新田 明臣(にった あけおみ、1973年7月23日 - )は、日本の男性元キックボクサー。東京都杉並区出身。バンゲリングベイ代表。実績のあるベテランファイターで、K-1 WORLD MAXといったメジャーな興行にも数多く参戦していた。かのラモン・デッカーに「最も強い日本人」といわしめ、デッカーの希望で引退試合の対戦相手に指名されたという逸話もある。新田がK-1などのリングで試合をすると、時に「新田軍団」とも形容される大規模な新田応援団の「新田!新田!」というリズミカルな応援が聞こえていた。1996年10月にニュージャパンキックボクシング連盟(NJKF)が全日本キックボクシング連盟から脱退。旗揚げ戦でNJKF初代ミドル級王座決定戦に出場し、船木鷹虎と対戦。判定勝ちし、初代王者になる。翌年4月6日に船木鷹虎と再戦し、判定勝ちで初防衛を果たすと、さらに翌年の5月31日に藤原鉄志(同級3位)に3R2:28KO勝ちで2度目の防衛を果たした。2000年4月27日付けで、全日本キックボクシング連盟から同団体のミドル級王者に認定される。これは同年2月20日に藤原鉄志(全日本ミドル級2位)に3R1:12KOで、3月16日にモハメッド・オワリ(ベルギー / WPKL世界ウェルター級王者)に5R判定2-1で勝利した実績が認められたため。2000年5月6日、イタリアのミラノにあるパラリド・スタジアムで行われたWKAムエタイ世界スーパーウェルター級王座決定戦で、ステファノ・ストラディーラ(イタリア)を左ミドルキックの連打で戦意喪失に追い込み、3R2:50TKO勝ちで新王者になった。2000年11月1日、後のK-1 WORLD MAXになる、K-1 J・MAXに初参戦。髪を青く染めて「20世紀最強のキックボクサー」といわれるオランダの強豪、ラモン・デッカーと対戦。5R判定1-0で引き分けに終わった。試合後のインタビューでは、デッカーに「最も強い日本人」と言わしめた。2001年12月9日、「全日本ミドル級タイトルマッチ/K-1 WORLD MAX日本大会出場者決定戦」で清水貴彦(同級1位)と対戦。5R判定1-1で、引き分けで防衛を果たし、K-1 WORLD MAX出場を決めた。試合前に実の妹を病気で亡くし、試合後は「もし負けたらキックをやめて、妹の四十九日を僕の引退記念日にしようと思ってました」と発言した。2002年2月11日、『K-1 WORLD MAX 〜日本代表決定トーナメント〜』に参戦。1回戦で大野崇から左ハイキックを顎に喰らい、1R2:28KO負け。2003年、東京都練馬区旭が丘(江古田駅)に自身のジム「バンゲリングベイ」をオープンした。2005年2月23日、『K-1 WORLD MAX 2005 〜日本代表決定トーナメント〜』のリザーブファイトでASH-RAと対戦し、右ローキックで2度のダウンを奪い、2R2:10KO勝ち。武田幸三が1回戦終了時に右脛を痛め棄権したため、代わりに準決勝に進出。村浜武洋を3R判定3-0で下すと、決勝戦で小比類巻貴之と対戦。右上段前蹴りを顎に喰らい、1R0:36KO負けし、準優勝に終わった。実は2人は1997年12月21日にJ-NETWORK旗揚げ戦で対戦しており、その時は新田が右ローキックで4RKOを収めていた。2005年7月20日、『K-1 WORLD MAX 2005 〜世界一決定トーナメント決勝戦〜』のワンマッチに出場し、朴光哲と対戦し、3R判定3-0で勝利した。10月12日、『K-1 WORLD MAX 2005 〜世界王者対抗戦〜』でイアン・シャファーと対戦し、3R判定0-3で敗北した。2004年11月28日、ヴェルファーレで行われた『FUTURE FIGHTER IKUSA 6 〜宙(SORA)〜 GANGSTAR☆Z@Velfarre』に参戦。DAVIDとU70初代戦王決定戦を行い、5R判定3-0で勝利し初代戦王になった。なお、チャンピオンベルトの代わりに日本刀とカップが授与された。試合後のインタビューでは、習ったことが生かせず動けなかったことから、試合を「最低の内容」と自ら評した。2006年4月28日、新日本キックボクシング協会「TITANS 3rd」でアリ・デュンヤルに判定負け。2007年1月21日、新宿FACEで行われた「ベニー"THE JET"ユキーデ・プロデュース 武頼漢 -BURAIKAN- J・BOY!」のUKF世界ミドル級王座決定戦で、マジット"THE MAGIC MAN"(アメリカ合衆国 / パキスタン)を判定2-0で破り、2代目王者になった。2007年3月4日、『BATTLES OF FATE 2007』でクンタップ・ウィラサクレックの保持するM-1スーパーウェルター級王座に挑戦し、5R判定0-3負け。2008年1月13日、バンゲリングベイ主催のキックボクシング興行でヤン・カシューバと対戦し、判定負け。この試合を最後に現役を引退した。格闘競技の引退以前から、プロレスや映画、ドラマなどで様々なパフォーマンスを繰り広げてきたが、キックボクシング引退以降は、様々な活動をしている。2007年11月11日には、栃木県宇都宮市の明保野体育館における無我(当時)とキックボクシングの合同興業「FIGHTING LIVE」で、親交のある藤波辰爾とタッグを組んでヒロ斎藤&長井満也組とプロレスの試合を行った。また、2008年7月27日、念願だったファイティングオペラ「ハッスル」に出場。同じくハッスルの2008年9月15日、茨城県筑西市下館体育館でボノちゃんとタッグを組み、タッグマッチにてザ・ゴールデン・カップス&ザ・ピラニアン・モンスターに勝利した。現在は、自身の運営するキックボクシングジム「バンゲリングベイ」を運営する株式会社バンゲリングベイSの代表取締役、バンゲリングベイから発信する非営利活動の本拠となるNPO法人バンゲリングベイの代表理事を務め、2011年6月よりIT'S SHOWTIME JAPAN の役員を務める。
出典:wikipedia
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