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総統官邸

総統官邸(そうとうかんてい、、)は、ナチス・ドイツの総統アドルフ・ヒトラーの官邸。ドイツ帝国以降のドイツ国首相が首相官邸として使用した。ベルリンの中央省庁の建ち並ぶヴィルヘルム街 () に設けられていた。現在総統官邸といわれるものは、ヴィルヘルム街77番地にあった旧ドイツ首相官邸、78番地にあった官邸の拡張部分、ヴィルヘルム街と直角に交わるフォス街に延びていた新総統官邸(フォス街1-19番地)の三つの建物の総称である。ヴィルヘルム街沿いには外務省、法務省、財務省、国民啓蒙・宣伝省、航空省(現在は連邦政府の財務省)等、ドイツ国政府の中央官庁があった。さらに南に下ればゲシュタポ本部 () もある。起源は1878年に初代統一ドイツの首相ビスマルクがヴィルヘルム街77番地の建物をドイツ国首相宮殿(Reichskanzlerpalais) として使用したことに遡る。ビスマルクは後に名称を Reichskanzlerpalais から Reichskanzlei(首相官邸) へと変更している。1930年には首相官邸は南隣りのヴィルヘルム街78番地にまで増築された。1934年8月にヒンデンブルク大統領が死去すると、ヒトラーはヒンデンブルクの偉業を記念するためとして大統領職を空席にし、首相職(政府首班)と国家元首を兼務し、自らの肩書きを「指導者及び首相」()と定めた。国民には従来通りに「指導者」()と呼ぶように要請した。この肩書きは日本では一般に「総統」として知られており、「Reichskanzlei」 の訳語として「総統官邸」もしくは「首相官邸」が用いられるわけである。1935年、ヒトラーは官邸を改造、二階に居住用の私室を設け、外務省に隣接する庭園に国賓等の接遇のために200名収容可能なレセプション・ホールを新築させ、同時に地下に総統地下壕を設けさせた。当時はドイツでは防空法なる法律があり、新築の際に防空壕を設置することは特別なことではなかった。また、1930年の増築部分である78番地の建物を彼は気に入らなかった。「まるで百貨店、あるいは消防署のような無味乾燥なファサードである」と酷評していた。1938年には官邸前に総統の姿を見たいと集まる市民に答えるためにお気に入りの建築家 アルベルト・シュペーア(後の軍需大臣)に命じてバルコニー (Führerbalkon) を作らせた。いわゆる総統官邸とは、ヴィルヘルム街77番地の建物、78番地の建物、ヴィルヘルム街と直角に交わるフォス街に延びる新総統官邸(フォス街1-19番地)の三つの建物の複合体を指す。1939年にはシュペーアが設計した新館が完成した。これは78番地の既存の総統官邸に連続してヴィルヘルム街と直角に交わるフォス街沿いにヘルマン・ゲーリング街(現ゲルトルート・コルマー街)まで西方向に400m以上も延びる細長い新古典様式の建物である。この建物は旧官邸と区別して新総統官邸 () と呼ばれる。新官邸に設けられた主なものは総統の執務室(広さ400平米)、閣僚会議室、食堂、ナチス党官房長()マルティン・ボルマン 、総統官邸官房長( )ハンス・ハインリヒ・ラマース 、大統領府官房長()オットー・マイスナーの執務室等である。地下には車庫や防空室が設けられた。ヒトラーは1939年1月12日に新年祝賀式をここで行い、各国大使、外交官、政府高官、党要人にお披露目をした。第二次世界大戦が始まると、ヒトラーは前線に近い総統大本営に居住することが多くなり、官邸が使用される頻度は減少した。連合軍によるベルリン空襲が始まると、総統官邸も被害を受けている。1945年1月15日以降はヒトラーは首相官邸に居住し、ソ連軍のベルリン攻撃が始まると総統地下壕に籠もるようになった。1945年4月30日、ヒトラーは総統地下壕で自殺した。5月1日には後継首相に指名されたヨーゼフ・ゲッベルスも自殺し、この建物を使用した最後の首相となった。彼らの遺体は総統官邸の中庭で焼却されている。5月2日にはソ連軍に占領され、総統官邸としての役目を終えた。戦後、総統官邸はソ連軍により解体、撤去された。建物に使用されていた大理石の一部は、トレプトウ公園()内のの一部に使われたほか、の部材にも使用され、現在も見ることができる。撤去された総統官邸の跡地には高層住宅が立ち並んでいる。近年、地下防空室の一部が発見され話題を呼んだ。1939年5月にはチェコスロバキア大統領エミール・ハーハを官邸に呼びつけ、モラビア・ボヘミアの割譲を要求した。1942年6月9日には暗殺された保護領チェコスロバキアの副総督ラインハルト・ハイドリヒの葬儀が「モザイクの広間」で行われるなどの、歴史の舞台ともなった。日本人の記録では、1941年に訪独した松岡洋右外相がバルコニーで手を振る姿が記録として残されている。新官邸のお披露目の際には駐独日本大使大島浩が招待された。1942年4月20日には在留日本人が総統官邸の参観に招待された。この時に「栄誉の中庭」を進む在留邦人の写真は佐貫亦男の著書「追憶のドイツ」に残されている。新総統官邸の完成に伴い衛兵配置も下記のように変更された(一部抜粋)。ナチス党発祥の地であるミュンヘンにも総統官邸は置かれた。ケーニヒ広場に面したナチス党本部である褐色館()の隣に置かれ、地下でつながっていた。現在はミュンヘン音楽・演劇大学の校舎となっている。

出典:wikipedia

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