小川 淳司(おがわ じゅんじ、1957年8月30日 - )は、千葉県習志野市出身の元プロ野球選手(外野手)。2010年シーズン途中から2014年シーズンまで東京ヤクルトスワローズの監督を務めた。中学時代は三塁手としてプレーし、目立った実績のないまま地元の習志野高校に進学。体が大きく肩が強かったため捕手にコンバートされたが、故障者が出たのをきっかけに1年生の秋に投手に転向した。肋間神経痛でも走り込みを休めなかったというほどの猛練習を積み、エースとなる。、2年生時の夏の甲子園県予選では、4回戦で銚子商の土屋正勝と投げ合い、0対2で惜敗。秋季関東大会ではベスト4に入り、翌春の選抜大会に出場したが、赤嶺賢勇を擁する豊見城高に一回戦で敗れた。同年夏の甲子園県予選では、準決勝で銚子商(前年夏の優勝メンバーでは篠塚利夫が残っていた)と再び対戦し、自ら2ランホームランを放って勝利。続く決勝では君津高を破って夏の選手権出場を決めた。選手権では3試合連続完封などの活躍を見せ、準決勝で肩を痛めながらも決勝で新居浜商に9回裏サヨナラ勝ち、8年ぶりの優勝を果たす。同年秋の三重国体では、決勝で新居浜商にまたも9回裏逆転サヨナラ勝ち、優勝を飾る。中央大学では外野手に転向し、東都大学リーグでは通算98試合出場、351打数80安打、打率.228、5本塁打、39打点の成績を残した。また、4年生のにはエース香坂英典を擁し春季リーグで5年ぶりに優勝。同年の全日本大学野球選手権大会でも決勝で早大を降し優勝。同じ中大から香坂、高木豊、熊野輝光らと共に同年の日米大学野球の代表に選ばれ、原辰徳、岡田彰布とともにクリーンアップを任されている。卒業後は河合楽器に進み都市対抗野球大会に2年連続出場、1981年のドラフト会議で4位指名されヤクルトに入団。1年目から一軍に定着するも、当初は対左投手要員として起用されることが多かった。1984年には右翼手の定位置を得て65試合に先発出場。翌年もレギュラーを守るが、1986年には故障もあり打撃が低迷。その後は荒井幸雄の入団、広沢克己の外野手転向もあって準レギュラーとして起用された。長打力に定評があり、3度の11本塁打をマークしている。1991年に戦力外通告を受け、1992年、角盈男との交換トレードにより日本ハムファイターズに移籍し、この年限りで現役引退した。からまでヤクルトのスカウトとして宮本慎也、石井弘寿などの獲得に携わる。からまでヤクルト二軍守備走塁コーチを務める。さらにからまで9年間の長きにわたり二軍監督を務めた後、高田繁が監督に就任したから一軍ヘッドコーチに昇格。、5月25日に高田が監督を辞任したことを受け、2日後の27日より監督代行に就任した。監督代行就任後は不振の原因となっていた打線のてこ入れに着手し、青木宣親の打順を1番へと再変更した。また、不振のアーロン・ガイエル、ジェイミー・デントナの両外国人選手を外し、打撃力はあるもののほとんど外野手の経験のなかった畠山和洋をレギュラー外野手として起用した。これらの采配が功を奏し、新戦力ジョシュ・ホワイトセルの活躍もあってチーム成績は急上昇した。監督代行就任期間の成績は59勝36敗3分、勝率6割2分1厘で、19あった借金を完済した上に4つの貯金を作り、クライマックスシリーズ(以下CS)進出争いにも加わった。この快進撃は、ヤクルト本社の製品にちなんで「メークミルミル」と呼ばれた。チーム再建の手腕が高く評価され、からは正式に監督への就任が決定した。なお、監督契約は2年となっている。また、同年8月2日に球団史上最速で監督通算100勝を記録した。この記録は球界全体で13位。4月から9月までは首位を走っていたが9月に故障者が続出、また宮本以外の主力に優勝経験者が不足していたこともあり、土壇場で10年ぶりの優勝を逃した。CSではルーキーの山田哲人を1番、青木宣親を4番に起用するなど、思い切った采配を見せたが、中日に2勝3敗で日本シリーズ進出を逃した。、開幕直後は中日と首位を争うが、5月に6勝15敗と大きく負け越す。交流戦では10連敗を記録、交流戦最下位となった。後半戦では2位の中日に9.5ゲーム差ながらも広島との3位争いを制する。CSでは貧打で中日に1勝2敗と敗退。特に第3戦では先発の村中恭兵を無失点にもかかわらず5回途中で降板させた采配がOBの豊田泰光から酷評された。、最下位でシーズン終了し、この年で契約が切れることもあって一部報道では辞任も報じられたが、続投となった。、2年連続で最下位に低迷し、9月22日に球団に申し入れ、今季限りで監督を辞任することを会見で表明した。10月31日に2015年から球団初のシニアディレクターに就任することが発表された。
出典:wikipedia
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