。正式名称はアラブ社会主義バアス党イラク地域指導部。イラク・バアス党は、シリアで創設されたバアス党のイラク支部として結成された。1951年4月7日に「党地域指導部」(RC)が設立され、その翌年の1952年に「党民族指導部」(NC)が設置された。党地域指導部初代書記長はフアード・リカービー。1968年7月のクーデター(7月17日革命)から2003年3月のイラク戦争によってサッダーム・フセイン政権が倒れるまでイラクにおいて一党独裁政治を敷いていた。1967年にアメリカと国交を断絶し、1972年にソ連と友好条約を締結、1970年代末にかけて一時ソ連との関係は好転する。1984年にイラクはイラン・イラク戦争の影響でアメリカと国交を回復させ、1988年に至るまでサッダーム・フセイン政権にアメリカは総額297億ドルの兵器供給を行った。湾岸戦争ではソ連に仲介を頼み、アメリカと和平を行った。2003年4月にアメリカの侵攻によりサッダーム・フセイン政権が崩壊すると、大半の党幹部が隣国シリアに逃亡した。5月にはアメリカ軍によりバアス党の解党宣言、連合国暫定当局により「非バアス化指令」が出され、バアス党の元幹部党員に対する公職追放が行われた。これにより、旧政権下で働いてきた公務員や教師、大学教授、裁判官、警官、医師らが一斉に失職した。この「非バアス化」政策については、国務省やCPAの前身である復興人道支援室(ORHA)の関係者などから「戦後のイラク統治を困難にする」として反対する意見も出されていたが、国防総省やホワイトハウス内のいわゆる「ネオコン」に近いグループ、そのネオコンに接近していた反体制派組織「イラク国民会議」(INC)のアフマド・チャラビーが強硬にこの「非バアス化」政策を推進した。この措置は後に、イラク復興に必要な人材を一掃してしまったとして、イラク軍解体と共に、アメリカの占領政策の失敗として批判された。このことから、元党員でもあったイヤード・アッラーウィー暫定政府首相によって一部に限って元党員の公職追放の緩和措置が行なわれた。しかし、バアス党に対して強硬なイブラーヒーム・アル=ジャアファリー移行政府首相の下では、より厳しい全ての元バアス党員に対する公職追放や罰則を設けた「非バアス化法」が議会によって可決され、これにより、議会内に元党員の公職復帰を阻止するための監視機関「非バアス化委員会」が設置された。しかし、この措置には多くの元幹部党員を輩出したスンナ派アラブ人が猛反発し、その結果、ヌーリー・マーリキー政権下で、旧政権下で犯罪行為に手を染めなかった幹部党員・下級党員に限って公職追放全面解除、年金支給、社会復帰サポートが行なわれるという『責任と正義』法が議会で可決された。 これにより、多くの元党員の公職復帰が認められることになった。また、イラク政府と国外で活動しているイラク・バアス党との間で、和解に向けた交渉も行われるようになった。しかし、2009年下半期にイラク国内でテロが続発すると、シーア派主導のイラク政府からテロの背後にバアス党がいると非難し、元党員に対する対応が硬化した。2010年1月、「正義と責任追及委員会」(非バアス化委員会の後身組織)は3月に開かれる議会選挙に立候補している候補者に「サッダーム旧政権の支持者が紛れている」として、元バアス党員と旧政権情報機関出身の立候補者の選挙参加を禁止すると発表した。この措置については、スンナ派政党や世俗派政党が反発して裁判所に上訴し、イラク上級裁判所も「正義と責任追及委員会」の決定を無効と判断したが、この決定に今度はイラク政府とシーア派政党が反発を示し、判断を最高裁判所に委ねた。これにより最高裁は「正義と責任追及委員会」の決定を認め、元党員の立候補は禁止された。現在のイラク共和国新憲法では、バアス党とそれに連なる組織は犯罪組織に指定されており、再結党や思想の普及、同党に対する支持や礼讃は禁じられている。また、イラク当局に起訴され、逮捕されている元バアス党幹部の資産没収などが決定されている。現在のバアス党指導者(RC書記長)は、イッザト・イブラーヒーム元革命指導評議会副議長である。しかし、一部の党幹部は路線対立からイブラーヒームの下を離脱し、元党軍事局メンバーであった、若手のバアス幹部党員、ムハンマド・ユーニス・アル=アフマドを新たな指導者に任命し、現在バアス党は、イブラーヒーム派とユーニス派に分裂しているとされる。当初、両派はシリアを拠点に活動しており、実質シリア政府の庇護を受けていると見られていたが、イッザト・イブラーヒームおよびその派閥はシリア内戦の勃発以後、シリア政府と対立関係にある。イラク政府は旧バアス党幹部の身柄引渡しを同国政府に求めている。イラク・バアス党は、イラク国内やシリアだけでなく、ヨルダンやイエメンなどの近隣アラブ諸国、フランスなどの欧州にも在外指導部を置き、資金工作や地下刊行物の発行を通じてイラク国内の旧政権残党勢力を支援しているともされる。特にバアス党幹部が結成させた反帝国主義を掲げた統一戦線イラク愛国同盟(Iraqi Patriotic Alliance)は共産主義者からイスラーム主義者といった多くの反米テロ組織を集めており、サッダームの公認だったと言われる。2008年12月18日、ニューヨーク・タイムズはイラク治安担当者の話として、内務省・対テロ部隊の隊員ら35人がバアス党政権復活のためにクーデターを企てたと報じた。一方、イラク内務省は逮捕されたのは同省の交通警察副部長などの幹部や下級職員で、バアス党系の武装組織「アル=アウダ」のメンバーであるという容疑で逮捕され、尋問を受けていると発表し、対テロ部隊とは関係が無いとした。彼らはクーデターでは無く、内務省ビルを放火しようとした容疑が掛けられているとした。ただ、本当に彼らが容疑を企てたのかについては疑問も出ており、事件の発端が同省の腐敗告発にある、あるいは逮捕された職員は互いに面識も無いとの報道もある。その後、イラク政府自身がクーデター疑惑自体を否定する発表を行なった。2009年8月26日、イラク軍は8月19日に財務省と外務省を狙った爆弾テロ事件の首謀者として、元バアス党員のウィサーム・アリー・カーズィム・イブラーヒーム(Wissam Ali Kadhem Ibrahim )という人物を逮捕したと発表し、供述の模様をビデオ映像で記者団に公開した。映像では、ウィサームと名乗る人物は、自分が1975年にバアス党に入党し、1995年までディヤーラー県の警察官をしており、2002年まで弁護士をしていたこと、旧政権崩壊まで同県のムクダーディーヤ市のバアス党指導者であり、2005年にイラクからシリアへと亡命し、そこでイラク・バアス党のユーニス派に加わり、2007年8月にイラクに戻ったことなどを語った。ウィサームは、テロの一ヶ月前に彼の上司に当たり、シリア在住のイラク・バアス党ユーニス派幹部のサッターム・ファルハーンという人物が、「イラクを混乱させるよう」テロ計画の実行を命じられたことを明らかにした。10月25日には、司法省とバグダード県庁を狙った同時テロが起き、イラク政府は前回と同様に、シリアに拠点を置くバアス党の残党勢力が、アル=カーイダと連携して今回のテロを実行したと発表。再度、テロに関与したとして逮捕された、元バアス党員と名乗る男の供述を公開している。パリに拠点を置く「Intelligence Online」のウェブサイトは、米中央情報局がダマスカスにおいてイラク・バアス党指導者と会合を開いたと報じた。会合でバアス党側は、武装闘争を停止する条件としてバアス党の政治参加を認めることや、バアス党系武装勢力のイラク軍への編入、非バアス化法の廃止を求めたという。会合はヨルダン総合情報部の斡旋により09年夏から始まった。アメリカの目的は、シーア派主導のイラク政府とバアス党との和解を仲介することであるとされ、Intelligence Onlineは「CIAの戦略が失敗すれば、米軍は内戦下の最中にある国から撤収することになるだろう」と警告している。2010年4月28日、サッダームの誕生日に合わせてシリアの首都ダマスカスで、フセイン政権崩壊後初のイラク・バアス党の集会が開かれた。集会で演説したバアス党幹部のガズワーン・アッ=クバイスィー(Ghazwan al-Qubaisi)は、アメリカの「占領」を非難し、イラク国民の団結を呼びかけた。また、イラク現政府に対しても「全てのバアス党員とナショナリストの政治参加を妨害し、国民再融和から離れた」と批判した。バアス党内の分裂についても否定し、サッダームを「英雄であり殉教者」と認定し、イラクの国民的抵抗を支持し続けるとした。集会には約500人が参加し、シリア文化省が所管するホールで行われた。2011年10月、イラク政府は国内でのテロを企てていたとして旧イラク軍将校を含む620人もの元バアス党員を拘束し、加えて350人の元党員に対して逮捕状を公布したと明らかにした。内務省幹部のアドナーン・アル=アサディー氏によれば実際の逮捕者リストには800人以上の元バアス党員が含まれているとして、バアス党員が2011年末の米軍撤退後に暴動や暗殺、シーア派を狙った爆弾テロを等を計画していたという。アサディー氏によれば、バアス党はイラク・イスラム国を通じてイラクの聖戦アル=カーイダ組織と協力しており、資金提供、情報提供、兵站支援などがバアス党の役目であるという。2015年4月18日、イラク軍が17日に行った掃討作戦によりフセイン政権時代の№2であったイッザト・イブラーヒーム元革命指導評議会副議長が死亡したと発表された。イラク軍当局は「遺体がイブラーヒームであることは95%確実」とし、遺体は検視のためバグダードに移送するとしている。シーア派民兵組織によって行われたDNA鑑定の結果、遺体がイブラーヒーム本人であることが確認され、20日に遺体がイラク政府に引き渡された。また、同年6月5日にはフセイン政権時代に副首相や外相を歴任したターリク・アズィーズが獄中で心臓発作を起こし、病院に搬送されたが、間もなく死亡した。二人の死により、サッダーム・フセイン、イラク・バアス党政権の主な幹部は刑死・戦死・獄死などで死亡し、残党勢力の益々の弱体化に繋がると考えられる。レバノンでは同じバアス党がイラク派とシリア派に分裂した。イラク派は2003年のサッダーム体制崩壊と共に消滅したが、2006年6月、「アラブ社会主義レバノン前衛党」()として再生した。ヨルダンでは1954年にバアス党が結党されたが、その後非合法化された。1993年にイラク・バアス党との違いを明確にするために党名を「ヨルダン・アラブ社会主義バアス党」とした。イエメンのバアス党は、「イエメン・アラブ社会主義バアス党地域指導部」として発足。現在は二派に分裂。分派は党名を「バアス民族党」として再編成したが、主だった活動はしていない。パレスチナではバアス主義を掲げる二つの組織、「アラブ解放戦線」(ALF)と「サーイカ」がイラク、シリア両バアス党の支援下に設立された。ALFがイラク・バアス党の、サーイカがシリア・バアス党の陣営に属した。現在も、イラク・バアス党を支持するのはヨルダンとイエメンのバアス党だけである。また、弱小政党ながらスーダンやモーリタニア、バーレーンにもバアス党が存在する。

出典:wikipedia

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