大村 益次郎(おおむら ますじろう、 文政8年5月3日(1824年5月30日) - 明治2年11月5日(1869年12月7日)は、幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者である。維新の十傑の一人に数えられる。長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされることも多い。元の名字は村田、幼名は宗太郎、通称は蔵六、良庵(または亮庵)、のちに益次郎。雅号は良庵・良安・亮安。諱は永敏(ながとし)。位階は贈従三位、後に従二位。家紋は丸に桔梗。周防国吉敷郡鋳銭司村字大村(現・山口県山口市鋳銭司)に村医の村田孝益と妻うめの長男として生まれる。天保13年(1842年)、防府で、シーボルトの弟子の梅田幽斎に医学や蘭学を学び、翌年4月梅田の勧めで豊後国日田に向かい、4月7日広瀬淡窓の私塾咸宜園に入る。1844年6月まで漢籍、算術、習字など学ぶ。同年、帰郷して梅田門下に復帰後、弘化3年(1846年)、大坂に出て緒方洪庵の適塾で学ぶ。適塾在籍の間に長崎の奥山静叔のもとで1年間遊学し、その後帰阪、適塾の塾頭まで進む。嘉永3年(1850年)、父親に請われて帰郷し、四辻で開業し、村医となって村田良庵と名乗る。翌年、隣村の農家・高樹半兵衛の娘・琴子と結婚した。嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国のペリー提督率いる黒船が来航するなど、蘭学者の知識が求められる時代となり、大村は伊予宇和島藩の要請で出仕する。ただし宇和島藩関係者の証言では、大村はシーボルト門人で高名な蘭学者の二宮敬作を訪ねるのが目的で宇和島に来たのであり、藩側から要請したものでないという。宇和島に到着した大村は、二宮や藩の顧問格であった僧晦厳や高野長英門下で蘭学の造詣の深い藩士大野昌三郎らと知り合い、一級の蘭学者として藩主に推挙される。このとき藩主伊達宗城は参勤交代で不在、家老も京都へ出張中であった。宇和島藩の役人たちは、益次郎の待遇を2人扶持・年給10両という低い禄高に決めた。しかし、このあと帰ってきた家老は役人たちを叱責し、100石取の上士格御雇へ改めた。役人たちにしてみれば、高待遇の約束といった事情も説明せず、汚い身なりで現れた益次郎に対して、むしろ親切心をもってした待遇であったらしい。大村は宇和島藩で西洋兵学・蘭学の講義と翻訳を手がけ、宇和島城北部に樺崎砲台を築く。安政元年(1854年)から翌安政2年(1855年)には長崎へ赴いて軍艦製造の研究を行った。長崎へは二宮敬作が同行し、敬作からシーボルトの娘で産科修行をしていた楠本イネを紹介され、蘭学を教える。イネは後年、大村が襲撃された後、蘭医ボードウィンの治療方針のもとで大村を看護し、最期を看取っている。宇和島では提灯屋の嘉蔵(後の前原巧山)とともに洋式軍艦の雛形を製造する。ただし、わずかな差で国産初ではない(国産第1号は薩摩藩)といわれている。大村はこの謙虚で身分の低いほとんど無学の職人・嘉蔵の才能に驚かされたという。この頃、村田蔵六(蔵六は亀の意)と改名する。安政3年(1856年)4月、藩主伊達宗城の参勤にしたがって江戸に出る。同年11月1日、私塾「鳩居堂」を麹町に開塾して蘭学・兵学・医学を教える(塾頭は太田静馬)。同16日、宇和島藩御雇の身分のまま、幕府の蕃書調所教授方手伝となり、外交文書、洋書翻訳のほか兵学講義、オランダ語講義などを行い、月米20人扶持・年給20両を支給される。安政4年(1857年)11月11日、築地の幕府の講武所教授となり、最新の兵学書の翻訳と講義を行った。その内容の素晴らしさは同僚の原田敬策が「当時講武所における平書翻訳のごときは、先生(大村のこと)の参られてからにわかに面目を一新した次第で……新規舶来の原書の難文も、先生の前に行けばいつも容易に解釈せられ」と記しているように、当時では最高水準のもので、安政5年(1858年)幕府より銀15枚の褒章を受けた。同年3月19日には長州藩上屋敷において開催された蘭書会読会に参加し、兵学書の講義を行うが、このとき桂小五郎(のちの木戸孝允)と知り合う。これを機に万延元年(1860年)、長州藩の要請により江戸在住のまま同藩士となり、扶持は年米25俵を支給される。塾の場所も麻布の長州藩中屋敷に移る。文久元年(1861年)正月、一時帰藩する。西洋兵学研究所だった博習堂の学習カリキュラムの改訂に従事するとともに、下関周辺の海防調査も行う。同年4月、江戸へいったん帰り、文久2年(1862年)、幕府から委託されて英語、数学を教えていたヘボンのもとで学んだ。江戸滞在時には箕作阮甫、大槻俊斎、桂川甫周、福澤諭吉、大鳥圭介といった蘭学者・洋学者や旧友とも付き合いがあった。文久3年(1863年)10月、萩へ帰国する。24日、手当防御事務用掛に任命。翌元治元年(1864年)2月24日、兵学校教授役となり、藩の山口明倫館での西洋兵学の講義を行い、5月10日からは鉄煩御用取調方として製鉄所建設に取りかかるなど、藩内に充満せる攘夷の動きに合わせるかのように軍備関係の仕事に邁進する。一方では語学力を買われ、8月14日には四国艦隊下関砲撃事件の後始末のため外人応接掛に任命され、下関に出張している。26日の外国艦隊退去後、29日に政務座役事務掛として軍事関係に復帰、明倫館廃止後の12月9日、博習堂用掛兼赤間関応接掛に任命される。長州藩ではその風貌から「火吹き達磨」のあだ名を付けられた。このあだ名は周布政之助が付けたとも、高杉晋作が付けたとも言われている。長州藩では元治元年(1864年)の第一次長州征伐の結果、幕府へ恭順し、保守派が政権を握ったが、慶応元年(1865年)、高杉晋作らが馬関で挙兵して保守派を打倒、藩論を倒幕でまとめた。同年、大村は藩の軍艦壬戌丸売却のため、秘密裏に上海へ渡っている。この公式文書は残されておらず、わずかに残された大村本人のメモしか知ることが出来ないため、仔細不明である。福沢諭吉は自伝『福翁自伝』で、1863年の江戸における緒方洪庵の通夜の席での出来事として、と、長州藩士になりたての大村が過激な攘夷論を吐いたことに驚きと解釈している。大村自身が攘夷について言及した記録が他には見当たらないので真相は不明であるが、福沢と大村は元来そりが合わず、長州藩を攘夷の狂人扱いする福沢の物言いに立腹して口走ったのではないかという説もある高杉らは、西洋式兵制を採用した奇兵隊の創設をはじめとする軍制改革に着手、大村にその指導を要請する。桂小五郎(木戸孝允)の推挙により、大村は馬廻役譜代100石取の上士となり、藩命により大村益次郎永敏と改名する。「大村」は故郷の字から、「益次郎」は父親の「孝益」の1字をそれぞれとっている。このころ大村は精力的に、明倫館や宿舎の普門寺で西洋兵学を教授したが、特に彼の私塾であった普門寺は、普門寺塾や三兵塾と呼ばれた。ここでは大村はオランダの兵学者クノープの西洋兵術書を翻訳した『兵家須知戦闘術門』を刊行、さらにそれを現状に即し、実戦に役立つようわかりやすく書き改めたテキストを作成し、その教え方も無駄がなく的確であったという。慶応2年(1866年)、幕府は第二次長州征伐を号令、騒然とした中、明倫館が再開される。桂小五郎は同年5月に藩の指導権を握り、大村、高杉、伊藤博文、井上聞多(のち井上馨)らと倒幕による日本の近代化を図り、幕府との全面戦争への体制固めを行っていた。すでに3月13日、大村は兵学校御用掛兼御手当御用掛として明倫館で兵学教授を始めていたが、5月には近代軍建設の責任者となり、閏5月6日に大組御譜代に昇格、100石を支給され、名実共に藩士となる。大村は桂の意見を参考に、四方からの攻撃に備えるには従来の武士だけでなく、農民、町人階級から組織される市民軍の組織体系確立が急務であり、藩はその給与を負担し、併せて兵士として基本的訓練を決行しなければならぬと述べ、有志により結成されていた諸隊を整理統合して藩の統制下に組み入れ、5月22日には1600人の満16歳から25歳までの農商階級の兵士を再編した。さらに旧来の藩士らの再編を断行し、石高に合わせた隊にまとめ上げて、従卒なしに単独で行動できるようにして効率のよい機動性を持たせた軍を作るかたわら、隊の指揮官を普門塾に集めて戦術を徹底的に教えた。さらに、5月26日、青木群平を長崎に派遣して最新のライフル銃であるミニエー銃の購入させようとするが、これは幕府の横槍で不調に終わり、7月に桂が伊藤と井上を長崎のイギリス商人グラバーと交渉して、同盟関係に合った薩摩藩の協力もあってミニエー銃4300挺、ゲベール銃3000挺を購入する。6月に戦闘が開始される。大村は石州口方面の実戦指揮を担当する。その戦術は最新の武器と巧妙な用兵術に加え、無駄な攻撃を避け、相手の自滅を誘ってから攻撃を加えるという合理的なもので、旧態依然とした戦術に捉われた幕府側をことごとく撃破するなど、彼の軍事的才能が遺憾なく発揮されたものであった。6月16日、大村は中立的立場を取った津和野藩を通過して浜田まで進撃する。7月18日に浜田城を陥落させ、のち石見銀山を占領した。このとき、炎上する城を見て部下が出雲藩の救援を心配したが、大村は、赤穂浪士の討ち入りの故事を引き合いにして「決して雲州そのほかから無闇に応援に来るものではない、それでは事情が許さない。」と論理的に戦況を分析して断言し、皆を安心させた。長州藩の旧知で蘭学者の青木周弼は大村を評して「その才知、鬼の如し」と語ったという。他の戦線でも長州藩は優勢に戦いを進め、事実上の勝利のもとに停戦した。征討終了後、山口に帰還、12月12日海軍用掛を兼務する。海軍頭取前原彦太郎(のちの前原一誠)を補佐する。翌年には軍の編制替えを行うなど、その多忙さは変わることがなかった。慶応3年(1867年)、討幕と王政復古を目指し西郷吉之助、大久保一蔵ら薩摩藩側から長州藩に働きかけが行われた。藩内では討幕か否かに分立したが、大村は禁門の変や下関戦争の失敗から、薩摩の動きには用心すべきでもあり、今一度力を蓄え十分に戦略を立てた後、兵を動かすべきと慎重論を唱えた。だが、9月に大久保が長州に来て討幕を説得したことで藩内の世論は出兵論に傾く。10月27日、大村は掛助役に左遷され、出兵の実務に携わるが、「ああいう勢いになると、十露蕃(そろばん)も何も要るものじゃない。実に自分は俗論家であった。」と時局を見抜けない無知を反省する弁を残している。徳川慶喜による大政奉還後の明治元年(1868年)1月14日、鳥羽・伏見の戦いを受け、毛利広封が京へ進撃、17日に大村は随行する形で用所本役軍務専任となる。22日に山口を発ち、2月3日に大阪、7日に京都に到着する。その際、新政府軍(官軍)の江戸攻撃案を作成したと見られる。2月22日、王政復古により成立した明治新政府の軍防事務局判事加勢として朝臣となる。大村は京・伏見の兵学寮で各藩から差し出された兵を御所警備の御親兵として訓練し、近代国軍の基礎づくりを開始する。翌3月、明治天皇行幸に際して大阪へ行き、26日の天保山での海軍閲兵と4月6日の大阪城内での陸軍調練観閲式を指揮する。4月には、西郷と勝海舟による江戸城明け渡しとなるも、旧幕府方の残党が東日本各地に勢力を張り反抗を続けており、情勢は依然として流動的であった。このころ大村は、岩倉具視宛の書簡で関東の旧幕軍の不穏な動きへの懸念、速やかな鎮圧の必要と策を述べており、その意見を受け入れる形で、大村は有栖川宮東征大総督府補佐として江戸下向を命じられる。21日には海路で江戸に到着、軍務官判事、江戸府判事を兼任する。このころ江戸は、天野八郎ら旧幕府残党による彰義隊約3千名が上野寛永寺に構え不穏な動きを示したが、西郷や勝海舟らもこれを抑えきれず、江戸中心部は半ば無法地帯と化していた。新政府は大村の手腕を活かして混乱を収めようとしたのである。果して大村は制御不能となっていた大総督府の組織を再編成すべく、目黒の火薬庫を処分し、兵器調達のために江戸城内の宝物を売却、奥州討伐の増援部隊派遣の段取りを図るなど、矢継ぎ早に手を打っていった。さらに5月外国官判事大隈重信の意見を受け、幕府が注文した軍艦ストーンウォール購入費用25万両を討伐費に充てている。また5月1日には江戸市中の治安維持の権限を勝から委譲され、同日には江戸府知事兼任となり、いよいよ市中の全警察権を収めた。こうして満を持した大村は討伐軍を指揮し、5月15日、わずか1日でこれを鎮圧する。この上野戦争の軍議で薩摩の海江田信義と対立、西郷が仲介に入る場面があった。この席上で大村が発した「君はいくさを知らぬ」の一言に、海江田信義が尋常ではない怒りを見せたこと等が、海江田による大村暗殺関与説の根拠となっている。佐賀藩出身で軍監の江藤新平は自藩への手紙で「まことにもって天運なり。大武力御立て遊ばされ候らへば、これよりは御号礼も、さきざき相行われ申すべくと存じ奉り罷りあり候。西郷の胆力、大村益次郎の戦略、老練、感心に耐へ難く御座候」述べているように、この戦闘は、それまで世間には無名であった大村益次郎の名を広く世間に知らしめるものであった。同年6月4日、鎮台府の民政会計をも兼任し、従四位となる。関東北部での旧幕府残党勢力を鎮圧する一方で、江戸から事実上の新政府軍総司令官として指揮を行った。ここでは、前線から矢のように来る応援部隊や武器補充の督促を、彼独自の合理的な計算から判断し、場合によっては却下することもあった。また、白河方面の作戦を巡って大村は西郷と対立し、以降大村単独での作戦指導が行われた。戦争は官軍優位のまま続き、10月2日に軍功として大村は朝廷から300両を与えられる。同日の、妻・琴への手紙に「天朝より御太刀料として金三百両下し賜り候。そのまま父上へ御あげなさるべく候。年寄りは何時死するもはかりがたく候間、命ある間に早々御遣わしなさるべく候」と記し、父らへの配慮を示している。明治2年(1869年)、函館五稜郭で、榎本武揚らの最後の旧幕府残党軍も降伏し、戊辰戦争は終結、名実ともに明治維新が確立し、新しい明治時代が開かれた。明治2年(1869年)6月2日、戊辰戦争での功績により永世禄1500石を賜り、木戸孝允(桂小五郎)、大久保利通と並び、新政府の幹部となった。10月24日、軍務官副知事に就任、大村は軍制改革の中心を担い、明治2年(1869年)6月には政府の兵制会議で大久保らと旧征討軍の処理と中央軍隊の建設方法について論争を展開している。兵制会議は6月21日から25日にかけて開催された。そこで、藩兵に依拠しない形での政府直属軍隊の創設を図る大村らと、鹿児島(薩摩)・山口(長州)・高知(土佐)藩兵を主体にした中央軍隊を編成しようとする大久保らとの間で激論が闘わされた。大村は諸藩の廃止、廃刀令の実施、徴兵令の制定、鎮台の設置、兵学校設置による職業軍人の育成など、後に実施される日本軍建設の青写真を描いていた。そのための第1段階として3年間のうちに現在の藩兵を基にする軍の基礎づくり、第2段階として大阪に軍の基地、兵学校や武器工場を置いてハード面での組織作りを行った後、徴兵、鎮台制を置くという考えであった。大阪に着眼したのは、当時、東北の動向を心配する関係者に対して、大村が「奥羽はいま十年や二十年頭を上げる気遣いはない。今後注意すべきは西である。」と答えたように、西郷らを中心とする薩摩藩の動向が気になっていたためと言われ、すでに西南戦争を予想していたのである。だが、国民皆兵を目標とする大村の建設的な意見は周囲の理解を得られなかった。大久保は戊辰戦争による士族の抵抗力を熟知していたため、かえって士族の反発を招くと考え、岩倉具視らは農民の武装はそのまま一揆につながるとして慎重な態度をとっていたのである。この兵制論争中、6月21日段階での争点は、京都に駐留していた三藩の各藩兵の取り扱いをめぐってのものであった。大村を支持する木戸も、論争に加わり援護意見を述べたが、23日に大久保の主張に沿った形で、京都駐留の三藩兵が「御召」 として東下することが決定され、この問題については大久保派の勝利に終わった。また23日の会議では、先の陸軍編制法の立案者であり、大久保の右腕ともいえる吉井友実も議論に加わり、今後の兵卒素材についての議論も始まった。ここでも大久保・吉井らの主張する「藩兵論」と大村や木戸が主張する「農兵論(一般徴兵論)」が激しく衝突し、議論は翌日も続いた。しかし会議の結果、兵制問題は後日改めて議論することとされ、大村の建軍プランの事実上の凍結が決定され、この日、25日まで続く兵制論争がほぼ決着した。大村の建軍構想はこの会議の結果、ことごとく退けられることとなった。さらに25日には、大久保が大村の更迭を主張し始めている。憤懣やるかたない大村はほどなく辞表を提出したが、当時の政府内には、軍事に関して大村に代わるべき人物はなかった。そのため木戸も、二官八省への官制改革が行われる前日の7月7日に大村と面会し、彼を慰留するとともに改めて支持を約束し、軍務官を廃して新たに設置される兵部省に出仕することを求めた。その結果として、翌日大村は兵部大輔(今の次官)に就任することとなった。大村は「御一新は旧習を脱し、公家方を武家の風にいたし、強気にやる様のはずなしつるに、またまた卿とか大輔とか相唱へ、自然軟弱に陥り、追々武家も公家の方に引きつけらるべし」と皮肉を述べている。当時の兵部卿(大臣)は仁和寺宮嘉彰親王で、名目上だけの存在であった。大村は事実上、近代日本の軍制建設を指導してゆく。大村は戊辰戦争で参謀として活躍した「門弟」である山田顕義を兵部大丞に推薦し、彼に下士官候補の選出を委任した。山田は山口藩諸隊からを中心に約100名を選出し、9月5日からは京都に設けられた河東操練所において下士官候補の訓練を開始した。また大村は、明治2年(1869年)6月の段階で大阪に軍務官の大阪出張所を設置していたが、9月には同じく大阪城近くに兵部省の兵学寮を設け、フランス人教官を招いてフランス軍をモデルとする新しい軍を建設を始めた。このほか京都宇治に火薬製造所を、また大阪に造兵廠(大阪砲兵工廠)を建設することも決定された。このように大村が建軍の中核を東京から関西へと移転させたことについては、大阪がほぼ日本の中心に位置しており、国内の事変に対応しやすいという地理上の理由のほかに、自身の軍制改革に対する大久保派の妨害から脱するという政治的思惑によるものも大きかった。そのほか、大村が東北平定後の西南雄藩の動向を警戒し、その備えとして大阪を重視したとの証言もある。このように着々と既成事実を構築していた明治2年(1869年)、大村は軍事施設視察と建設予定地の下見のため、京阪方面に出張する。京都では弾正台支所長官の海江田信義が遺恨を晴らすため、新軍建設に不平を抱く士族たちを使って大村を襲うよう煽動する、などの風説が流れるなど不穏な情勢となっていた。木戸孝允らはテロの危険性を憂慮し反対したが、大村はそれを振り切って中山道から京へ向かう。同年8月13日に京に着き、伏見練兵場の検閲、宇治の弾薬庫予定地検分を済ませ、20日に下阪する。大阪では大阪城内の軍事施設視察、続いて天保山の海軍基地を検分する。9月3日、京へ帰る。翌4日夕刻、大村は京都三条木屋町上ルの旅館で、長州藩大隊指令の静間彦太郎、大村の鳩居堂時代の教え子で伏見兵学寮教師の安達幸之助らと会食中、元長州藩士の団伸二郎、同じく神代直人ら8人の刺客に襲われる。静間と安達は死亡、大村は重傷を負った。その時の疵は前額、左こめかみ、腕、右指、右ひじ、そして右膝関節に負ったのであるが、なかんずく右膝の疵が動脈から骨に達するほど深手であった。兇徒が所持していた「斬奸状」では、大村襲撃の理由が兵制を中心とした急進的な変革に対する強い反感にあったことが示されている。大村は一命をとりとめたが重傷で、7日に山口藩邸へ移送され、数日間の治療を受けた後、傷口から菌が入り敗血症となる。9月20日ボードウィン、緒方惟準らの治療を受け、大阪の病院(後の国立大阪病院)に転院と決まる。10月1日、大村は河東操練所生徒寺内正毅(のち陸軍大将、総理大臣)、児玉源太郎(のち陸軍大将)らによって担架で運ばれ、高瀬川の船着き場から伏見で1泊の後、10月2日に天満八軒屋に到着、そのまま鈴木町大阪仮病院に入院する。ここで楠本イネやその娘の阿高らの看護を受けるが、病状は好転せず、蘭医ボードウィンによる左大腿部切断手術を受けることとなる。だが手術のための勅許を得ることで東京との調整に手間取り、「切断の義は暫時も機会遅れ候」(当時の兵部省宛の報告文)とあるように手遅れとなっていた。果して10月27日手術を受けるも、翌11月1日に敗血症による高熱を発して容態が悪化し、5日の夜に死去した。享年46。臨終の際「西国から敵が来るから四斤砲をたくさんにこしらえろ。今その計画はしてあるが、人に知らさぬように」と船越衛に後事を託した後「切断した私の足は緒方洪庵先生の墓の傍に埋めておけ。」と遺言していた。大村死去の報を受けた木戸は、「大村ついに過る五日夜七時絶命のよし、実に痛感残意、悲しみ極まりて涙下らず、茫然気を失うごとし」(11月12日の日記)「実に実に痛嘆すべきは大村翁の不幸、兵部省もこの先いかんと煩念いたし候」(槙村正直宛の12月3日付の書)と、その無念さを述べている。11月13日、従三位を贈位し、金300両を賜る宣旨が下された。遺骸は妻・琴子によって郷里にもたらされ、11月20日に葬儀が営まれた。墓所は山口市鋳銭司にあり、靖国神社にも合祀されている。明治21年(1888年)に孫(養子の嫡男)の大村寛人は益次郎の功により子爵を授爵、華族に列せられた。大村の軍制構想は山田顕義、船越衛、曾我祐準、原田一道、大島貞薫らによってまとめられ、同年11月18日には兵部少輔久我通久と山田の連署で『兵部省軍務ノ大綱』として太政官に提出されている。大村の「農兵論」は、山田らによって、明治4年(1871年)に徴兵規則(辛未徴兵)の施行によって実行に移されるも、同規則も同年内には事実上廃棄されている。その後、兵部省(のち陸軍省)内の主導権が山田から山縣有朋に移った後、明治6年(1873年)に国民皆兵を謳った徴兵令が制定されることとなる。※日付=明治4年までは旧暦参考:大村益次郎先生伝記刊行会「大村益次郎」マツノ書店 1999年関係者の証言では大村の容貌は「人となり、短驅黎面(小柄で色黒)にして、大頭、広額、長眼、大耳、鼻梁高く、双眉濃く、髷を頭頂にいだき、常に粗服半袴をまとい」(水戸藩士鈴木大)とある。エドアルド・キヨッソーネによって描かれた肖像画があるが、死後に関係者の証言や意見をもとに描いたものである。大村を写した写真は、発見されていない。学術書
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。