植村 義信(うえむら よしのぶ、1935年1月5日 - )は、兵庫県芦屋市出身の元プロ野球選手(投手)・プロ野球監督・プロ野球コーチ。芦屋高等学校では、杉谷和男(大映)の1学年下、本屋敷錦吾(阪急・阪神)の1学年上。2年生の夏から3回連続で甲子園に出場。1951年の選手権では準々決勝に進出するが、怪童・中西太を擁する高松一高に敗退。翌1952年の選抜では、2回戦で平安高に敗れる。同年の選手権は、準々決勝で森永勝治を擁する柳井商工を完封するなど順調に勝ち進む。決勝では八尾高の木村保に投げ勝ち初優勝を飾った。1953年に毎日オリオンズへ入団。エースナンバー18をつけ、2年目から一軍で活躍。4年目の1956年には19勝を挙げ、最高勝率のタイトルを獲得した。1957年の開幕戦では最少投球数(71球)で完投勝利を収めたが、その後は相次ぐ故障や赤痢の影響もあり、1961年に26歳の若さで現役を引退した。その後は、5球団で36年間にわたり指導者を務めた。1962年から1973年まで大毎・東京・ロッテ、1974年から1978年まで阪急、1979年にはヤクルト(シーズン途中で解任)、1980年から1983年まで日本ハム、1986年から1988年まで阪急、1989年から1991年までロッテ、1992年から1994年まで巨人(二軍担当)、1997年から2000年まで千葉ロッテでコーチを歴任した。1984年には大沢啓二前監督の推薦で日本ハムの監督に就任。キャンプから休日なしの熱血指導、門限の徹底などを行ったが、成績不振のためシーズン途中の6月で辞任した。コーチ時代は空手三段の特技を生かし、投球に空手の呼吸法を生かしたり、股関節や内転筋強化の特殊メニューを考案するなど、個性的なトレーニング法で知られた。監督・コーチ業の合間を縫って、関西テレビで解説(1995年 - 1996年)を行っていたほか、2011年までは少年野球・東京ベイボーイズの総監督を務めていた。
出典:wikipedia
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